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白い壁のひびに耳を近づけたまま、らいらいは落ちてきたメモの山の前で、しばらく動かなかった。
手のひらの上で、ひとつの言葉だけが重く残っていた。
『ごめん』
それは短いのに、ほかのどの言葉よりも持ち上がらなかった。
軽く言えばこわれそうで、強く握れば消えそうで、らいらいはまるで小さな星を持つみたいに、そっと胸の前へ運んだ。
すると、床に散らばっていた未完成の文字たちが、じわじわと集まりはじめた。
ご
め
ん
三つの文字は、床の上でまっすぐ並ばず、少しずつずれていた。
まるで、言いたかったのに言えなかった時間そのものみたいに。
ひびの奥から、あの懐かしい声がまたした。
「その言葉は、遅すぎたんじゃない。置き去りになっていただけだよ」
その瞬間、白い部屋の空気がやわらかくゆがんだ。
消しゴムの未完成管理係が、壁の角に半分だけ隠れながら、びくっと肩をふるわせる。
「うわっ、それ選んじゃったか……」
「だめ?」
らいらいが聞くと、消しゴムは困ったように目をそらした。
「だめじゃない。むしろ、いちばん奥まで行けるやつだよ。ただ……その記憶、ちょっと痛いかも」
らいらいが『ごめん』の文字に指先を触れた。
その瞬間、白い床が水みたいに波打って、景色が下へ沈んでいく。
メモの山も、ひびも、逃げかけていた消しゴムも、全部やわらかい光の底へ流れていった。
次に足が着いた場所は、夕方だった。
オレンジ色の空。
どこかの帰り道。
電柱の影が長く伸びて、風が少しだけ冷たい。
らいらいは知っていた。
ここは夢じゃない。
これは、言えなかった後悔の記憶の入口だ。
少し前を、誰かが歩いている。
背中だけが見える。
振り向かないまま、だんだん遠ざかっていくその人に、らいらいはなぜか強く胸をしめつけられた。
「待って」
声は出た。
でも、そのときの記憶のらいらいは、実際には呼び止めなかったらしい。
景色の中の自分はただ立ち尽くしていて、靴の先で地面を見つめたままだった。
空気のどこかから、さっきの懐かしい声がささやく。
「このとき、ほんとは何を言いたかったの?」
らいらいは答えようとして、喉の奥がつまるのを感じた。
ありがとう、かもしれない。
さみしい、だったかもしれない。
行かないで、だったかもしれない。
でも、そのどれより先に、胸の底から浮かび上がったのは、やっぱりそれだった。
『ごめん』
その一言が、当時は言えなかった。
強がったから。
相手のせいにしたから。
まだ次があると思ったから。
言わなくても伝わっていると、勝手に思っていたから。
記憶の夕暮れの中で、遠ざかっていた背中がふいに止まる。
振り向かないまま、その人が言った。
「ほんとは、待ってたよ」
らいらいの心臓が、どくんと大きく鳴った。
「一言でよかった」
「怒ってても、泣いてても、変な言い方でもよかった」
「でも、君は飲みこんだ」
夕焼けの道に、小さな紙切れが何枚も落ちているのが見えた。
らいらいが拾うと、全部に中途半端な言葉が書いてある。
『また今度』
『別にいい』
『なんでもない』
『平気』
『ちがう』
『いや』
『……』
どれも、本当の言葉の手前で止まっていた。
らいらいは、その紙を胸に抱えたまま、一歩だけ前へ出た。
すると、景色の中の“過去のらいらい”が、はじめてこちらを向いた。
同じ顔なのに、今より少し幼くて、今より少し不器用で、でも同じように必死に何かを守ろうとしていた顔。
過去のらいらいが言う。
「言ったら終わる気がした」
「弱いと思われる気がした」
「許してもらえない気がした」
「だから、黙った」
今のらいらいは、その自分を見て、なぜか責められなかった。
責めるより先に、わかってしまったからだ。
あのとき黙ったのは、冷たかったからじゃない。
怖かったからだ。
ほんとうは、失いたくなかったから。
その理解が胸に届いた瞬間、『ごめん』の文字が手の中であたたかくなった。
三文字が光って、夕方の道にやさしくひろがっていく。
そして、遠ざかっていたあの背中が、ようやく振り向いた。
顔は、はっきり見えなかった。
大事な人の顔は、記憶の中では時々、光でできている。
でも、その表情だけはわかった。
怒っている顔ではなかった。
悲しい顔でもなかった。
ずっと、待っていた顔だった。
らいらいは息を吸う。
今度こそ、飲みこまないように。
「……ごめん」
たったそれだけで、夕焼けの世界にひびが入った。
壊れるひびじゃない。
閉じていたものが開く音のひび。
落ちていた無数のメモが、風に舞い上がる。
『また今度』は『会いたかった』に変わり、
『別にいい』は『ほんとは嫌だった』に変わり、
『なんでもない』は『ほんとは大事だった』に変わっていく。
過去のらいらいが、少しだけ笑った。
「やっと言えたね」
その言葉と同時に、世界が白くにじみ、夕方の道はゆっくり消えていった。
気がつくと、らいらいはまた白い部屋に立っていた。
床には、集めたメモがきちんと並んでいる。
逃げかけていた消しゴムは、今度は逃げずに、らいらいの前にちょこんと座っていた。
「どうだった」
消しゴムが小声で聞く。
らいらいが答える前に、白い壁のひびの奥から、あの声がやさしく言った。
「後悔は消えない。でも、たどり直すと、形が変わる」
すると、メモの束の一番下から、今まで見えなかった一枚がすべり出てきた。
そこには、ほとんど消えかけた字でこう書かれていた。
『ごめんの先にある、本当の続きを見つけて』
そしてその下に、さらに小さく、もう一行。
『次は、許しに行く? それとも、あの日の“言えなかった相手”の名前を思い出す?』
白い部屋の奥で、見たことのない扉がひとつだけ現れる。
扉には鍵穴がなく、かわりに薄く文字が浮かんでいた。
『ごめんの次』
らいらいが近づくと、扉の向こうから、かすかに誰かの笑う声がした。
泣き声ではなく、責める声でもなく、
どこか、再会を待っているような声だった。
1 『許して』ではなく、もう一度『ごめん』の先を言いに扉を開ける
2 散らばったメモから、“言えなかった相手の名前”を先に探す
3 消しゴムに、この記憶を隠した本当の理由を問いつめる




