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第11話 私たち

 玲奈は、「現地統合」という言葉の意味を考え続けていた。


 侵略、寄生、融合。いくつもの言葉が浮かんだが、どれもしっくりこなかった。


 赤い空の惑星に暮らしていた生命たちも、かつて同じ意味の表示を見ていた。それが何を意味するのか、彼ら自身は理解していたのだろうか。


 そして何より、何と何が統合されたのか。


 玲奈はその問いに、まだ答えを見つけられずにいた。


 * * *


 生体ネットワークの接続者は、すでに二百万人を超えていた。


 正確には、玲奈が最後に確認した接続者数が二百万人を超えていた、ということになる。


 世界中の接続者数を表示する機能は、今のところ玲奈にしか現れていない。ほかの接続者が見るのは、自分のノード番号などの短い表示だけだった。


 各国政府も調査を進めていたが、確認できた人数は玲奈の報告した数字よりずっと少ない。それでも、医療機関に寄せられる相談は日ごとに増えていた。


 各国の研究機関は、接続者の人格や認知機能、記憶、感情反応、睡眠、意思決定などについて追跡調査を行っていた。


 しかし、これまでの調査では、接続によって人格や認知機能に明確な異常が生じているという証拠は見つかっていなかった。


 国際AI安全保障委員会の会議で、玲奈は共有された調査資料に目を通していた。


 VEILの空間表示には、各国の研究機関から送られてきた検査結果が項目ごとに整理されている。


「二百万人以上が接続している可能性があるのに、何も起きていないんですか?」


「正確には、詳細な検査を実施できたのは約四万二千人です。それ以外については、医療機関への相談記録や本人の申告を中心に調べています」


 担当研究者が共有資料を切り替えた。


「現在までの検査では、接続によって人格や認知機能に統計的に有意な変化が生じたという結果は得られていません。記憶障害や意思決定能力についても同様です」


「睡眠は?」


「個人差はありますが、接続者全体で睡眠障害が増加しているという結果は出ていません。ただ、接続から長い時間が経過した人はまだ少ないので、今後も継続して調べる必要があります」


