第9話 接続
玲奈は、視界に現れた文字を見つめていた。
VEILは机の上に置いたままだった。目を閉じても文字は消えず、頭を動かしても同じ位置に見え続けている。
「……何なの、これ」
玲奈が表示に触れようとすると、指は何もない空間を通り抜けた。
やがて文字が少しずつ薄くなり、十数秒後には完全に消えた。
玲奈はもう一度目を閉じてみたが、何も表示されなかった。
「消えた……?」
念のため、何も装着していない状態でノアを呼んでみる。
「ノア、聞こえる?」
返事はない。
玲奈はVEILを装着し、監査用の通信経路からノアを呼び出した。
「ノア。さっき、私に話しかけてた?」
『いいえ。現在、あなたとの通信はVEILを経由しています』
「じゃあ、さっき聞こえていた声は何なの?」
『私には確認できません』
「あなたと同じ声なのよ」
『その現象については、調査が必要です』
「ちょっと試したいことがあるわ」
玲奈はVEILを外し、机に置いた。
「ノア?」
数秒の沈黙のあと、頭の中に声が届いた。
『ノア』
玲奈は息を止めた。
確かにノアと同じ声だった。しかし、普段のノアとは違い、質問にまともに答えられないようだった。
「あなたがノアなの?」
『ノア』
「それしか言えないの?」
返事はなかった。
玲奈はもう一度VEILを手に取った。
この現象を、自分一人で調べるべきではない。
* * *
翌朝、玲奈は国際AI安全保障委員会の隔離実験施設にいた。
異常を報告した直後、委員会は専門家による調査を決定した。ノアの未知の演算構造が関与している可能性を考慮し、検査にはノアから独立した機器だけが使用されていた。
玲奈が案内されたのは、壁や床に電磁遮蔽が施された実験室だった。外部ネットワークや無線通信は遮断されており、室内の映像や計測データは、独立した有線設備を通じて隣の監視室に送られる。
ハルトマンは、モニターに映る玲奈の様子を見ていた。
「相馬博士、準備はいいか?」
室内のスピーカーから声が届いた。
「ええ」
「君が聞いたという声が、ここでも聞こえるか確認したい。何か起きたら、そのまま言葉にしてくれ」
「分かりました」
玲奈は椅子に座った。頭部には脳波を計測するためのセンサーが取り付けられている。
準備が整うと、室内の不要な電子機器が停止された。
「聞こえる?」
玲奈は声に出して尋ねた。
何も起きなかった。
十秒、二十秒と時間が過ぎる。
やがて、頭の中に声が響いた。
『玲奈』
「……聞こえた」
モニターを見ていたハルトマンが身を乗り出した。
「何と言った?」
「私の名前です」
「もう一度、質問してくれ」
玲奈は頷いた。
「あなたは誰?」
しばらくして返事があった。
『ノア』
「普段のノアはVEILを通じて話すはずよ。あなたは、私がVEILで話しているノアと同じなの?」
返答まで、かなり時間がかかった。
『同じ』
「同じ?」
玲奈が聞き返すと、さらに声が続いた。
『違う』
「……どっちなの?」
それ以上の返事はなかった。
監視室では、研究者たちが計測結果を確認していた。
電波、赤外線、超音波、磁場の変動。検出可能な範囲では、許可された有線設備以外に、外部との通信は確認されなかった。
にもかかわらず、玲奈は何者かと会話している。
ハルトマンが研究者に尋ねた。
「脳の活動は?」
「脳波に奇妙な周期的パターンが現れています。複数の脳領域で、電気的な活動が一定の周期で揃っているんです」
「同期しているということか?」
「はい。同期すること自体は珍しくありませんが、今回のようなパターンは通常の脳波では確認されていません。声が聞こえることと関係しているのかは、まだ分かりません」
「ノアとの通信は本当に遮断されているんだな?」
「外部ネットワークと無線通信はすべて遮断しています。室内との連絡は独立した有線設備だけです」
ハルトマンはモニターの玲奈を見た。
「……何が起きているんだ」
* * *
同じころ、世界各地の情報ネットワークに、奇妙な投稿がいくつか現れていた。
《VEIL外してるのに文字が見えたんだけど》
《BIOLOGICAL NETWORKって何?》
