「善良」の処刑台
夕方の玄関のチャイムは、いつも処刑台へ向かう合図のように聞こえる。
再び眠りに落ち、コールセンターでの屈辱に苛まれる夢から覚めた俺は、一日中、泥のような倦怠感の中にいた。夕食の準備を整え、桂子の帰りを待つ。
朝のあの「殊勝な桂子」が、どうかまだそこにいてくれますようにと、神にもすがる思いで。
だが、扉が開いた瞬間に漂ってきた冷気に、俺の淡い期待は霧散した。
「ただいま。……はぁ、最悪。本当に最悪だわ」
靴を脱ぎ捨てる音が荒い。桂子はリビングに入ってくるなり、買ってきたばかりのコンビニの袋をテーブルに叩きつけた。
「おかえり、桂子。お疲れさま。大変だったのかい?」
努めて穏やかに声をかける。だが、桂子の瞳はすでに、朝のあの潤んだ感謝の光を失い、飢えた獣のような鋭さを帯びていた。
「大変? そんな言葉で片付けないでよ! 職場のあの女……私がちょっとミスしただけで、まるで犯罪者を見るような目で私を見たのよ! 周りのみんなもそう。ヒソヒソ笑って、私を追い出そうとしてるのよ!」
『犯罪者を見るような目』。その言葉が、俺の古傷を抉る。
コールセンターで、梶川さんが俺に向けた、あの蔑みと恐怖の混じった視線。派遣会社の担当者が向けた、汚物を見るような目。
「……それは辛かったね。でも桂子、君は悪くないよ。きっと誤解だ」
「誤解? 昭夫さんに何がわかるのよ! あなた、朝からずっとこの家で、のんびり寝ていたんでしょ? 私が外でどんな思いをして……。あぁ、そうよね。あなたは『アライグマ』を飼っているつもりなんですものね!」
ついに、朝のあの言葉が牙を剥いた。
「違うんだ、桂子。あれは俺の覚悟を……」
「覚悟? 笑わせないで! つまり、私は『言葉の通じない狂暴な生き物』だって言いたいんでしょ? 私を憐れんで、情けをかけて、聖人君子のつもり? 気持ち悪いわよ、昭夫さん。自分が職場で女の人にどんな目で見られたか、もう忘れたの? 社会から『いらない』って言われたのは、あなたのほうじゃない!」
桂子の言葉は、正確に俺の急所を貫いた。
朝のあの穏やかな時間は、彼女の中で「復讐のための弾丸」を込めるチャージ期間に過ぎなかったのか。
「……桂子。言い過ぎだよ」
「言い過ぎ? 本当のことを言われて、また被害者ぶるの? 噛みつかれて4針縫うおばさん? 結構じゃない。じゃあ、今すぐ噛みついてあげましょうか?」
桂子はガタリと椅子を鳴らして立ち上がると、充血した目で俺を睨みつけた。
その姿は、もう俺の愛した妻ではなかった。檻の中で追い詰められ、誰彼構わず喉笛を掻き切ろうとする、剥き出しの野生そのものだった。
俺はただ、震える手でテーブルの端を掴んでいた。
外では「加害者」として捨てられ、内では「被害者」としてなじられる。
俺の居場所は、この世界のどこにも残されていないようだった。