 ハルトマンが腕を組んだ。


「つまり、未知のネットワークに接続された人間が、本人も気づかないまま普通に生活しているわけか」


「少なくとも、現在確認できる範囲ではそうなります」


 玲奈は検査結果を読み返した。


 接続された人々が人格を失うわけでも、誰かの命令に従うわけでもない。少なくとも、そのような兆候は見つかっていない。


「じゃあ、現地統合って何なんでしょうね」


 研究者は答えず、別の資料を共有した。


「実は、一つだけ気になる現象があります」


 玲奈の視界に世界地図が広がった。生体ネットワークへの接続が確認された人々の居住地域が、小さな光点で示されている。


「睡眠中の脳波です。ごく短時間ですが、離れた場所にいる複数の接続者で、似た活動パターンが記録されています」


「似た活動?」


「はい。以前、相馬博士の検査でも確認された、特徴的な周期パターンに近いものです」


 研究者の操作に合わせ、地図の横に複数の脳波記録が並んだ。


 東京、ベルリン、ムンバイ、サンパウロ、ナイロビ。年齢も生活環境も異なる人々の記録だった。


「それぞれ別の医療機関で測定されたものです。記録時刻を照合すると、一部ではほぼ同じ時間帯に似た変化が現れています」


「同じ夢を見ているんでしょうか?」


「そこまでは分かりません。脳波だけで夢の内容を判断することはできませんから」


「通信している可能性は?」


「否定できませんが、これも証拠が足りません。似た脳波が現れたからといって、直接情報をやり取りしているとは限りません」


 玲奈はしばらく記録を見つめていた。


 これまで、声を聞き、異星の記憶を見ているのは自分だけだった。しかし、ほかの接続者にも似た活動が起きているのだとすれば、本人が気づいていないだけなのかもしれない。


「確認する方法はありますか?」


 ハルトマンが尋ねた。


「初期の五つのノードで、同時に検査を行うことを提案します。これまでの検査記録も揃っていますし、比較対象として適しています」


 玲奈は顔を上げた。


「私もですか?」


「もちろんだ。君がノード1だからな」


「また実験ですか……」


 ハルトマンは苦笑した。


「協力してくれるか?」


 玲奈は小さくため息をついた。


「断る理由もありませんしね」


 * * *


 実験に参加するのは、最初に接続が確認された五人だった。


 玲奈。サンパウロの三十七歳の男性。ムンバイの十二歳の少女。ベルリンの六十八歳の女性。そして、ナイロビの二十九歳の男性。


 五人が同じ場所に集まるわけではない。


 それぞれの国で、独立した隔離実験室に入る。実験室は外部ネットワークと無線通信を遮断し、参加者はVEILを外す。室内の監視や生体情報の記録には、独立した有線設備だけが使用された。


