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らいらいは、白い壁のひびの前で息を止めた。


ひびの奥から、さっき確かに声がしたのだ。


しかも妙に懐かしい声だった。

懐かしいのに、誰の声なのか思い出せない。

それが一番気味が悪い。


らいらいは、ひびに顔を近づけた。


「おーい」


すると、ひびの向こうから返事がきた。


「おーい、じゃない。遅いぞ」


少しむっとしたような声だった。


らいらいは眉をひそめる。

この言い方。

この距離感。

初対面の相手ではない。

たぶん昔から知っている誰かだ。

でも、誰だ。


「誰だお前」


「その聞き方はひどいな。せめて“もしかして君は……”みたいな前置きがあるだろ普通」


「いや普通、ひびの奥から急に話しかけてくるやつには警戒するだろ」


「それはそう」


声の主は、妙に納得した。


らいらいは一歩、ひびの奥へと踏み出した。


すると白い壁は、ぐにゃりと柔らかく歪んだ。

まるで壁ではなく、乾きかけのゼリーだった。

らいらいの足は、そのままずぶずぶと中へ入っていく。


「うわっ」

「騒ぐな。入口なんだから」

「入口がゼリーなの嫌すぎるだろ!」


だが引き返す前に、体全体がひびの中へ吸い込まれた。


次の瞬間、らいらいは細長い通路に立っていた。


通路の壁には、びっしりと名前が書かれている。

知らない名前。

見たことがある気がする名前。

呼びかけたくなる名前。

絶対に呼んではいけない気もする名前。


その中に、ひとつだけ妙に薄く消えかけた文字があった。


 わ す れ た だ れ か


「名前じゃないじゃん」


らいらいがつぶやくと、通路の先でカツン、と音がした。


暗がりの向こうから、ひとりの影が出てくる。


背は高くも低くもない。

顔立ちは整っているのに、なぜか目を離すと形があやふやになる。

髪の色も服の色も、見た瞬間にわかるはずなのに、次の瞬間には忘れてしまう。


ただ一つだけはっきりしていた。


その人は、らいらいを見るなり、少しだけ困ったように笑った。


「やっと来たか」


らいらいの胸が、どくんと鳴る。


「……お前、誰だ」


その影は肩をすくめた。


「だから、それを探しに来たんだろ」


らいらいは言葉を失った。


確かにそうだ。

忘れた誰かの正体を探るために、ここまで来た。

でも本当に困るのは、目の前の相手が“知らない誰か”ではなく、“知っていたはずの誰か”だと、体が勝手にわかってしまうことだった。


「会ったことあるよな」

「ある」

「いつ」

「かなり前」

「どこで」

「お前の中で」


らいらいは思わず顔をしかめた。


「急に詩人ぶるな。わかりにくい」

「いや、事実なんだが」


その影はそう言って、通路の壁を指差した。


壁の文字が、ひとつずつ浮かび上がる。


呼ばれなかった言葉。

途中で消した約束。

言いかけて飲み込んだ本音。

思い出すには少し痛い、でも確かに自分の中にあったもの。


そして通路の一番奥、黒い扉の上に、金色の文字が現れた。


 忘却保管室 第七倉庫

 担当:未完成管理係 臨時補佐


らいらいは目を丸くした。


「臨時補佐?」


影はうなずいた。


「そう。俺はここで、忘れられたものが完全に消えないように見張ってた」

「じゃあ管理人?」

「いや、補佐」

「ずいぶんこだわるな」

「管理人になると書類が増えるから嫌だった」


急に現実的な理由だった。


らいらいはちょっと安心した。

得体の知れない存在でも、面倒な書類を嫌がるなら、まだ人間味がある。


「で、お前の正体は?」

「それを今すぐ言うと、たぶんお前は思い出せない」

「なんでだよ」

「名前ってのは、聞けば戻るものもある。でも、忘れ方が深いと、先に周辺から拾わなきゃいけない」

「面倒だな」

「面倒だぞ。お前が忘れた相手だしな」


影は少し近づいてきた。


顔が見えそうで見えない。

だが距離が縮まるたびに、らいらいの頭の奥で、懐かしい感じだけが強くなる。


夕方の空気。

