計画
──ピッ、ピッと規則正しい音が鳴る。
心臓は、止まってはいない。
そんな当たり前のことに安堵する。
しかし、意識はいっこうに戻らない。
医師は、異常が見当たらないと言う。
けれど、身体は酷く衰弱していた。
私は、理解していた。
黒い染み。
それが礼子を蝕んでいる。
革靴の音も、木魚の音も、効果がなかった。
身体の内側に入り込んだ黒。
それを取り除く術を誰も知らなかった。
先輩は事務所と契約している寺を訪ねまわった。
風になって、ものすごい速度で。
ただ、どれも効果はなかった。
──時間だけが、過ぎていく。
礼子の顔は青白い。
私は、冷たくなっていくその手を温めることしかできなかった。
ピッ……ピッ……
鼓動の音が小さくなる。
部屋には寺からもらってきた御札や宝具が並んでいる。
もう、祈ることしかできなかった。
ピッ…………ピッ…………
自分の無力さが憎い。
今まで何をしてきたのだろうか。
私は目の前の一人を、救うことすらできない。
ピー──
「礼子!?だめだっ!逝くな!」
そのときだった。
「どきな!そんな祈りが届くと思っているのかい!?」
腰の曲がった年配の女性は、テーブルの上に甘い香りが漂う小さな容器を置いた。
その香りはどこか懐かしかった。
紫の洋服を着こなすその女性は、礼子の口にコップを押し当て、緑の液体を流し込んだ。
その液体からも、甘い香りが立ち込める。
「なにを……」っと女性の肩に手をかけようとした瞬間、その女性は真剣な眼差しでコップを傾けながら口を開く。
「お前さんは、そこで見てな!何もできやしないんだろう」
その通りだった。
ここでこの女性を止めても、礼子を救う手段など、私は持っていない。
私は空中で止まったままの手を身体に引き寄せた。
そして静かに立ち上がり、腰を深く曲げた。
「お願いします!礼子を助けてください。
これが私にできる最善の行動です」
年配の女性は、小さく頷く。
「抹茶はね。古くから災いを清めるもんだ。
黒を緑で上書きするのさ」
礼子の唇は、少しだけ赤みを取り戻した。
「とっとと、テーブルの上のプリンをよこしな!」
私は、小さな容器に入ったプリンを慎重に手渡した。
その容器には名前が入っていた。
喫茶店「ポマード」
思い出した。
私は以前その店に、訪れたことがある。
年配の女性は、プリンをスプーンですくうと礼子の口に流し込んだ。
「うちの商品はね。黒を溶かすほど美味いんだよ」
スプーンの上のプリンは礼子の口に吸い込まれるように消えていく。
「ほれ!起きな!お嬢ちゃん。
わたしゃ霊には売らないんだよ。まったく」
ピッ…………ピッ…………
礼子の鼓動がわずかに戻った。
「美味しすぎて……死にそう……
いや、もう死んでも、いい」
礼子は小さく目を開いた。
──医師の診察が始まると、年配の女性は「お嬢ちゃんに、今回はツケだと言っといてくれ」と言って病室を出ていった。
私は深く頭を下げた。
「必ず、お礼に伺います」
年配の女性は鼻で笑った。
「ふん。来れれば、だがね」
その言葉だけが、妙に引っかかった。
医師はもう心配ないと告げ、部屋を後にする。
私は礼子の傍らに立ち、静かに息を吐いた。
朝の日差しが、カーテンの隙間から差し込む。
穏やかな時間だった。
──そのとき。
ふわりと、風が吹いた。
掛け布団がかすかに揺れる。
「先輩……もう少し、静かにできないんですか……」
礼子は目を細めた。
気づけば、床一面に御札が散らばっていた。
先輩が立っている。
息を切らしながら、何も言わずにこちらを見ていた。
違う寺のものだと一目でわかる、ばらばらの文字。
無理やり集めてきたのだろう。
先輩はゆっくりと近づき、礼子の肩に手を置いた。
「遅くなって──悪かった」
礼子は力なく笑う。
「助けていただき、ありがとうございます。
謝っていただけるなら、幻のレモンティーを──」
その言葉を遮るように、先輩はポケットから何かを取り出し、ベッドの上に置いた。
乾いた音が、小さく鳴る。
骨のようなものだった。
「これは、何の木でできている?」
礼子は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにノートパソコンを開いた。
カシャ、と写真を撮る。
カタカタとキーボードの音が、静かな病室に広がった。
数秒。