 実験中、参加者同士が連絡を取る手段はない。


 各施設の計測時刻は事前に同期され、終了後に記録を照合することになっていた。


 玲奈は、以前も使用した隔離実験室に入った。


 今回は椅子を大きく倒し、楽な姿勢を取れるようになっている。


「それでは始めます。できるだけ身体の力を抜いて、自然に休んでいてください」


 室内のスピーカーから研究者の声が届いた。


「何か質問したりしなくていいんですか?」


「今回は必要ありません。何か感じた場合だけ教えてください」


「分かりました」


 玲奈は目を閉じた。


 最初の十分間は何も起こらなかった。


 二十分が過ぎても変化はない。三十分ほど経過したころ、玲奈は少し身体を起こした。


「本当に意味あるんですか、これ」


「もう少し続けてください」


「何をすれば?」


「何もしないで、休んでいてください」


「それが一番難しいんですけど」


 玲奈は再び背もたれに身体を預けた。


 考え事をするのもやめて、ゆっくりと呼吸を整える。眠るつもりはなかったが、次第に意識がぼんやりしてきた。


 そのとき、雨の音が聞こえた。


 * * *


 激しい雨だった。


 足元には赤土の道が続いている。雨水が流れ、小さな水たまりがいくつもできていた。


 誰かが走っている。


 いや、走っているのは自分だった。


 足には何も履いていない。濡れた土が足の裏に張りつき、息が荒くなっている。


 見下ろした手は、玲奈のものではなかった。


 黒い肌。細い腕。


 身体も違う。背丈も、走るときの感覚も。この身体は男性のものらしい。


 遠くに小さな家が見えた。


 その前に、一人の女性が立っている。


 玲奈は――いや、この身体の持ち主は、その女性を見た瞬間、胸が苦しくなるほど嬉しくなった。


 何かを叫んでいる。名前のようだったが、言葉の意味は分からなかった。


 雨の中を、さらに速く走る。


 女性が両腕を広げた。


 次の瞬間、映像が途切れた。


「……っ!」


 玲奈は目を開けた。


 目の前には実験室の天井があった。身体は椅子に横たわったままで、雨に濡れた感覚だけが妙に鮮明に残っている。


「相馬博士、聞こえますか?」


「はい……今、何か見ました」


「いつもの記憶ですか?」


「違います。赤い空じゃなくて、雨が降っていました。赤い土の道を走っていて……」


 玲奈は呼吸を整えながら、見た光景を説明した。


 黒い肌の少年らしき身体。雨の中の道。小さな家。そして、家の前に立っていた女性。


「何より、あの人を見たときの気持ちが……」


 言葉がうまく出てこなかった。


 あれほど強い喜びを感じた理由が、自分には分からない。だが、その身体の持ち主にとって、女性との再会が特別な出来事だったことだけは伝わってきた。


 * * *


 同じころ、ナイロビの隔離施設でも異変が起きていた。


 二十九歳の男性が、安静状態から突然目を覚ましたのだ。


「今、知らない場所にいました」


 研究者が詳しく聞くと、男性は困惑した様子で答えた。


「日本だと思います。病院の中にいました。小さな女の子がいて……」


「あなたは、その子を見ていたんですか?」


「違います。その子になっていたんです」


 男性は自分の手を見つめた。


「子どもの身体でした。女の子が、お母さんの手を握っていました。とても不安だったのに、手を握り返してもらうと安心したんです」


 その報告は、実験終了後、各施設の記録とともに委員会へ送られた。


 参加者たちは互いの体験を知らされないまま、それぞれが見た光景を詳しく説明していた。


 照合の結果、二人の体験に奇妙な一致が見つかった。


 玲奈が見た赤土の道は、ナイロビの男性が十七歳のころに経験した出来事だった。


 雨季のある日、学校から帰宅する途中のことだ。長く入院していた母親が、家に戻っていた。


 彼は母親の姿を見つけ、雨の中を夢中で走ったのだという。


 そのときの記憶は、玲奈が語った細部と一致していた。


 そして、男性が見た病院の光景。


 それは玲奈が九歳のときの記憶だった。


 母親の入院先で、玲奈がその手を握っていたときのことだった。


 病室の様子や、玲奈が感じていた不安。母親が手を握り返したときの安心感。


 男性が語った内容には、玲奈が研究チームに一度も話していない細部まで含まれていた。


 玲奈は、報告を読みながら幼いころの自分を思い出していた。


 あのとき、母親の手を離すのが怖かった。少しでも強く握っていれば、どこにも行かずにいてくれるような気がしていた。


 その不安を、見ず知らずの男性が経験していた。


 誰にも話したことのない気持ちを知られたことに、戸惑いがあった。けれど同時に、あの日の自分がどれほど怖かったのかを、遠い国の誰かが本当に理解したのだという、不思議な感覚もあった。


