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らいらいは反射的に床を蹴った。
逃げかけている未完成管理係の消しゴムは、ぴょこん、と情けない跳ね方をして、白い廊下の角を曲がろうとしていた。だがその背中には、なぜか「説明は後日」と墨で書かれた小さな札がぶら下がっている。どう見ても怪しい。怪しさが服を着て、さらに消しカスをまとって走っているみたいだった。
「待て」
らいらいが言うと、消しゴムはびくっと震えた。
「ひっ」
「今の“ひっ”で、だいたい黒だな」
らいらいは数歩で距離を詰め、つるりと逃げようとした未完成管理係の角を、親指と人差し指でつまみ上げた。消しゴムは空中でじたばたした。妙に四角い足がぶらんぶらんしている。
「放してください! 私はまだ完成してないんです! 設定も性格も役職も三割しか入ってないんです! 今しゃべらせると世界観が揺れます!」
「ちょうどいい。揺れてる世界観を先に説明しろ」
「うわあ、もっとも嫌なタイプの正論!」
らいらいは近くにあった白い台の上に、未完成管理係の消しゴムをぽんと置いた。すると台の表面に、じわじわと文字が浮かんできた。
未完成案件・臨時説明台
説明しないと進めないので観念してください
「親切なんだか雑なんだか分からない台だな……」
消しゴムは観念したように、角をしゅんと下げた。よく見ると、その体には細かい文字がびっしり刻まれている。途中で止まった設定、言いかけて飲み込まれた伏線、書き直される前のセリフ、誰にも見つけられなかった心の下書き。ぜんぶが薄く、でも確かに残っていた。
「いいですか、時間がありません」
「逃げてたやつが言うな」
「逃げていたからこそ分かるんです! ここは“未完成の言葉”が沈殿する層です。完成された物語の下に、言えなかった続きや、書かれなかった選択や、途中で引っ込められた気持ちが、消えきれずにたまっているんです」
白い壁のひびが、ぴしり、と小さく鳴った。
「そのひび、さっきからずっと気になってたけど」
「あれはただのひびじゃありません。“続きを欲しがっている場所”です」
「場所が欲しがるのか」
「この階では、だいたい何でも欲しがります」
消しゴムは一度咳払いをした。消しゴムなのに咳払いをすると、細かい消しカスがふわっと出る。衛生的には少し嫌だった。
「本題に入ります。この建物では、未完成のものを長く放置すると、やがて勝手に歩き出します」
「嫌すぎるな」
「軽く言いましたけどかなり深刻です。未完成の約束、未完成の手紙、未完成の勇気、未完成の謝罪、未完成の笑い話。そういうものが、形を持ち始めるんです。そしていま、この階で一番大きく育ってしまっている未完成があります」
らいらいは目を細めた。
「それが、床に浮かんでた言葉の続きか」
消しゴムは、ゆっくりうなずいた。
「はい。あれはただの文章ではありません。あれは、あなたに向けて書かれかけて、最後まで届かなかったものです」
空気が少しだけ変わった。
さっきまでこの場所には、奇妙さと笑いと、白すぎる廊下のまぶしさがあった。けれど今は、その奥に、誰かが本当に残そうとした熱みたいなものがある。
「誰が書いた」
その問いに、未完成管理係の消しゴムは、すぐには答えなかった。
「……それが問題なんです」
「問題?」
「書いた本人が、もう“書いたこと”を忘れている可能性があります」
「は?」
「この階では、ときどきあるんです。強く思ったのに言えなかったことが、先に言葉だけ残ってしまう。本人の記憶からは抜け落ちる。でも言葉は、ずっと待つ。読まれるまで。拾われるまで。続きを与えられるまで」
台の上の文字が、じわ、と変化した。
未完成案件の危険度:中
放置すると感情が先に増殖します
「危険度の説明がふわっとしてるな」
「この建物の説明文はだいたい感覚で生きてます」
「お前も十分そうだが」
「私はまだ三割ですから!」
消しゴムは半泣きで胸を張った。胸がどこかは不明だった。
そのとき、廊下の奥から、かすかな音がした。
かり、かり、かり。
何かが床をひっかく音。
そして、さっき床に浮かんでいた未完成の文字のひとつが、するりと壁からはがれて、こちらへにじんできた。黒いインクでも、光でもない。言葉そのものが、生き物みたいに近づいてくる。
それは途中までしか読めなかった。
「きみは――」
その先がない。
だからこそ、ひどく気になる。
消しゴムが青ざめた。もともと白いので、変化がほとんど分からないが、気配で分かる。
「まずいです。続きが欲しくて動き出してる」
「じゃあ聞く。俺は何をすればいい」
未完成管理係の消しゴムは、今度こそ逃げずに、まっすぐ答えた。
「二つあります。ひとつは、その言葉の続きを探しに行くこと。もうひとつは――」
「もうひとつは?」
「その言葉を書いたかもしれない“忘れた誰か”を見つけることです」
その瞬間、廊下の照明が一斉に明滅した。
白い壁のひびの奥から、懐かしいような、まだ会ったことがないような、不思議な声がした。
「遅いよ」
らいらいの背筋に、ぞくっとしたものが走る。
消しゴムは小さく震えながら、らいらいを見上げた。
「来ました。未完成は、ときどき、待ちくたびれると迎えに来るんです」
遠くの暗がりで、ひびがゆっくりと開きはじめる。
中は白ではなかった。
言いそびれた夜みたいな、深い色をしていた。
1 床を這う「きみは――」の続きを追いかけて、先に未完成の言葉を回収しにいく
2 ひびの奥から聞こえた声に向かって進み、忘れた誰かの正体を探る
3 未完成管理係の消しゴムをポケットに入れて連行し、逃げられない状態で案内させる




