新しい仕事の準備と衝動買い
桜開花のニュースが流れる季節になった。日差しの温もりとは裏腹に、俺の心は冷え切ったままだ。
在宅ワークの習得には、想像以上のエネルギーを要する。ある日曜日、俺は自室に籠り、慣れないプログラミング言語の教本と格闘していた。
一字一句を頭に叩き込もうと集中している最中、ノックもなしにドアが勢いよく開いた。桂子だ。
彼女はスマホを握りしめ、唐突に親戚への不満をぶちまけ始めた。
「昭夫さん、聞いてよ。今、美菜さんからLINEで酷いこと言われたの。『今度の集まりには来ないでください、ご容赦ください』って。何よ、これ。差別じゃない! 私が病気だから?」
「……桂子、今、俺が何をしてるか見ればわかるだろ。新しい言語を覚えるのに必死なんだ。少しは時と場合を考えてくれ。頼むから、出ていってくれ!」
俺の語気が強まったことにショックを受けたのか、桂子は唇を震わせた。
「昭夫さんまで……。私のこと、お荷物だと思ってるんでしょ!」
彼女は泣きべそをかきながら、洗面所へ向かった。激しく顔を洗う音のあと、化粧をする気配がする。
外へ出るつもりか。今は構っていられない。静かになってくれるなら、それでいい――そう自分に言い聞かせ、俺は再び画面に向き合った。
夕方、帰宅した桂子の両手にはパンパンに膨らんだエコバッグが握られていた。嫌な予感がした。
「……桂子、それは何だ。買い物は必要なものだけにしろと言ったはずだろ」
「昭夫さん、見て。サラダほうれん草が安かったの。それにチェダーチーズ! こんなのあるって知らなかったわ。それからこれ、ニトリのキッチンペーパー。水に濡らしても破れないのよ、凄くない? 掃除が捗るわ。あー、買い物って最高の気晴らしね!」
差し出されたレシートは見なかったが、袋の中身は「今すぐ絶対に必要なもの」ではなかった。サラダほうれん草も、高級なチーズも、高機能なペーパーも、今の我が家の家計には贅沢品だ。
「いいか、よく考えろ。俺たちは今……」
説教を始めようとしたが、桂子の明るい表情を見て言葉を飲み込んだ。ここで蒸し返せば、また親戚の件で荒れ始めるだろう。
「……はーい。昭夫さんって、本当にケチね」
軽口を叩きながらキッチンへ向かう彼女の背中を見つめ、俺は深くため息をついた。
あと2週間で転院だ。環境が変わることで、この危うい衝動性が少しでも落ち着いてくれることを願うしかなかった。




