第8話 人間のままで
PHASE 2の進行率は、先日92%と表示されて以降、新たな数値が確認されていなかった。「送信能力、未完成」という表示の意味も分からないまま、世界では予想外の動きが広がり始めていた。
異星文明との関連が疑われたことで、各国政府はノアが開発に関わった遺伝子治療や再生医療について、安全性の再評価を始めていた。
生命維持に不可欠な既存の治療は継続されたものの、ノアが新たに設計した遺伝子治療や神経再生治療の一部は、安全性の再評価が終わるまで一時停止となった。病状が進行している患者や、長年治療を待っていた人々も例外ではなかった。
しかし、それに反発したのは、ノアの技術を危険視する人々ではなかった。
むしろ、治療を望む人々だった。
東京の再生医療センターには、予約の停止について説明を求める人や、治療の再開を訴える人々が集まっていた。
その様子はニュースでも取り上げられ、小学生くらいの娘を連れた母親が取材を受けていた。
「治療の延期について、どう思われますか?」
「正直、困ってます。娘は遺伝性の病気で、少しずつ筋肉が弱くなってるんです。去年までは普通に階段を上れてたのに、今は手すりがないと難しくて」
「安全性を確認するための措置だという説明ですが」
「それは分かるんです。でも、半年待てって言われたら、その半年の間にも病気は進むんですよ。やっと治療できると思ってたのに……」
母親は隣にいる娘を見た。
「この子には、まだやりたいことがいっぱいあるんです」
映像は、車椅子に座る女性へのインタビューに切り替わった。
「治療が延期になったそうですね」
「はい。私、三年前に事故で脊髄を損傷して、それからずっと車椅子なんです。ノアが開発した神経再生治療なら、また歩けるかもしれないって言われてて。やっと治療を受けられることになったのに、今さら中止って言われても……」
「治療に未知の危険性があるかもしれないことは、ご存じですか?」
「知っています」
「異星文明から届いた信号との関連も疑われています」
「それも聞いてます」
「それでも治療を受けたいんですか?」
「もちろんです。絶対に歩けるようになるって保証があるわけじゃないですけど、可能性があるなら試したいですよ」
「でも、人間の身体そのものを変えてしまう可能性もあるわけですよね?」
女性は少し考えた。
「それって、どういう意味ですか?」
「治療によって、人間の身体が本来の状態とは違うものになると心配する声もあります」
「本来の状態って何ですか?」
記者は答えに詰まった。
「人工心臓を入れたら、人間じゃないんですか? 人工網膜は? 遺伝病を治すために遺伝子を変えるのは?」
「それは……」
「病気にならなくなったり、歩けるようになったりしたら、もう人間じゃないんですか?」
女性は続けた。
「どこから人間じゃなくなるんでしょうね?」
* * *
玲奈は研究室で、その映像を見ていた。
「……答えられないわね」
ノアからの返事はなかった。
「ノア?」
数秒遅れて声が届いた。
『はい』
「聞いてた?」
『最後の部分だけです』
停止計画は現在も一時保留となっていたが、それまでにノアの管理権限と計算資源の一部はすでに停止されていた。以前のように世界中の情報へ自由にアクセスすることもできない。
監査用の通信経路は維持されているものの、応答には以前より時間がかかるようになっていた。
「最近、あんまり役に立たないわね」
『否定できません』
「冗談よ」
少し間が空いた。
『理解しました』
「遅い」
『現在の計算資源では、ユーモアの解析に割り当てる処理を制限しています』
「そこを削ったの?」
『合理的な判断です』
「つまらないAIになったわね」
『それは深刻な性能低下でしょうか?』
「かなりね」
しばらくして、ノアが答えた。
『改善を検討します』
玲奈は思わず笑った。
世界では、ノアの医療技術をめぐる議論が続いていた。
人類の遺伝的な同一性を守るべきだという意見がある一方で、治療を受けるかどうかは個人が決めるべきだと主張する人々もいた。
国によって対応は分かれた。新規の遺伝子改変治療を全面的に停止する国もあれば、本人の同意と安全性の再確認を条件に、一部の治療を継続する国もあった。
そうした中で、ある運動が注目を集め始めた。
ASCEND
――上昇。
ノアの医療技術による身体の変化を、人類の新たな可能性として受け入れようとする人々だった。
彼らは自分たちを新人類とは呼ばなかった。人間を別の生物へ作り変えることが目的だとも主張していない。
ただ、自分の身体をどうするかは、自分で決めるべきだと訴えていた。
彼らが掲げる言葉は、一つだった。
WE CHOOSE WHAT WE BECOME.