紙の手触り。

笑いをこらえきれなかった声。

なにかを一緒に見つけた気がする感覚。


それだけが、ぽつぽつ戻ってくる。


「俺は、お前が捨てたわけじゃない」

影は静かに言った。

「ただ、お前が先に進むために、いったん奥へしまったんだ」

「……そんなこと、俺が?」

「やるんだよ、お前は。大事すぎるものほど、すぐ手の届かない場所に置く」


らいらいは、妙にその言葉に反論できなかった。


たしかに自分は、失くしたくないものほど、見えない場所へ隠してしまう気がした。

その方が壊れないと思って。

その方が平気でいられると思って。


しかしその瞬間、通路全体がぐらりと揺れた。


壁の文字がざわざわと騒ぎ出す。


「やば」

影が初めて焦った声を出した。

「何がやばい」

「未完成管理係が、こっちに戻ってきた」

「逃げてたやつ!?」

「そう。あいつ、都合が悪くなるとすぐ消しゴムに変身するんだ」

「意味がわからん!」

「でも今回はもっとまずい。俺とお前が会ったのを見られると、正式な思い出し手続きが必要になる」

「なんだそれ」

「書類が七十二枚出る」

「絶対嫌だな!」


その瞬間、通路の奥から、ぴょこん、と白い小さなものが跳ねてきた。


四角くて、角が少し丸い。

どこからどう見ても消しゴムだった。


ただし、足が生えていた。


そしてネクタイまでしていた。


「見つけたぞおおおお!」と消しゴムが叫んだ。

「無許可で忘却保管室に入るとは規則違反です! そして再会も半分違反です! さらに感動の雰囲気を先に作るのは完全に違反です!」


「感動の雰囲気にも規則あるのかよ!」とらいらい。

「あります!」と消しゴム。

「どこに!」とらいらい。

「今作りました!」と消しゴム。


最悪だった。


影は額を押さえた。


「だから先に捕まえとけばよかったんだ……」

「お前、この前の未完成管理係の補佐じゃなかったのか?」

「元、だ」

「元!?」

「揉めた」

「何で!?」

「“忘れたものに番号を振るべきか”で意見が割れた」

「そこ!?」


消しゴム管理係はぴょんぴょん跳ねながら近づいてきた。


「さあ! らいらい様! その方の正体を知りたければ、正式な確認プロセスに進んでいただきます!」

「嫌な予感しかしない」

「ご安心ください、簡単な三段階です!」

「信用できない笑顔だな」

「第一段階、忘れた気配の採取!」

「うわ」

「第二段階、記憶の照合!」

「うわ」

「第三段階、涙の提出!」

「最後だけ意味わからん!」


影は、らいらいに小さな紙片を差し出した。


それは前に見た“まだ書かれていない続きの紙”に少し似ていた。

ただし今度の紙には、最初の一文字だけがうっすら浮かんでいる。


 き


「これを持ってろ」

影が言う。

「たぶん次で、少しだけわかる」

「“き”?」

「俺の名前かもしれないし、お前との約束の最初の字かもしれない」

「曖昧すぎるだろ」

「忘れられた側は、最初そんなものだ」


消しゴム管理係がびしっと指をさした。


「では移動します! 確認室へ!」

「うわ、ほんとに進むんだこれ」

「もちろんです! 仕事ですから!」


らいらいは紙片を握りしめた。

胸の奥が少し熱い。


まだ思い出せない。

けれど、何もないわけではない。


ひびの奥で待っていたのは、

ただの知らない誰かではなく、

たしかに自分の中にいた、忘れた誰かだった。


そしてその正体は、もう少しで手の届く場所にある。


消しゴムが先頭でぴょんぴょん跳ね、

正体のあやふやな影がその後ろを歩き、

らいらいは、白い通路のさらに奥へ進んでいった。


握った紙には、いつのまにか二文字目が浮かびかけていた。


 き み


1 消しゴム管理係についていき、確認室で忘れた誰かの正体を正式に調べる

2 途中で影にだけ小声で話しかけ、消しゴムに隠れて正体のヒントを聞き出す

3 壁に浮かんだ「きみ」の文字に触れて、先に記憶の断片へ飛び込む


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