対面
出された食事の内容は悪くなかった。
パンにチーズ、それに冷めた野菜のスープ……
何か入ってるかと思ったが、ザイラの体調に異常も無い。
ここから逃げるとして、あのドアが開いた時——つまりは食事の時だけだろう。だが、声だけ聞いてもさぞや恰幅の良さそうな男が三、四人は居る。
ザイラにそれらをいなして突破する力は無い。
そしてこの部屋から出れたとしても、場所はわからず、この建物の構造も分からない。
気持ちは焦るが、今は我慢だ—— ザイラは膝を抱き、ジャケットを握りしめる。
雨に濡れたまま乾いた髪は、いつもより余計にゴワゴワとこんがらがり、体はベタベタとした土埃が張り付いて洋服も酷い有様だった。
食事よりも、まずは体を洗い流したい——そんな思いが出るくらいには、余裕が出て来た。
男が言ったように、大人しくしてれば何の事は無いようだ。それも、果たしていつまで続くか分からないが……——得体の知れない不安と恐怖は、いつもザイラのそばにある。
アイヴァンは、きっと探してくれる——
そう信じたい自分がザイラの中には在った。だが、見方を変えれば、この状況は、ザイラを取り除ける好機でもある、と冷静にもザイラは分析していた。
計らずしも妻が失踪、家出……もしくは自殺、殺人——それは絶対に避けたい所だったが、ザイラが勝手に出て行ったとなれば、それはザイラの落ち度となる。侯爵もミア嬢も、その展開は〝ザイラ・ローリー〟〝アイヴァンの妻ザイラ〟の、弱味としてこの上無く望ましいだろう。
もしかしたら、アイヴァンもそうもしれない、と考えれば、ザイラは絶望感に苛まれた。
ザイラがアイヴァンへ書いた手紙は、少なく無い葛藤があれど本心だった。だが、それをいくら本心です、とザイラが言っても結局証明は出来ない。
信じて貰えるかは別であって、もし駆け引きするとしても利益や利点が無ければならない。ザイラには最低限家柄という強みがあったが、逆に言えばそれ以外何も無い。むしろ眉を顰める点の方が多いだろう。
そこに弱味や弱点が出てしまえば、いくら政略結婚であれザイラは駆け引きの土俵にすら載れないことになる。聞こえの良い理由があれば、容赦なく切り捨てられるということだ。
勝手に期待を込めて、失望する——その繰り返しにも、そろそろザイラは限界を感じていた。
もう屋敷へ帰るのも面倒だ……
正直、疲れた……——ザイラは弱気に眉を下げる。
こんな事なら、ドゥガルの第二夫人も良いかもしれない……と馬鹿な事を考えていたら、また夜は明けたらしい。
空に陽が差してきた。
僅かな光でも、それが分かる。
少し眠ろう、そうザイラが目を閉じると、また扉がカチャリ、と開かれた。
ザイラの予想通りの体格の良い中年の男が2人が、部屋へ入ってくる。ザイラは咄嗟に身構えたが、男達はザイラに立て、と言ってザイラをその場へ立たせた。有無を言わさないまま、すぐにザイラの頭に黒い布袋を被せる。それと同時に、ザイラは両手を前で強く縛られた。
何かの準備が出来たのだろうか、両手を縛った先に縄があるようで、低いしゃがれた声が、行くぞとザイラに言ってグイッと縄を引っ張った。ザイラの腕も、自然と引っ張られる。
「いいか、決して騒ぐな。変な真似しようと思うなよ。何度も言うが、大人しくさえしてれば何もしない」
ザイラの耳のすぐ側で、そう男の1人が言うと、その野太い声にザイラは震え上がった。
この薄らと香る甘い匂いも、この男の野太い声も、ザイラには不快でしか無い。
歩き出して数歩、ザイラはジャケットを置いてきてしまったと気付いたが、戻る事も出来ない。
ジャケットが手元にない事に、深い孤独感に襲われた。
階段を慎重に降り、ザイラは微かな外気を布袋の隙間から感じたが、すぐに馬車に乗せられたと気付く。
馬車の中は機密性が高いのか、外の音は一切聞こえなかった。こんな馬車を用意出来る人間は、王国にはそう多く居ない。
静かな馬車の中で、自分の鼓動だけが痛い程大きく聞こえた。
暫くの後、馬車は止まった。
また外気に触れると、なんだか様々な匂いが布越しでも鼻をつついて、騒がしい声が遠く無い場所から聞こえる。酒の匂い、化粧品の匂い、下水の匂いやゴミの匂いもする。
繁華街だろうか?
ただ引っ張られるまま、ザイラは通路を歩き、今度は階段を上がる。階段は踊り場を3回曲がった、建物は3階建てのようだ。それしか分からないが、ザイラは冷静に状況を読めるだけ読み取る。
扉が開く音がして、鼻がおかしくなるほどきついお香の香りがした。
すると男達はザイラの両手を縛った縄を、徐に解く。布袋は被されたまま、またパタンと扉が閉まる音がした。
どう言う事だ……
この袋を取っても良いということか?