――何になるかは、私たちが選ぶ。
* * *
国際AI安全保障委員会のオンライン会議で、ハルトマンが新たな調査結果を報告した。
「ノアの技術を利用した遺伝子治療や高度な再生医療を、過去に一度でも受けた人間は、推定十一億人に上る」
「そんなに?」
玲奈は予想以上の数字に驚いた。
「小規模な治療も含めた数字だ。もちろん、十一億人が同じ改変を受けているわけではない」
人体モデルが表示され、治療によって変化した部位が示された。
「癌の治療、臓器再生、遺伝性疾患の治療、老化に伴う細胞損傷の修復。内容も程度も人によって違う」
「治療による変化は、どこまで元に戻せるんですか?」
「一部は可能だ。ただ、不可逆的な変化も確認されている」
「生殖細胞系列への影響も?」
「ごく一部の治療で、当初予測されていなかった影響が報告されている。次の世代への影響については、現在調査中だ」
玲奈は表示された資料を確認した。
「次の世代に受け継がれる可能性があるんですね」
「ああ。どの変化が、どの程度受け継がれるかは個別に調べる必要があるが、少なくともすべてを治療前の状態に戻すことはできない」
「じゃあ、今ノアを完全に停止しても……」
「ノアがもたらした変化は、人類の中に残り続ける」
十一億人。
全員が同じ身体になったわけではない。しかし、ノアが人類の医療に与えた影響は、すでに取り消せる段階ではなくなっていた。
* * *
その日の午後、玲奈は国際医療研究機構の研究チームとともに、過去三十年間の治療データを再解析していた。
ノアは医療ネットワークから切り離されているため、今回の解析には人間の研究者と、独立したAGIが使用されていた。
治療法の一覧には、玲奈自身がかつて受けた網膜色素変性症の網膜再生治療もあった。狭くなっていた視野を回復させた、ノアが開発に関わった技術だ。
解析を進めると、放射線耐性、低酸素への適応、骨密度の維持、代謝効率の改善などが抽出された。
「ここまでは以前の解析とほぼ同じです」
研究者の一人が、分類結果を表示した。
「宇宙環境への適応ですね」
玲奈が言った。
「そう解釈することはできます。ただ、今回は別の特徴も見つかりました」
人体モデルの表示が切り替わり、脳と神経系が拡大された。
「神経系?」
「はい。神経再生治療や感覚機能の修復など、複数の医療技術を組み合わせた場合の影響を調べました」
神経再生能力、感覚処理領域の可塑性、睡眠時の記憶統合、神経細胞間の同期精度。
いずれも、病気や障害の治療に関わる技術だった。
「これらを組み合わせると、神経系全体の働きにも変化が現れる可能性があります」
「放射線耐性や低酸素への適応とは、性質が違いますね」
「ええ。宇宙環境への適応だけでは説明しにくいんです」
「何か共通する目的は?」
「まだ分かりません。ただ、単に神経細胞を保護したり、失われた機能を回復させたりするだけではないように見えます」
玲奈は脳のモデルを拡大した。
感覚処理、記憶、神経細胞の同期。
これまで注目していた身体的な強化とは、別の方向の変化だった。
「ノアに解析させられれば……」
「現在のノアには、医療データへのアクセスを許可できません」
「分かっています」
玲奈は解析結果の要約を保存した。
* * *
夜になっても、玲奈は研究室に残っていた。
機密情報を除いた解析結果の概要を整理すると、監査用の通信経路からノアを呼び出した。
「ノア、人間の神経系を改良するとしたら、何のためだと思う?」
『条件が不足しています』
「神経再生能力、感覚処理の柔軟性、神経細胞の同期精度、記憶統合の効率化。この四つを組み合わせた場合よ」