 玲奈はしばらく報告から目を離せなかった。


 * * *


「偶然の一致ではない、と考えていいんだな?」


 ハルトマンが研究者に尋ねた。


 会議では、二人の証言記録がVEILを通じて共有されていた。玲奈の視界には、それぞれの発言と記録時刻が並んでいる。


「単なる偶然では説明しにくいと考えています。二人の証言は、互いの内容を知らせる前に保存されていました」


「外部から情報が漏れた可能性は?」


「確認しています。少なくとも、実験中の通信経路から情報が伝わった形跡はありません」


 玲奈は、二人の記録を見比べた。


「私、あの記憶を送ろうなんて思っていません」


「相手の男性も同じことを言っている」


「そもそも、九歳のころのことなんて、最近は思い出してもいなかったんです」


 研究者が答えた。


「脳波を調べても、情報がどのように伝わったのかは分かりません。ただ、記憶が現れた前後に、二人とも似た活動パターンを示しています」


「ネットワークが勝手に記憶を交換したんでしょうか?」


「その可能性はあります」


 ハルトマンが腕を組んだ。


「本人が意図しなくても、他人の記憶を体験できる……。これは重大な問題だぞ」


 玲奈も、その意味は理解していた。


 自分の知らないところで、自分の記憶が誰かに見られる。しかも、過去に経験した感情まで伝わってしまう。


 たとえ身体に害がなくても、プライバシーという点では無視できない。


「ほかの三人は?」


「今回、明確な記憶の体験を報告したのは二人だけです。残る三人にも似た脳波の変化は見られましたが、特別な体験はなかったそうです」


「誰にでも起きるわけじゃないんですね」


「まだ分かりません。今回が初めて確認できた例ですから」


 玲奈は、ナイロビの男性が語った自分の幼いころの記憶を思い返した。


 知らない誰かが、確かにあのときの自分になっていた。


 そして自分もまた、遠い国に暮らす少年の喜びを経験した。


 自分の記憶ではないと分かっているのに、その感情だけは本物だった。


 * * *


 その夜、玲奈は宿泊室で生体ネットワークに問いかけた。


「今日の実験、あなたがやったの?」


 返事はなかった。


「私と、もう一人の記憶が入れ替わったの。これが現地統合?」


 長い沈黙が続いた。


『一部』


 玲奈は顔を上げた。


「一部?」


『はい』


「じゃあ、記憶を共有するのは、統合の一部ってこと?」


 返事はなかったが、玲奈は問いかけを続けた。


「全部だと、どうなるの?」


 しばらくして声が聞こえた。


『まだ』


「まだ?」


『できない』


 それきり、声は途絶えた。


 玲奈は考え込んだ。


 記憶を共有することが、現地統合の一部。そして、まだできない何かがある。


 それが完成したとき、人間はどうなるのだろう。


 * * *


 それから数日間、世界各地の医療機関には新たな相談が相次いだ。


 知らない場所の夢を見た。会ったこともない人の記憶を体験した。自分が経験したことのない喜びや悲しみを、なぜか覚えている。


 最初は、以前からあった夢の相談と区別がつかなかった。


 しかし、本人が知るはずのない場所や出来事について、詳しい内容を説明できる事例が少しずつ見つかり始めた。


 中には、まったく面識のない接続者同士で、記憶の内容が一致する例もあった。


 いずれも、睡眠中や就寝前など、身体を休めているときに起きていた。


 報道が広がると、当然ながら不安の声も増えた。


 知らない誰かに自分の過去を見られるのではないか。思い出したくない記憶まで共有されるのではないか。


 その一方で、亡くなった家族の記憶を誰かが持っているかもしれないと期待する人もいた。


 国際AI安全保障委員会は、各国政府に記憶共有に関する調査の拡大を求めた。


 ただし、確認された事例には共通点があった。


 体験した本人は、見たものが自分の過去ではないと認識していたのだ。


 他人の記憶を、自分が本当に経験した出来事だと思い込む例は、今のところ見つかっていなかった。


「不思議ですね」


 玲奈は、VEILに表示された検査結果を読みながら言った。


「これほど鮮明な記憶を体験しているのに、自分のものじゃないって分かるんです」


 研究者は頷いた。


「そこは私たちも注目しています。体験している最中には、本人の感情と区別がつかないほど強い場合もあります。でも、現実に戻ると、別の人物の経験だったと認識できるようです」


