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らいらいは、白い壁のひびを見つめたまま、しばらく動けなかった。
さっきから聞こえているその声は、遠いようで近い。
夢の中の声みたいにぼやけているのに、胸の奥だけは、はっきりと知っていた。
懐かしい。
その一言で足りるくらい、懐かしかった。
らいらいは、そっと一歩、ひびに近づいた。
白い部屋は静かだった。
静かすぎて、自分の服がこすれる音まで聞こえそうなくらいだ。
なのに、ひびの近くへ行くほど、空気だけが少しずつ変わっていく。
冷たかったはずの壁が、ひびの周りだけ、わずかにあたたかい。
らいらいは眉をひそめた。
「壁って、あったかくなることあるのか……?」
誰に聞くでもなくつぶやくと、ひびの向こうから、くすっと笑う声がした。
その笑い方で、らいらいの心臓は一回だけ大きく跳ねた。
それは、昔どこかで何度も聞いた笑い方だった。
安心するときの笑い方。
いたずらが成功したときの笑い方。
ちょっとだけ、泣きそうなのをごまかすときの笑い方。
らいらいは壁に手をのばした。
指先がひびに触れた瞬間、白い壁の表面に、波紋みたいな光が広がる。
ぴし。
ぴし、ぴし。
細かったひびが、枝分かれするように伸びていく。
部屋の白さの中に、一本の線ではなく、まるで扉の輪郭みたいな形が浮かび上がった。
「えっ」
思わず一歩下がる。
下がったくせに、目は離せなかった。
ひびの向こうから、また声がする。
今度は、前より少しだけはっきりと。
「やっと来た」
らいらいの喉が、きゅっと縮む。
その声は、優しかった。
けれど、ただ優しいだけじゃない。
何かをずっと待っていた人の声だった。
「……誰?」
聞いた瞬間、自分でもおかしいと思った。
本当は、半分くらい、もう分かっていたからだ。
ひびの内側が淡く光る。
白い壁の向こうに、景色があるみたいに色がにじみ始める。
青。
金。
少しだけ、夕焼けみたいな橙。
そして、その向こうに、人影が見えた。
はっきりとは見えない。
光の向こうに立っているせいで、輪郭だけしか分からない。
でも、その立ち方、その首のかしげ方、その沈黙の間合いまで、らいらいには懐かしかった。
「お前は……」
言いかけたところで、人影が少しだけ近づいた。
ひびの隙間が広がり、向こうの景色がさらに鮮明になる。
そこは白い部屋ではなかった。
古い廊下だった。
木の床。
夕方の光。
少しだけ開いた窓。
風に揺れる薄いカーテン。
どこかの学校みたいでもあり、昔住んでいた家みたいでもあり、夢の中だけにある場所みたいでもあった。
そして、その廊下の真ん中に立っていたのは――
らいらい自身だった。
ただし、今ここにいるらいらいとは少し違う。
向こうのらいらいは、少し大人びて見えた。
顔つきというより、目の奥の光が違う。
たくさん泣いて、たくさん笑って、それでもまだ何かを信じているような目だった。
白い部屋のらいらいは、しばらく言葉を失った。
向こうのらいらいが、困ったように笑う。
「そんなに驚くなよ。俺だよ」
「……俺?」
「そう。たぶん、お前が思ってる通りの俺」
らいらいは口を半開きにしたまま固まった。
「いや待て待て待て。これはあれか? 白い部屋がついに人間のメンタルを雑に処理し始めた感じか?」
向こうのらいらいは吹き出した。
「その言い方、全然変わってないな」
「変わってないのはそっちだろ」
「そりゃそうだ。俺だからな」
「最悪の説得力だな!」
思わずそう返した瞬間、白い部屋の緊張が少しだけほどけた。
懐かしい声の正体。
それは他人ではなく、自分だった。
けれど、それだけじゃない。
向こうのらいらいを見ていると、ただの未来の自分とか、過去の自分とか、そういう簡単な言葉では収まらない気がした。
忘れていた気持ち。
置いてきた願い。
言えなかった言葉。
そういうもの全部が、一人の形になって立っているように見えた。
向こうのらいらいが、ひび――いや、もう扉になりかけている光の裂け目に手を置く。
「こっちに来る前に、確かめておいたほうがいい」
「何を?」
「お前が聞きたいのは、俺が誰かじゃない」
向こうのらいらいは、まっすぐこちらを見た。
「お前が、まだ思い出してないものの正体だ」
その言葉と同時に、白い部屋の床に文字が浮かび上がる。
最初はぼんやりしていた文字が、少しずつ読める形になっていく。
『ひびの向こうにあるのは、記憶か、未来か、それとも――』
文字はそこで止まった。
最後の一言だけが、まだ現れない。
らいらいは、ひびの前で息をのむ。
向こうの自分は何かを知っている。
でも、全部は言わない。
自分で選ばせようとしている。
それが少し腹立たしくて、でも妙にらいらいらしかった。
「ほんとに俺なんだな……そういう嫌な引っぱり方するの」
「だろ?」
「うれしそうに言うな」
そのとき、ひびの奥から風が吹いた。
夕方の匂い。
古い木の匂い。
それから、どこかで聞いた音楽の、最初の一音みたいな気配。
らいらいの胸の奥で、何かがかすかに動いた。
思い出しかけている。
だけど、まだ届かない。
白い壁のひびは、今や人ひとり通れそうなほどに広がり、
向こう側のらいらいは静かに手を差し出していた。
1. ひびの向こうへ手をのばし、もう一人のらいらいに触れる
2. その場で立ち止まり、床に浮かんだ未完成の言葉の続きを探す
3. 向こうのらいらいに「思い出してないものって何だ」と先に問いかける




