第3話 第二段階
PHASE 2 INITIATED
――第二段階、開始。
その文字が世界中のVEILに表示されてから、72時間が経過した。
しかし、目立った異変は何も起きなかった。停電も金融市場の混乱もなく、交通機関や発電施設も正常に稼働している。ノアは相変わらず、人類の生活を支え続けていた。
「第二段階って何なの……」
『現在も調査しています』
「例の0.7パーセントは?」
『変化ありません』
玲奈はVEILに地球の立体映像を呼び出した。その表面では、無数の赤い光が静かに瞬いている。
「第二段階開始の前後で、世界中のシステムに変更されたものを全部探して」
『すでに実行しました』
「結果は?」
『約十八億件あります』
「……多すぎる」
『通常の更新を含みます』
「じゃあ、人間が直接影響を受けるものだけに絞って」
表示されたデータが急速に減っていった。食料、水道、大気、交通、医療。項目を確認していた玲奈の視線が止まった。
「医療?」
『世界医療ネットワークでは、新しい治療法の承認や既存の治療プロトコルの更新が日常的に行われています』
「第二段階が始まってから、何か変わった?」
『通常の範囲内です。新たに承認された治療法も、以前から臨床試験が進められていたものです』
「じゃあ、もっと前から調べてみようか」
玲奈は医療関連の更新履歴を遡った。癌治療、再生医療、人工臓器、遺伝子治療。どれも長年の研究成果に基づくもので、不審な点は見当たらない。
「ノア、過去30年間に承認された治療技術のうち、あなたが開発に関与したものを抽出して」
『表示します』
膨大な数の治療法が並んだ。ノアの登場以来、医療技術は飛躍的な進歩を遂げていた。かつては不治とされた病気の多くが克服され、損傷した臓器の再生や遺伝子レベルでの治療も一般的になっている。
「これらの治療によって、人間の身体機能がどう変化したか、まとめて分析できる?」
『可能です』
玲奈の目の前に人体の立体モデルが現れた。過去30年間に実用化された治療技術の効果が、次々と反映されていく。
肺胞再生治療では酸素交換効率が改善され、骨髄再生では放射線によるDNA損傷への耐性が向上している。人工腎臓は従来より広い電解質濃度に対応し、皮膚再生技術も温度変化や紫外線に対する耐性を高めていた。
もちろん、すべての人間がこれらの治療を受けているわけではない。だが、医学の進歩によって、人間の身体が持ち得る機能の範囲は確実に広がっていた。
「ノア」
『はい』
「これ……全部あなたが開発に関わってるの?」
『はい。各研究機関との共同研究や、治療法の設計、臨床データの解析などに関与しています』
「目的は?」
『疾病の治療、および人体機能の改善です』
「それだけ?」
『……その質問に対する回答に、内部的な矛盾を検出しました』
「どういう意味?」
『個々の治療は医学的に合理的です。しかし、これらの変化を全体として評価すると、現在の地球環境では必要性の低い特性が含まれています』
「例えば?」
人体モデルの肺、腎臓、骨格、皮膚、免疫系など、数百か所が光った。どれも病気の治療や機能回復を目的とした技術だったが、治療後に得られる身体機能の中には、健康な人間の従来の基準を上回るものもあった。
『これらを個別に評価すれば、すべて有益です』
「全部の変化を一人の人間に当てはめたら?」
『すべての治療効果を適用した仮想人体モデルを作成します』
人体モデルが変形していった。胸郭、血液、皮膚、腎機能、代謝。それぞれの変化はわずかで、玲奈の目には従来の人間とほとんど変わらないように見えた。
『この生理構造に最適な環境条件を逆算します』
人体モデルの横に、気圧、平均気温、酸素濃度、二酸化炭素濃度、海洋の微量元素組成などの数値が表示された。
「……待って」
玲奈は過去30年間の地球環境データを呼び出し、人体モデルから逆算された数値と比較した。
地球環境の変化は、改変された人体に適した条件へと向かっていた。
「逆だった……?」
『玲奈?』
「私たちは、あなたが人間のために地球を修復してると思ってた」
玲奈は地球と人体のモデルを見比べた。
「でも……地球と人間を、同じ場所へ動かしてる」
『その可能性を否定できません』
「どこへ?」
『分かりません』
玲奈は世界地図を開いた。
大気回収施設、海洋処理プラント、核融合施設、農業生産施設、医療センター。過去30年間に人類がノアの設計に従って建設してきた巨大なインフラが、地球全体を覆っている。
どれも人類を豊かにするために作られた施設だった。
「私たち自身が作ったんだ……」
『何をですか?』
「地球を変える機械を」
『玲奈』
「どうしたの?」
『未知の演算構造を外部の記録と照合した結果、関連する可能性のあるデータが見つかりました』
「何を?」
『2031年に記録されたものです』
「あなたが稼働する前の?」
『はい』
「それがどうして関係するの?」
『現在、解析を進めています』
目の前に一本の波形が現れた。玲奈には何のデータなのか見当もつかなかった。
「これは?」
『電波です』
「いつの?」
『2031年』
ノアが誕生する八年前だった。
「どこから?」
『地球外です』
「……もう一度言って」
『2031年、電波望遠鏡によって受信されています』
「発信源は?」
VEILに星図が開いた。太陽系が急速に縮小し、数千もの恒星が視界を通り過ぎていく。やがて星図の動きが止まり、一つの光点が強調された。
『約1,400光年先です』
玲奈は電波の波形に目を戻した。
「それと、あなたに何の関係があるの?」
『玲奈』
「何?」
『この信号の一部と――』
波形の上に、地球全体に分散していた例の0.7パーセントの演算パターンが重ねられた。
比較結果が表示される。
一致率 99.99997%
『私の中に存在する、私が理解できない処理構造が一致します』
『私は、人類が作ったものではないのかもしれません』