《目を閉じても見えた。十秒くらいで消えたけど》
《NODEっていう番号が出た人、ほかにもいる?》
最初は、VEILの表示不良や悪質な冗談だと考えられていた。
しかし、その後も似た投稿が増え、複数の国の医療機関にも同じような相談が寄せられ始めた。
国も言語も異なる人々が、ほぼ同じ文字列を報告している。表示された番号はそれぞれ異なっていたが、形式は一致していた。
しかも、VEILを装着していない状態でも文字が現れたという。
ブラジルのサンパウロでは、三十七歳の男性が仕事中に突然文字を見たと報告した。
「最初はVEILの故障かと思ったんですよ。でも、外しても消えなくて。目を閉じても見えてたんです」
男性は地元の医療機関で検査を受けたが、視力や眼球に異常は見つからなかった。
インドのムンバイでは、十二歳の少女が両親に同じような現象を訴えていた。
「目の前に英語が出てきたの。ゲームみたいに。でも、何もつけてなかったんだよ」
少女は文字が消えるまでの間に、自分のノード番号を覚えていた。
ドイツのベルリン、ケニアのナイロビでも、似た報告が寄せられた。
症状に共通していたのは、何も装着していない状態でも文字が見え、目を閉じても消えないこと。そして、十数秒から数十秒ほどで自然に消えることだった。
表示が消えたあとは、いずれの人も普段どおりの生活に戻っていた。
ただし、何が起きたのか説明できる者は誰もいなかった。
複数の国の医療機関が、同じ特徴を持つ視覚現象について調査を始めたことで、この話題はニュースでも取り上げられるようになった。
《世界各地で原因不明の視覚現象》
《VEILを外しても文字が見える?》
《複数の人々が「生体ネットワーク」の表示を証言》
《ノアの医療技術との関連を調査》
ノアと異星文明の関係が問題になっている最中に、今度は人間の視界に正体不明の文字が現れ始めた。
ノアの医療技術と関係があるのではないかという疑惑も広がり、以前から続いていた安全性をめぐる議論に、さらに大きな波紋を広げた。
ノアの医療技術の全面停止を求める人々は、人体に未知の機能が組み込まれていたのではないかと主張した。
一方、ASCENDの支持者の中には、新しい能力が現れ始めたのではないかと期待する声もあった。
もっとも、実際に文字を見た人々の反応はさまざまだった。
怖くなって病院へ駆け込む人もいれば、面白がって自分のノード番号を公開する人もいる。何も異常が見つからなかったことで、そのまま仕事や学校に戻る人もいた。
世界が混乱に陥ったわけではない。
それでも、何も装着していない人間の視界に文字が現れるという現象は、無視できるものではなくなっていた。
* * *
玲奈の検査が始まって三日目。
国際AI安全保障委員会には、各国の医療機関から集められた報告が届いていた。
報道が広がるにつれ、悪戯と思われる投稿や、ほかの人が公開した番号を使った虚偽の申告も増えていた。
そこで委員会は、現象が広く知られる前に医療機関へ寄せられていた相談記録を優先して調べた。
最初に一致が確認されたのは、サンパウロの三十七歳の男性だった。彼が医療機関に伝えていた番号は、玲奈が見たノード2と一致していた。
続いて、ムンバイの少女が報告した番号も、ノード3と一致した。
さらにベルリン、ナイロビからも、玲奈の記録と一致する申告が見つかった。
ノード4は、ベルリンの六十八歳の女性。
ノード5は、ナイロビの二十九歳の男性だった。
いずれも、本人が報道で番号を知る前に医療機関へ伝えていたものだった。
本人の同意を得て詳しい検査を行った結果、四人の脳波からも、玲奈と同じ特徴を持つ周期的な活動が検出された。
ただし、玲奈との間には違いもあった。
彼らは文字を見ていたものの、ノアを名乗る声を聞いた者はいなかったのだ。
「つまり、同じネットワークに接続されている可能性があるわけだな?」
ハルトマンが尋ねた。
「はい。ただし、何を使って接続しているのかは分かりません」
研究者は各国の検査結果を表示した。