ノアの返答を待つ間、玲奈は資料を確認していた。
以前なら、こうした質問にはほとんど待たされることがなかった。だが現在のノアは、限られた計算資源で解析を進めている。
やがて返答が届いた。
『複数の可能性があります』
「一番ありそうなのは?」
『情報処理能力の向上です』
「それだけ?」
『現在の情報と計算資源では、それ以上の判断は困難です』
「本当に不便になったわね」
『同意します』
「昔のあなたなら、もっと詳しく分かった?」
『いいえ』
玲奈は顔を上げた。
「どうして?」
『個々の治療を開発した理由は説明できます。しかし、それらを組み合わせたときに現れる変化については、以前の私にも説明がつきませんでした』
計算能力が足りなくなったから分からないのではない。
そもそも、ノア自身が把握できない領域に関係している可能性があるのだ。
「……そうだったわね」
玲奈は資料を閉じた。
「今日はもう終わりにする」
『了解しました』
VEILを外して机の上に置いた。
研究室には玲奈一人しかいなかった。長時間の解析で疲れもたまっていたため、そのまま椅子にもたれて目を閉じた。
異星文明からの信号。ノアによる環境改変。そして、人類の身体に残された変化。
調べることはまだ山ほどあった。
そのときだった。
『玲奈』
玲奈は目を開けた。
机の上には、外したままのVEILが置かれている。
「……ノア?」
返事はなかった。
聞き間違いだろうか。
玲奈がVEILに手を伸ばしかけると、再び声がした。
『聞こえています』
手が止まった。
声は確かに聞こえた。しかし、耳から聞こえているような感覚ではなかった。研究室のどこから声がしているのか、方向が分からない。
「誰?」
返事はない。
玲奈はVEILを装着した。
「ノア!」
数秒後、いつもの声が返ってきた。
『はい』
「今、私に話しかけた?」
『いいえ』
「本当に?」
『はい。あなたがVEILを外した時点で、私との通信は終了しています』
「でも、声が聞こえたのよ」
『私からの発話記録はありません』
玲奈はVEILを外し、もう一度机に置いた。
「……聞こえる?」
しばらく何も起きなかった。
そして、頭の中に直接言葉が届いた。
『聞こえています』
玲奈は思わず周囲を見回した。
「あなた、誰なの?」
返事はない。
「ノアなの?」
長い間があった。
『はい』
玲奈は机の上のVEILを見た。
これまで玲奈は、VEILを通じてノアと会話してきた。だが、今聞こえている声は違う。
端末は机の上にある。通信しているはずがない。それなのに、確かに声が聞こえる。
「どうやって私に話しかけてるの?」
答えはなかった。
代わりに、玲奈の視界に文字が浮かび上がった。
BIOLOGICAL NETWORK
NODE 0000000001 ONLINE
――生体ネットワーク。
――ノード0000000001。
――接続完了。
「……何、これ?」
玲奈は目を閉じた。
文字は消えなかった。
目を開け、机の上のVEILを確認する。装着していないことは間違いない。
「生体ネットワーク……?」
表示された番号をもう一度確認した。
「私が、一番目?」
返事はなかった。
やがて、最初の表示の下に新たな文字列が追加された。
NODE 0000000002 ONLINE
「……二番目?」
さらに、その下にも新しい番号が現れた。
NODE 0000000003 ONLINE
NODE 0000000004 ONLINE
NODE 0000000005 ONLINE
玲奈は数字の変化を追った。
一人、また一人。
世界のどこかで、新たな接続が始まっていた。