ザイラが袋の下で、困惑に顔を歪めた。
「どうぞ、それをお取りください」
甲高く弱々しい女の声がした。
ザイラはそっと布袋を自身の頭から取り除く。
真紅の絨毯に、無駄に紅く絢爛に彩られた部屋は、それ程広くは無い。
ここは……?
痩せて顔色の悪い女が、ザイラの目の前にいた。痩せているのに露出は多く、化粧も濃い。その化粧でさえ、既に顔色の悪さが隠せていなかった。
「準備のお手伝いをさせていただきます」
それだけ言うと、女はザイラに近付く。思わずザイラが後退りすると、女はそれも構わずザイラの髪に手を触れた。
「ご安心下さい、お支度をするだけでございます」
女の呼気で、ザイラは察した。
忌々しい、あの甘い香りだ。
女はそれだけ言うと、ザイラの服にも手を掛けた。 その骨ばった手を、ザイラはすぐに引っ掴む。
「お待ちください。疲れているのです。支度なら、湯浴みをするおつもりなのでしょう?着替えを下さい。全て1人で致します」
虚な目でそれを聞いた女は、微かな笑みを浮かべて頷くが、ザイラの言葉は聞こえていない様だ。
ザイラは思わず女の華奢な両肩を掴む。一瞬折れないかヒヤッとしたが、ザイラは女をしっかりと見下ろした。
「私の手伝いを出来るのは、私に仕える侍女のみ。不安ならば扉の前で待っていたらよろしいわ。どうせ逃げも隠れも出来ないのだから」
女はそれだけ聞くと、相手が貴族というのを認識したのか、おずおずと手を引いてザイラに着替えを渡した。
ザイラは浴室のタイルや、色合い、その誂えを見て確信した。ここは娼館だ。どんな種類の娼館かは分からないが、室内の装飾の凝り様を見るに高級な方だろう。
どんな場所であれ、今体を洗い流せるのは有難いが……ザイラは警戒しつつも服を脱ぎ、体を暖かい湯で洗い流す。
娼館、支度をする、と言葉に、ザイラは悪い予感しかしない。だが今は、言葉通りにするしか無い。震える体を抑えるように、ガシガシと強く全身をこすった。早々に体を洗い、置いてあった香油を塗って、用意された服を着る。
色合いこそ落ち着いた水色だが、胸元が大きく開き、ザイラの背中の傷が見えるか見えないかギリギリの所だった。露出の多さはいただけないが、背中が見えないだけ幸運だったとザイラは思う他無い。
ザイラが浴室を出ると、女は化粧台の前へとザイラを促す。髪を結い上げ、軽く化粧を施される。
口紅の色がうんざりする程赤く、部屋の内装と重なって、ザイラは気分が悪くなった。
「何か飲まれますか?」
女の問いに、ザイラは首を横に振った。
それも構わず、女はお盆に幾つかの飲み物を持ってきた。
水、酒、小皿に載った砂糖のような粉……そして、発光するように明るい、ピンク色の小瓶——
青ざめるザイラを前に、女は皮だけの顔でニッコリと笑みを浮かべていた。その歯はすでに数本抜け落ちて、ボロボロだった。
異様な空間に気圧されて、視界がグルンと回ると、ザイラは堪え切れず床に倒れ込み、嘔吐した。
「あらあら大丈夫ですか?」
そう言って女がザイラの背を摩り、すぐにタオルを持ってくる。タオルで顔を拭われると水を差し出された。
「綺麗にしないといけません。主がお待ちですから」
女は変わらず、ぼんやりと落ち窪んだ目でザイラに微笑みかけている。
女の手から水を奪うと、ザイラは少しだけ口に含んだ。もう一度化粧台に座らせられ、粉を叩き真っ赤な紅を塗られる。
そして、またニッコリと笑うと、あの黒い布袋をザイラに被せた。
「準備が出来ました」
ザイラの背後から、女が扉へ声を掛ける。
先程と同じように両手を縛られて、ザイラは部屋を移動させられた。廊下は長いが、移動先に階段は無く、同じ階のまた別の部屋に通されたようだった。
ザイラは座り心地の良いソファに座らせられると、また両手の縄は解かれる。
ザイラの体が、鼓動のリズムに合わせて小刻みに揺れる。黒い布袋を脱ぐ事は出来る。だが、脱ぎたく無かった。
誰かが近づいて来た、と気配を感じた瞬間に黒い布袋が勢い良く取り除かれた。
「っばぁ」
子供をあやすように布袋を取り除いた人物は、ザイラの目と鼻の先に顔を近づけていた。
ザイラの体中に電流のような悪寒が絶え間なく流れる。背筋が凍る、それは今この瞬間を表すに最適な言葉だった。