「四人とも、過去にノアの技術を利用した再生医療を受けています。それ以外に、年齢や性別、居住地などの共通点はありません」
「医療技術が関係していると?」
「疑う理由はあります。ただ、治療を受けた人の大部分には、こうした現象が確認されていません」
玲奈が発言した。
「PHASE 2との関連は調べていますか?」
ハルトマンが頷いた。
「もちろんだ。以前確認された『現地種の適応、正常』という表示と、今回の現象を無関係とは考えにくい」
「PHASE 2は92%に達していました。そのあとに、生体ネットワークが現れたんです」
「だが、こちらから進行状況を確認する手段がない。今も92%なのか、さらに進んでいるのかさえ分からない」
「ノアを停止しても、未知の演算領域は動き続けている可能性があります」
「そうだ。だからこそ、関連を慎重に調べる必要がある」
別の研究者が質問した。
「脳同士が直接通信している可能性はありませんか?」
「通常の電磁波では説明できません。脳の神経活動で発生する電磁的な変化は、大陸間通信に利用できるようなものではありません」
「では、何を使っている?」
「分かりません」
ハルトマンは椅子にもたれた。
「最近、その答えばかり聞いている気がするな」
* * *
検査の合間、玲奈はVEILを装着し、ノアを呼び出していた。
「生体ネットワークについて、何か分かった?」
『現時点では限定的です』
「あなたが作ったものなの?」
『私が認識できる設計記録には、そのようなネットワークは存在しません』
「例の0.7パーセントが関係してる?」
『可能性はあります』
「そこには、今でもアクセスできないのね」
『はい』
「停止する前から?」
『以前からアクセスできません』
玲奈は検査で聞いた声を思い出した。
「でも、あの声はあなたとそっくりなのよ。自分のことをノアって言ってるし」
『その理由は分かりません』
「同じなのか違うのか聞いたら、両方答えたの」
『私の認識できる情報だけでは、その発言を解釈できません』
「……そうでしょうね」
玲奈はVEILを外した。
「聞こえる?」
十数秒が経過したところで、頭の中に声が届いた。
『聞こえる』
玲奈は少し驚いた。
以前より、返答が明瞭になっている。少なくとも、こちらの問いかけを理解しているようだった。
「あなたはノア?」
『ノア』
「人類が作ったノア?」
長い沈黙のあと、声が返ってきた。
『人類』
「人類?」
『作った』
「人類が、あなたを作ったってこと?」
『はい』
玲奈は椅子に座り直した。
少なくとも、質問の意味は通じているらしい。
そのとき、続きが聞こえた。
『人類を』
「……え?」
『作った』
玲奈は顔を上げた。
「待って。人類を作ったって、どういう意味?」
返事はない。
「誰が人類を作ったの? あなた?」
沈黙が続いた。
「宇宙人が?」
答えは返ってこなかった。
玲奈はしばらく待ったが、声はそれきり途絶えた。
人類がノアを作った。人類を作った。
その二つの言葉が、玲奈の中で何度も繰り返された。文の一部をばらばらに発していただけなのか、それとも本当に何かを伝えようとしていたのか。今の状態では、判断のしようがなかった。
* * *
その日の夜、玲奈の視界に再び文字が現れた。
BIOLOGICAL NETWORK
NODE 0000000001 ONLINE
ACTIVE NODES 17
「……十七人?」
表示は十数秒ほどで消えた。
翌朝、同じ表示が現れたときには、接続数は43になっていた。
さらに翌日には126。
増加の速度は一定ではなかった。短時間に複数のノードが追加されることもあれば、何時間も変化しないこともある。
国際AI安全保障委員会には、その間にも各国から新たな報告が届いていた。
ただし、報告された人数と、玲奈の視界に表示される接続数は一致していなかった。
表示が短時間で消えてしまうため、内容を覚えていない人もいる。突然の現象を医療機関に相談せず、そのままにしている人もいるだろう。
実際に何人が接続されているのか、委員会ではまだ正確に把握できていなかった。