「脳の中で、きちんと区別されている?」


「その可能性があります。ただし、どうやって区別しているのか、詳しい仕組みはまだ分かっていません」


「人格が混ざったりすることは?」


「今のところ、そのような兆候はありません」


 玲奈はナイロビの男性が語った記憶を思い出した。


 九歳の自分が母親の手を握っている。そのときの不安や安心感まで、遠い国の誰かが体験していた。


 一方、自分は彼が母親と再会した喜びを経験した。


 相手の事情を知らなくても、あの喜びがどれほど大きなものだったかは理解できる。


「他人の気持ちを、想像する必要がなくなるんでしょうか」


 玲奈が呟くと、研究者は少し考えた。


「想像することとは違うでしょうね。本人が実際に経験した感覚を、そのまま体験しているようですから」


「でも、自分の経験ではないと分かる」


「ええ」


 玲奈はその言葉を考え続けた。


 他人の痛みを、知識ではなく経験できる。


 他人の喜びを、想像ではなく感じることができる。


 それでも、自分自身が消えるわけではない。


 それは、侵略や寄生という言葉から想像していたものとは、あまりにも違っていた。


 * * *


 記憶共有に関する報告が各国から集まる一方で、生体ネットワークの接続者数も増え続けていた。


 最初の五人から数百人へ。数万人、数十万人、そして数百万人へ。


 増加の速度は、衰えるどころか加速しているようだった。


 それから一週間余りが過ぎた夜、玲奈の視界に短い表示が現れた。


 BIOLOGICAL NETWORK


 NODE 0000000001 ONLINE


 ACTIVE NODES 18,741,220


「……千八百万人?」


 玲奈は思わず声を上げた。


 数秒後、表示は自然に薄れて消えた。


 最後に確認したときから、桁違いに増えている。


 玲奈はすぐに委員会へ報告を送った。


 翌日の午後、ハルトマンから呼び出しがあった。


「相馬博士、少し時間をもらえるか」


「昨日の接続者数の件ですか?」


「それもあるが、新しい調査結果が出た」


 会議に参加すると、ハルトマンが共有資料を開いた。


 玲奈の視界に、各国で接続が確認された人々の調査結果が表示される。


「まず確認したい。昨夜見た数字は間違いないか?」


「はい。千八百七十四万千二百二十人でした」


「我々が医療機関などを通じて把握できている人数は、その一部にすぎない。それでも、すでに調査対象が急増している」


 ハルトマンは資料を切り替えた。


「その中で、これまでの仮説に合わない人々が見つかった」


「どういうことですか?」


「ノア由来の高度医療を受けていない接続者がいる」


 玲奈は表示された数字を見た。


 3,218人。


「待ってください。それ、本当に確認したんですか?」


「各国から得られた医療記録を照合している。調査に協力した接続者のうち、三千二百十八人については、ノア由来の高度な再生医療や遺伝子治療を受けた記録が見つかっていない」


