かつての矜持と、震えるコード
パソコンの青白い光が、深夜の自室を虚しく照らしている。
俺が今向き合っているのは、海外向けECサイトの決済モジュールを調整するスクリプトだ。
かつての俺は、システムエンジニアとして大規模なプロジェクトを動かしていた。仕様書を読み解き、部下に的確な指示を出し、トラブルがあれば鮮やかに解決してみせた。その自負はあった。
だが、今の俺が営業担当の若造から振られたのは、その「お手伝い」という名の下請け作業だ。
「昭夫さん、元SEならこれくらい朝飯前ですよね? 海外クライアントが急いでるんで、明日までにレスポンシブの微調整、お願いしますよ」
営業の軽い口調が耳に残って離れない。
現役時代なら、ものの数分で構造を理解できたはずだった。しかし、今の俺の目は、最新のフレームワークや見慣れないライブラリの記述を追うだけで精一杯だ。
「……なんだ、この構文は。俺の知っているPHPじゃない……」
指が止まる。
以前なら呼吸するように打てたコードが、今は一文字進めるごとに、脳の奥が痺れるような感覚に襲われる。
集中しようとすればするほど、コールセンターで浴びせられた濡れ衣の奇声が、バグのように脳内にポップアップしてくる。
その時、リビングで大きな音がした。
ガシャン、と何かが割れる音。続いて桂子の悲鳴に近い声。
「ああっ! 昭夫さん、大変! キッチンペーパーで拭こうとしたら、お皿が……!」
俺は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「うるさい! 静かにしろと言っただろ! 今、大事なロジックを組んでるんだ!」
怒鳴り散らしたあと、激しい自己嫌悪が襲う。
キッチンへ行くと、桂子が先日「水に濡れても破れない」と自慢していたキッチンペーパーを握りしめ、粉々になった皿の前で立ち尽くしていた。
彼女の衝動的な家事の失敗と、俺の進まない仕事。
二人の歯車は、もう噛み合わなくなっている。
「……片付けは俺がやる。お前はもう寝ろ」
震える手で破片を拾い集める。
かつてキーボードを叩き、システムを構築していたこの指が、今は壊れた家庭の破片を拾っている。
明日までの納期。海外からのリクエスト。そして4月3日の転院。
俺は、本当に再起できるのだろうか。
画面の中で赤く点滅するエラーコードが、俺の人生そのもののように思えてならなかった。




