55
らいらいは、その場でぴたりと立ち止まった。
走れば追いつける気がした。
白い壁のひびも、懐かしい声も、未来の自分の紙も、全部まだどこかで待っている気がした。
けれど今は、足元だった。
床に、うっすらと文字が浮かんでいる。
さっきまではただの白い床に見えたのに、らいらいが動きを止めた瞬間だけ、水面みたいな光のゆれと一緒に、半透明の言葉がいくつも現れたのだ。
「これ……途中で終わってる」
そこにあったのは、どれも未完成の言葉だった。
「おもい……」
「きみは、まだ……」
「ほんとうは……」
「わらって……」
「つづきは……」
どれも最後が欠けている。
まるで誰かが急いで書いて、くしゃみでもして、そのまま逃げていったみたいだった。
らいらいはしゃがみこんだ。
床に手を近づけると、文字はふわっと少しだけ濃くなる。
触れると冷たい。でも、ただの冷たさじゃない。冬の窓ガラスみたいな冷たさの奥に、なぜか人の気配が混じっていた。
「未完成の言葉の続きを探せ、ってことか」
その瞬間、廊下の奥のどこかから、ぽすん、と間の抜けた音がした。
らいらいが顔を上げると、少し先の床に、四角いものが落ちていた。
白い消しゴムみたいな見た目だが、よく見ると小さな足が生えている。
しかも歩いている。
いや、歩いているというより、消しながら逃げている。
「待て」
消しゴムはぴたりと止まり、くるっと振り向いた。
表面に小さな文字が浮かぶ。
『べつに逃げてないです』
「逃げてるやつの言い訳なんだよそれ」
『わたしは未完成管理係です』
「管理できてないじゃん。めちゃくちゃ床に漏れてるぞ」
『最近いそがしくて……』
「何がだよ」
『人の言えなかった言葉が増えすぎてるんです』
その返事だけは妙に重かった。
らいらいは少し黙った。
廊下の白さの中で、床の言葉たちはかすかにまた揺れている。
言えなかった言葉。
途中でやめた言葉。
飲みこんだ言葉。
笑ってごまかした言葉。
消しゴムは、小さなため息みたいに「けし……」と鳴いた。
『続きが見つからない言葉は、ここに沈みます』
「沈む?」
『はい。床に』
「ずいぶん床が働き者だな」
『この施設では、天井は忘れる担当、壁は隠す担当、床は覚える担当です』
「役割分担が変すぎる」
『昔、会議で決まりました』
「誰が出てたんだその会議」
『壁と床と、あと欠けた句読点たちです』
らいらいは思わず吹き出した。
こんな妙な話なのに、なぜか少しだけ納得してしまうのが悔しい。
そして、床の言葉の一つに、急に光が集まりはじめた。
「きみは、まだ……」
その続きだけが、ほかの言葉より強く震えている。
らいらいが指先を近づけると、床の奥から声がした。
さっき聞こえた懐かしい声とは少し違う。
もっと近い。もっと静かで、でも確かに自分の中を通ってきたような声だった。
「……探してるなら、まず止まれ」
らいらいは息をのんだ。
「走ってると、自分の言葉を踏みつぶすから」
その瞬間、床一面の未完成の言葉が、一斉に明るくなった。
「おもい――だして」
「ほんとうは――しってる」
「わらって――すすめ」
「つづきは――きみが書く」
そして最後に、いちばん強く光っていた言葉が完成する。
「きみは、まだ おわってない」
白い廊下が、びり、と紙みたいに震えた。
目の前の床がゆっくり割れたわけではない。
開いたのだ。
引き出しみたいに、音もなく。
その中には、何十枚もの透明な紙が重なっていた。
どれも何か書きかけで、最後だけ空白になっている。
一番上の紙には、こうあった。
**『未完成の言葉は、続きを見つけた者にだけ、次の部屋を開く』**
その下に、まだ書かれていない空白がある。
ペンはない。
なのに、らいらいの指先がほんのり熱を持ちはじめていた。
消しゴムが小さく跳ねる。
『書けますよ』
「何を?」
『あなたが今、いちばん続きを知りたい言葉を』
「それを書いたら?」
『次に行けます』
「行き先は?」
消しゴムは少しだけ間を置いて、床にこう書いた。
『声の正体の近く』
白い廊下の空気が、静かに変わる。
遠くで、またあの懐かしい声がした。
今度は前より少しだけはっきりと。
「ようやく、足元を見たね」
らいらいは透明な紙を見つめた。
未完成の言葉。
続きを待つ空白。
自分の指先だけで書ける次の一文。
そして、紙の右下には、いつのまにか三つの番号が浮かんでいた。
1. 透明な紙に「ほんとうは」の続きを書く
2. 透明な紙に「きみは、まだ」の続きをもう一度自分の言葉で書く
3. 逃げかけている未完成管理係の消しゴムを捕まえて、先に全部説明させる




