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らいらいは、その場でぴたりと立ち止まった。


走れば追いつける気がした。

白い壁のひびも、懐かしい声も、未来の自分の紙も、全部まだどこかで待っている気がした。

けれど今は、足元だった。


床に、うっすらと文字が浮かんでいる。


さっきまではただの白い床に見えたのに、らいらいが動きを止めた瞬間だけ、水面みたいな光のゆれと一緒に、半透明の言葉がいくつも現れたのだ。


「これ……途中で終わってる」


そこにあったのは、どれも未完成の言葉だった。


「おもい……」

「きみは、まだ……」

「ほんとうは……」

「わらって……」

「つづきは……」


どれも最後が欠けている。

まるで誰かが急いで書いて、くしゃみでもして、そのまま逃げていったみたいだった。


らいらいはしゃがみこんだ。


床に手を近づけると、文字はふわっと少しだけ濃くなる。

触れると冷たい。でも、ただの冷たさじゃない。冬の窓ガラスみたいな冷たさの奥に、なぜか人の気配が混じっていた。


「未完成の言葉の続きを探せ、ってことか」


その瞬間、廊下の奥のどこかから、ぽすん、と間の抜けた音がした。


らいらいが顔を上げると、少し先の床に、四角いものが落ちていた。

白い消しゴムみたいな見た目だが、よく見ると小さな足が生えている。


しかも歩いている。

いや、歩いているというより、消しながら逃げている。


「待て」


消しゴムはぴたりと止まり、くるっと振り向いた。

表面に小さな文字が浮かぶ。


『べつに逃げてないです』


「逃げてるやつの言い訳なんだよそれ」


『わたしは未完成管理係です』


「管理できてないじゃん。めちゃくちゃ床に漏れてるぞ」


『最近いそがしくて……』


「何がだよ」


『人の言えなかった言葉が増えすぎてるんです』


その返事だけは妙に重かった。

らいらいは少し黙った。


廊下の白さの中で、床の言葉たちはかすかにまた揺れている。

言えなかった言葉。

途中でやめた言葉。

飲みこんだ言葉。

笑ってごまかした言葉。


消しゴムは、小さなため息みたいに「けし……」と鳴いた。


『続きが見つからない言葉は、ここに沈みます』


「沈む?」


『はい。床に』


「ずいぶん床が働き者だな」


『この施設では、天井は忘れる担当、壁は隠す担当、床は覚える担当です』


「役割分担が変すぎる」


『昔、会議で決まりました』


「誰が出てたんだその会議」


『壁と床と、あと欠けた句読点たちです』


らいらいは思わず吹き出した。

こんな妙な話なのに、なぜか少しだけ納得してしまうのが悔しい。


そして、床の言葉の一つに、急に光が集まりはじめた。


「きみは、まだ……」


その続きだけが、ほかの言葉より強く震えている。


らいらいが指先を近づけると、床の奥から声がした。

さっき聞こえた懐かしい声とは少し違う。

もっと近い。もっと静かで、でも確かに自分の中を通ってきたような声だった。


「……探してるなら、まず止まれ」


らいらいは息をのんだ。


「走ってると、自分の言葉を踏みつぶすから」


その瞬間、床一面の未完成の言葉が、一斉に明るくなった。


「おもい――だして」

「ほんとうは――しってる」

「わらって――すすめ」

「つづきは――きみが書く」


そして最後に、いちばん強く光っていた言葉が完成する。


「きみは、まだ おわってない」


白い廊下が、びり、と紙みたいに震えた。


目の前の床がゆっくり割れたわけではない。

開いたのだ。

引き出しみたいに、音もなく。


その中には、何十枚もの透明な紙が重なっていた。

どれも何か書きかけで、最後だけ空白になっている。


一番上の紙には、こうあった。


**『未完成の言葉は、続きを見つけた者にだけ、次の部屋を開く』**


その下に、まだ書かれていない空白がある。

ペンはない。

なのに、らいらいの指先がほんのり熱を持ちはじめていた。


消しゴムが小さく跳ねる。


『書けますよ』


「何を?」


『あなたが今、いちばん続きを知りたい言葉を』


「それを書いたら?」


『次に行けます』


「行き先は?」


消しゴムは少しだけ間を置いて、床にこう書いた。


『声の正体の近く』


白い廊下の空気が、静かに変わる。

遠くで、またあの懐かしい声がした。

今度は前より少しだけはっきりと。


「ようやく、足元を見たね」


らいらいは透明な紙を見つめた。

未完成の言葉。

続きを待つ空白。

自分の指先だけで書ける次の一文。


そして、紙の右下には、いつのまにか三つの番号が浮かんでいた。


1. 透明な紙に「ほんとうは」の続きを書く

2. 透明な紙に「きみは、まだ」の続きをもう一度自分の言葉で書く

3. 逃げかけている未完成管理係の消しゴムを捕まえて、先に全部説明させる


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