礼子の手が止まる。
「……木じゃないですね、これ」
先輩の目が細くなる。
「どういうことだ?」
礼子は画面を見つめたまま答える。
「繊維構造がありません。
それに、この反応……」
わずかに息を飲む音。
「生き物に近いです」
一瞬、部屋の空気が冷えた。
礼子は顔を上げる。
「これって、累さんが持っているものと同じでは?」
私はポケットに手を入れた。
取り出す。
二つの、同じような“骨”。
ひとつは、あの少年が置いていったもの。
もうひとつは、真希が消えたあとに現れたもの。
先輩の視線が鋭くなる。
「これは、廃寺で見つけた。
どこでそれを?」
私は、これまでの経緯を簡潔に伝えた。
話し終えると、しばし沈黙が落ちる。
礼子は骨を見比べて、小さく呟いた。
「……同じ、ですね」
先輩は窓の外を見つめながら礼子に言った。
「真希の情報を、調べてくれ」
礼子は目を見開いた。
そして、何かを察したようにキーボードを叩く。
「なんで……」
礼子の目は泳ぐ。
「情報が、ありません。
いや、消されてる、気がします」
画面には役所のデータが映っていた。
住所も、両親の名前さえも空白だった。
「でも、一枚だけ画像がありました。
これは──おそらく書道で賞を取ったときの画像ですね」
そこには、幼い頃の真希が整った文字の「風」と書いた和紙と大きな賞状を持っていた。
そして、その画像には赤い鳥居が映っていた。
ふと、ある違和感が胸をよぎる。
私は窓の外に目を向けた。
街並み。
見慣れた風景。
けれど──
「……なあ」
誰に向けたともなく、口を開く。
「この街に、神社なんてあったっけ?」
礼子はきょとんとした顔をする。
「え?」
先輩は答えなかった。
ただ、静かに目を細める。
私は思い出そうとする。
寺はある。いくつもある。
だが──
「……ひとつも、ない」
その言葉が、やけに重く響いた。
先輩は指で骨を転がしていた。
情報が頭の中で繋がっていく気配があった。
すると礼子はキーボードを叩いた。
「これ、神社に祀られていたもの、じゃないですか?
そうよ、真希ちゃんは神主の娘だったとか」
「……筋は通るな」
それを聞いて私の中でも何かが繋がる。
「この骨の音に、何度も助けられてる」
乾いた音。中空に響く、内側を叩くような音。
先輩は、床に散らばっていた御札をめくっていく。
「あった」
先輩は一枚の御札をベッドの上に置いた。
そこには、ぷっくりと太った丸い魚が描かれていた。
その魚の口は左右に大きく空いている。
まるで、何かを“鳴らす器”のように。
「廃寺の焼け焦げた古文書に、似たような記述があった。
神社の御神木。
あれに“何か”が宿るってだ」
礼子が顔を上げる。
「宿る……?」
「木じゃない。けど、木として扱われてるものだ」
三人の視線が御札の魚と三つの骨に集まる。
ポンッと小さな音が響いた。
「これはどう見ても──
木魚だろ」
病室に、温かな風が吹いた。
けれどその奥に、まだ消えきらない“ざらつき”が残っていた。
先輩はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「……見えてきたな」
私は息を飲む。
「やつの目的は、おそらく──
この街を黒い染みで埋め尽くすことだ」
礼子はキーボードを叩きながら頷く。
「けれど、霊たちはこの画像の神社の御神木に護られていた」
私は思考を繋ぐ。
「じゃあ……神社の周りを黒い染みで囲んで、
御神木を焼いた……?」
先輩は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや……違う」
一拍。
「神社は、壊されたんじゃない」
その言葉に、空気が張り詰める。
「役所のデータが、きれいに消えていた。
あれは“隠した”んじゃない」
先輩は静かに言い切る。
「最初から、“無かったことにした”んだ」
礼子の手が止まる。
「……そんなこと、できるんですか」
先輩は窓の外を見た。
「病院、学校、寺……
全部、この街に必要な施設だ」
そして、ゆっくりと続ける。
「──“神社が邪魔になるように”配置されている」
囲い、孤立させ、最後に意味ごと消すために。
背筋が冷えた。
「壊したのは、あの少年じゃない」
先輩の声は低かった。
「悪意を持って“作られた”この街そのものだ」




