表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/94

60

白い壁のひびに耳を近づけたまま、らいらいは落ちてきたメモの山の前で、しばらく動かなかった。


手のひらの上で、ひとつの言葉だけが重く残っていた。


『ごめん』


それは短いのに、ほかのどの言葉よりも持ち上がらなかった。

軽く言えばこわれそうで、強く握れば消えそうで、らいらいはまるで小さな星を持つみたいに、そっと胸の前へ運んだ。


すると、床に散らばっていた未完成の文字たちが、じわじわと集まりはじめた。



三つの文字は、床の上でまっすぐ並ばず、少しずつずれていた。

まるで、言いたかったのに言えなかった時間そのものみたいに。


ひびの奥から、あの懐かしい声がまたした。


「その言葉は、遅すぎたんじゃない。置き去りになっていただけだよ」


その瞬間、白い部屋の空気がやわらかくゆがんだ。

消しゴムの未完成管理係が、壁の角に半分だけ隠れながら、びくっと肩をふるわせる。


「うわっ、それ選んじゃったか……」

「だめ?」

らいらいが聞くと、消しゴムは困ったように目をそらした。


「だめじゃない。むしろ、いちばん奥まで行けるやつだよ。ただ……その記憶、ちょっと痛いかも」


らいらいが『ごめん』の文字に指先を触れた。


その瞬間、白い床が水みたいに波打って、景色が下へ沈んでいく。

メモの山も、ひびも、逃げかけていた消しゴムも、全部やわらかい光の底へ流れていった。


次に足が着いた場所は、夕方だった。


オレンジ色の空。

どこかの帰り道。

電柱の影が長く伸びて、風が少しだけ冷たい。


らいらいは知っていた。

ここは夢じゃない。

これは、言えなかった後悔の記憶の入口だ。


少し前を、誰かが歩いている。


背中だけが見える。

振り向かないまま、だんだん遠ざかっていくその人に、らいらいはなぜか強く胸をしめつけられた。


「待って」


声は出た。

でも、そのときの記憶のらいらいは、実際には呼び止めなかったらしい。

景色の中の自分はただ立ち尽くしていて、靴の先で地面を見つめたままだった。


空気のどこかから、さっきの懐かしい声がささやく。


「このとき、ほんとは何を言いたかったの?」


らいらいは答えようとして、喉の奥がつまるのを感じた。


ありがとう、かもしれない。

さみしい、だったかもしれない。

行かないで、だったかもしれない。


でも、そのどれより先に、胸の底から浮かび上がったのは、やっぱりそれだった。


『ごめん』


その一言が、当時は言えなかった。


強がったから。

相手のせいにしたから。

まだ次があると思ったから。

言わなくても伝わっていると、勝手に思っていたから。


記憶の夕暮れの中で、遠ざかっていた背中がふいに止まる。


振り向かないまま、その人が言った。


「ほんとは、待ってたよ」


らいらいの心臓が、どくんと大きく鳴った。


「一言でよかった」

「怒ってても、泣いてても、変な言い方でもよかった」

「でも、君は飲みこんだ」


夕焼けの道に、小さな紙切れが何枚も落ちているのが見えた。

らいらいが拾うと、全部に中途半端な言葉が書いてある。


『また今度』

『別にいい』

『なんでもない』

『平気』

『ちがう』

『いや』

『……』


どれも、本当の言葉の手前で止まっていた。


らいらいは、その紙を胸に抱えたまま、一歩だけ前へ出た。


すると、景色の中の“過去のらいらい”が、はじめてこちらを向いた。


同じ顔なのに、今より少し幼くて、今より少し不器用で、でも同じように必死に何かを守ろうとしていた顔。


過去のらいらいが言う。


「言ったら終わる気がした」

「弱いと思われる気がした」

「許してもらえない気がした」

「だから、黙った」


今のらいらいは、その自分を見て、なぜか責められなかった。


責めるより先に、わかってしまったからだ。

あのとき黙ったのは、冷たかったからじゃない。

怖かったからだ。


ほんとうは、失いたくなかったから。


その理解が胸に届いた瞬間、『ごめん』の文字が手の中であたたかくなった。

三文字が光って、夕方の道にやさしくひろがっていく。


そして、遠ざかっていたあの背中が、ようやく振り向いた。


顔は、はっきり見えなかった。

大事な人の顔は、記憶の中では時々、光でできている。


でも、その表情だけはわかった。


怒っている顔ではなかった。

悲しい顔でもなかった。


ずっと、待っていた顔だった。


らいらいは息を吸う。

今度こそ、飲みこまないように。


「……ごめん」


たったそれだけで、夕焼けの世界にひびが入った。

壊れるひびじゃない。

閉じていたものが開く音のひび。


落ちていた無数のメモが、風に舞い上がる。

『また今度』は『会いたかった』に変わり、

『別にいい』は『ほんとは嫌だった』に変わり、

『なんでもない』は『ほんとは大事だった』に変わっていく。


過去のらいらいが、少しだけ笑った。


「やっと言えたね」


その言葉と同時に、世界が白くにじみ、夕方の道はゆっくり消えていった。


気がつくと、らいらいはまた白い部屋に立っていた。

床には、集めたメモがきちんと並んでいる。

逃げかけていた消しゴムは、今度は逃げずに、らいらいの前にちょこんと座っていた。


「どうだった」

消しゴムが小声で聞く。


らいらいが答える前に、白い壁のひびの奥から、あの声がやさしく言った。


「後悔は消えない。でも、たどり直すと、形が変わる」


すると、メモの束の一番下から、今まで見えなかった一枚がすべり出てきた。

そこには、ほとんど消えかけた字でこう書かれていた。


『ごめんの先にある、本当の続きを見つけて』


そしてその下に、さらに小さく、もう一行。


『次は、許しに行く? それとも、あの日の“言えなかった相手”の名前を思い出す?』


白い部屋の奥で、見たことのない扉がひとつだけ現れる。

扉には鍵穴がなく、かわりに薄く文字が浮かんでいた。


『ごめんの次』


らいらいが近づくと、扉の向こうから、かすかに誰かの笑う声がした。

泣き声ではなく、責める声でもなく、

どこか、再会を待っているような声だった。


1 『許して』ではなく、もう一度『ごめん』の先を言いに扉を開ける

2 散らばったメモから、“言えなかった相手の名前”を先に探す

3 消しゴムに、この記憶を隠した本当の理由を問いつめる


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