一進一退の二人
4月3日、いよいよ桂子の転院の日がやって来た。
俺は一緒に行ってやると言っていたのに、結局、約束を守れなかった。
桂子の転院先は、かつて俺がコールセンターでの冤罪によって心を壊し、泥沼のような日々の中で入院していたあの病院だ。つい先日、桂子からその過去をなじられ、鋭い言葉で抉られたばかりの俺には、あの白い建物の門をくぐる勇気など微塵も残っていなかった。
「桂子、ごめんな。一緒に行ってやれなくて」
俯く俺に対し、準備を整えた桂子は意外なほどあっさりと言い放った。
「いいわよ、昭夫さん。あなたと一緒に行ったら、私が重症だと勘違いされて入院させられたら大変だわ。それに、あなたが先生とお話する時間だけ、私が先生とお話できなくなるものね」
今朝の桂子は妙に頼もしい。だが、俺が同行できない理由を察しての言葉かと思えば、相変わらずの毒を含んでいる。もう少しくらい「無理しなくていいわよ」といった、労わりの言葉はかけられないものだろうか。まあ、それが桂子という人間なのだが。
午後2時頃、桂子が帰宅した。
玄関の扉が開く音を聞き、「どうだった?」と駆け寄った俺に、彼女が真っ先に口にしたのは診断結果ではなく、担当医の容姿だった。
「昭夫さん、先生がすごく若くてイケメンだったのよ!」
高揚した声でひとしきり医師の端正な顔立ちについて語った後、彼女は急に子供のような顔で俺を見た。
「私、まだお昼ご飯を食べてなくて、お腹が空いちゃったわ。どうすればいいの?」
「お前な……俺はお前の専属シェフか何かなのか? しょうがない、待ってろ。今何か用意するから」
「わーい!」と声を上げて喜ぶ彼女の後ろ姿を見ながら、俺はキッチンへ向かった。さっきまでの重苦しい罪悪感が、馬鹿らしく思えてくる。
簡単な食事をテーブルに並べると、桂子は勢いよく箸を動かし始めた。俺は彼女の向かいに座り、気になっていたことを尋ねる。
「桂子、またそのイケメン先生は『推し』になったのか?」
「まさか。すごく若い先生よ。私がおばあちゃんくらいの年齢差なんだから」
「なるほどね。……それで、肝心の診察には満足したのか?」
桂子は少し箸を止め、真剣な表情を見せた。
「まだ結論は出ていないのよ。これから時間をかけて検査して、状況を見極めながら診断を下して、お薬も調整するんですって。大きい病院だし、しっかり向き合ってくれる感じがしたわ。信頼できるんじゃないかしら」
その言葉に、俺は胸の内で小さく息を吐いた。
かつて俺を絶望から救った(あるいは、さらなる混乱に陥れた)あの病院が、今の桂子にとっては「希望の光」に見えている。皮肉なものだが、彼女の病状が少しでも前向きな方向へ動き出したのなら、それでいい。
前進しているのは、今のところ桂子だけだ。
俺の方はといえば、彼女を支えることでしか自分を保てない「共依存の檻」に、さらに深く閉じ込められている気がしてならない。
この綱渡りのような生活がどこへ向かうのか、俺にはまだ見えていなかった。