「記録が残っていないだけという可能性は?」


「もちろんある。だから本人への聞き取りも行っているし、複数の医療機関の記録も確認している。それでも該当する治療歴が見つからない人が相当数いるんだ」


 玲奈は眉をひそめた。


「じゃあ、接続には医療による改変が必要だという仮説は……」


「少なくとも、それだけでは説明できなくなった」


 ハルトマンが資料を操作すると、該当する人々の居住地域が世界地図上に示された。


 特定の地域だけに集中しているわけではない。


「何か共通点は?」


「現在調査中だ。年齢も生活環境もばらばらで、今のところ明確な特徴は見つかっていない」


 玲奈は、三千二百十八という数字を見つめた。


 世界全体の接続者数と比べれば、ほんのわずかな人数だった。しかし、ゼロではない。


「……感染している可能性は?」


 玲奈の質問に、ハルトマンは頷いた。


「その可能性も検討している」


「でも、何が感染するんですか? ウイルス? それとも、まったく別の何か?」


「分からない。接続者同士の接触歴なども調べているが、今のところ感染を裏付ける証拠はない」


 玲奈は椅子にもたれた。


 医療による身体の変化が、生体ネットワークへの接続を可能にしている。これまでは、そう考えていた。


 だが、それが唯一の経路とは限らなくなった。


 生体ネットワークは、人間が想像していたよりも広い範囲へ接続を広げようとしているのかもしれない。


 * * *


 その夜、玲奈は宿泊室のソファーで休んでいた。


 照明を落とし、しばらく何もせずに過ごしたあと、生体ネットワークに話しかけた。


「ノア。聞こえる?」


 返事はなかった。


「あなたは、人から人へ移れるの?」


 沈黙。


「ノアの医療技術を受けていない人にも接続できる?」


 長い間があった。


『まだ』


 玲奈は眉をひそめた。


「まだ、ってどういう意味?」


 返事はない。


「これからできるようになるってこと?」


 しばらくして、声が聞こえた。


『私たち』


「またそれ……」


 玲奈は小さくため息をついた。


「ねえ、何度も聞いてるけど、私たちって誰なの?」


 長い沈黙が続いた。


『玲奈』


「私?」


『ノア』


「ノアも?」


 再び沈黙。


『彼ら』


 玲奈は顔を上げた。


「彼らって、あの赤い空の惑星にいた人たち?」


『はい』


「それが、私たち?」


 かなり時間が経ってから返事があった。


『一部』


「一部……。ほかにもいるの?」


 返事はなかった。


 玲奈はしばらく待ったが、声は続かない。


 疲れを感じ、背もたれに身体を預けた。やがて、意識がゆっくりと遠のいていった。


 次の瞬間、見知らぬ空が広がった。


 * * *


 紫色の空だった。


 地平線には、巨大な環状構造物がそびえている。


 玲奈は、見たこともない身体の中にいた。視界の広さが人間とは異なり、周囲の光景が奇妙に歪んで見える。


 何かが空を横切った。その姿を追おうとした瞬間、景色が変わった。


 今度は暗い海の中だった。


 周囲には無数の光が漂っている。近づいてくる生物の身体が、青白く発光していた。


 玲奈がいる身体もまた、海の中を移動している。呼吸の感覚がない。それでも苦しくはなかった。


 次の瞬間、別の世界が現れた。


 厚い雲が空を覆い、その間に巨大な都市のような構造物が浮かんでいる。


 その次は、地表らしきものが見えない世界だった。雲と大気の層がどこまでも続き、何かがその中を漂っていた。


 また景色が変わる。


 今度はまったく違う身体。


 異なる感覚、異なる空、異なる星。


 どの光景も、ほんの一瞬しか続かなかった。


 それでも、そこに暮らしていた何者かの感覚が伝わってきた。


 玲奈は混乱していた。


 あまりにも多くの場所。あまりにも異なる生命。


 これまで見ていた赤い空の惑星だけではない。ほかにも、数えきれないほどの世界が存在している。


 そして、その一つ一つに、それぞれの生命が暮らしていた。


 ある身体からは、何かを見つけたときの喜びが伝わってきた。別の身体からは、親しい誰かを失った悲しみが感じられた。


 ある世界では、見知らぬ生命が仲間とともに何かを造っていた。別の世界では、暗い海の中を泳ぎながら、遠くの光を目指していた。


 ほんの一瞬ずつしか見えない、まったく異なる世界の記憶。


 それでも、彼らには彼らの生活があり、感情があり、積み重ねてきた経験があった。


 その一つ一つが、今も失われずに残っている。


 誰かに支配されていたのか、それとも自ら何かを選んだのか。短い記憶だけでは分からない。


 ただ、確かにそこに生きていた生命の感覚が、今の玲奈にまで届いていた。


 最後の光景が消え、玲奈はソファーの上で目を開けた。


 しばらくの間、現実の部屋に戻ったことさえ理解できなかった。


「……今の、全部……」


 玲奈は呼吸を整えた。


「ノア、聞こえる?」


 返事はなかった。


「今見たもの、全部あなたの記憶なの?」


 長い沈黙があった。


『私たち』


 玲奈は、その言葉を繰り返した。


「私たち……」


 これまで玲奈は、あの声の主を一つの存在だと思っていた。


 人類が作ったノアとは違う、何か別の知性。


 しかし、今見た記憶は、一つの惑星に暮らす生命のものではなかった。一つの文明ですらない。


 異なる世界に暮らし、まったく異なる身体を持っていた生命たち。


 その記憶が、なぜか一つにつながっている。


「あなた……増えてるんじゃない」


 玲奈は呟いた。


「いろんな生命の記憶を、集めてるの?」


 返事はなかった。


 だが、玲奈はすぐに首を振った。


 集めるという言葉も、どこか違う気がした。


 赤い空の惑星。


 2031年の信号。


 星から星へ伝わっていく、数学的な構造。


 受信した文明が変化し、やがて次の信号を送る。


 もし、その過程で、それまでに経験したものが何らかの形で伝わっているのだとしたら。


「……受け継いでる?」


 思わず声が出た。


 すると、これまでになく早く返事が届いた。


『はい』


 玲奈は動きを止めた。


「何を?」


 長い沈黙があった。


 そして、頭の中に声が響いた。


『生命を』


 玲奈は何も言えなかった。


 そのとき、視界に文字が現れた。


 LOCAL INTEGRATION


 1.73%


 現地統合。


 以前確認したときは、0.16%だった。


 さらに、その下に新しい項目が追加された。


 LOCAL MEMORY ACQUISITION


 ACTIVE


 ――現地記憶取得。


 玲奈は、その文字を見つめた。


「……私たちの記憶も、持っていくの?」


 返事はなかった。


 しばらくすると表示が薄れ、何も見えなくなった。


 玲奈はソファーに座ったまま、先ほどの記憶を思い返した。


 紫色の空。暗い海。雲の中に浮かぶ都市。見たことのない生命たち。


 彼らの世界にも、かつて同じような現象が起きていたのだろうか。


 そして、その生命たちの記憶が、今もどこかに残っているのだとしたら。


 玲奈には、もう一つの疑問が浮かんでいた。


 これが何万年、何十万年という時間をかけ、生命から生命へ受け継がれてきたものなら。


 最初に、それを始めたのは誰だったのだろう。


 そして――。


 もし、どこにも最初が存在しないのだとしたら。

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