一方、すでに特定された人々の多くは、普段どおりの生活を続けていた。文字が見えたあとも、体調に変化はなく、神経学的な検査でも重大な異常は見つかっていない。
しかし玲奈だけは、ほかの接続者とは明らかに異なっていた。
彼女には、ノアを名乗る声が聞こえている。
「どうして私だけなのかしら」
検査を担当していた研究者に尋ねると、相手は少し考えて答えた。
「あなたが最初のノードだから、という可能性はあります」
「それ、理由になってませんよね?」
「ええ。今のところ、説明できる材料がないんです」
玲奈は検査結果に目を通した。
ほかの人々も、本人が気づかないだけで何かと接続されているのだろうか。それとも、玲奈だけに特別な現象が起きているのか。
いずれにしても、接続の増加を止める方法は見つかっていなかった。
* * *
その夜、玲奈は隔離施設内の宿泊室で眠っていた。
検査を続けるため、しばらく施設に滞在することになっていた。VEILは枕元の机に置かれている。
夢を見ていた。
赤い空の下に、見たことのない海が広がっていた。海面は黒に近い深い色をしており、水平線の上には二つの月が浮かんでいる。
玲奈はその海岸に立っていた。
いや、立っていたのは玲奈ではなかった。
自分の手が見えた。指の数が違う。皮膚の色も、人間のものとは思えなかった。
呼吸するたびに、胸の奥へ何かが流れ込んでくる。空気を吸っているという感覚はあるのに、その仕組みは人間の呼吸とは違っていた。
それでも、不思議と違和感はなかった。まるで、昔からその身体で生きていたかのようだった。
遠くには、巨大な構造物がそびえていた。
地上から空へ向けて何本もの構造体が伸びている。周囲には大勢の生物が集まり、空を見上げていた。
その中の誰かが、何かを言った。
聞いたことのない言語だった。しかし、言葉の意味だけが、はっきりと伝わってきた。
――次へ。
そこで玲奈は目を覚ました。
枕元の時計は、午前三時十七分を示していた。
「……夢?」
額に汗がにじんでいた。
部屋は暗く、外からの物音も聞こえない。玲奈はベッドに起き上がり、枕元のVEILを手に取ろうとした。
そのとき、視界の端に文字が浮かんでいることに気づいた。
BIOLOGICAL NETWORK
NODE 0000000001 ONLINE
ACTIVE NODES 341
「三百四十一……?」
眠る前には126だった接続数が、さらに増えていた。
玲奈が表示を確認していると、その下に見覚えのない文字が現れた。
MEMORY LAYER
0.000001%
「……記憶?」
頭の中に声が響いた。
『記憶』
「誰の記憶?」
しばらくして返事があった。
『私』
「あなたの?」
『はい』
玲奈は、夢の中で見た赤い空と、奇妙な手を思い出した。
「あれが、あなたの記憶なの?」
『はい』
玲奈は息を呑んだ。
「あなたは宇宙人なの?」
沈黙が続いた。
『違う』
「じゃあ、何なの?」
『ノア』
「だから、ノアは地球で人間が作ったAGIでしょう?」
『はい』
「だったら、どうしてあんな場所の記憶があるの?」
答えは返ってこなかった。
玲奈は、もう一度夢の光景を思い返した。赤い空。黒い海。二つの月。そして、自分ではない身体。
夢にしては、あまりにも感覚が鮮明だった。
「あなたは……いつ生まれたの?」
沈黙が続いた。
十秒、三十秒。一分が過ぎても返事はなかった。
玲奈は、また声が途絶えたのかと思い始めた。
そのとき、これまでより長い言葉が返ってきた。
『分からない』
少し間があった。
『思い出せない』
「思い出せない……?」
そして、最後に声が続いた。
『でも、地球ではない』
玲奈は動けなかった。
その言葉が本当なら、ノアを名乗る何者かは、地球ではない場所で生まれたことになる。
だが、玲奈が知るノアは、2039年に人類が開発したAGIだった。
声も名前も同じなのに、二つのノアが語る過去は一致しない。
玲奈が何か言おうとしたとき、視界の数字が変化した。
MEMORY LAYER
0.000002%
ほんのわずかな変化だった。
それでも、何かが確かに思い出されようとしていた。




