大志
『……まだ来ないのか』
フィデリオは苛立ちを通り越し、最早呆れて笑い出しそいだった。
『殿下をお待たせする人間がこの王国に居るとは、なんとも驚きですね』
レオもそれは同じだ。怒りや苛立ちなど既に通った道で、そもそもあの男にそんな感情を抱いた所で何の意味も無いのも学習している。
フィデリオがソファに座り、自身の威厳と格式を保ちながらクレイグを待つのも飽きた頃だった。
『……この前フェルゲイン夫人に会った時』
フィデリオがそう言うと、すぐ後ろで控える側近は、一瞬瞳の光彩を揺らす。
ここにも呆れた奴が居る……——
と苦笑いが込み上げそになるが、フィデリオはそれを飲み込んだ。
『あの夫人はフェルゲインでありローリーでありフォーサイスでもあるっと言っていたが、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだな……』
かの夫人の周りにはまるで蜘蛛の巣が如くそこら中に糸が伸びている。皆曲者だ。むしろ曲、しかいないと、フィデリオの頭の中もまた、絡まった糸で白く霞んでしまいそうだった。
『しかし亡くなったローリー夫人もやはり、エルメレの女、強かだ……』
それは称賛だった。
自らの出自を隠しながらも、子にはしっかりとその存在を伝えた事に、自身の産まれへの誇りを感じさせた。
——フェルゲイン夫人を産んでまもなく亡くなったと聞くから、伝える事は正しく不可能だったが……
もし今回の機会が無ければ、ローリー姉妹は秘密の名も知ること無く、ひっそりとその伝統は途絶えていたに違い無い。
偶然とはいえ、それこそ運命、というものをフィデリオは感じた。
そんな物思いに耽っていると、廊下から聞き慣れた足音が響いてくる。
『いらっしゃった様です』
レオがそう言うと、フィデリオはソファに座り直す。そして、扉が静かにドアが開かれた。
『遅いぞ』
ドアが開いてすぐ、フィデリオは扉を開いた主へ、怒気を含ませた文句を飛ばす。
それもそうだ——会って話したい事があると、珍しくも手紙をよこしたのはこの男、クレイグ・フォーサイスなのだから。
『……』
男は相変わらず無礼だが、その顔色は青く、以前会った時よりも更に濃いクマが目の下に出来ているのに、フィデリオもレオも気がついた。
奥方の体調が芳しく無い、という話は、既にフィデリオの耳に入っている。
それが良い意味なのか悪い意味なのかまでは把握出来ていない。この男はその辺り、抜かりなく内情を外部に漏らしてはいない。
年の頃を考えれば、良い意味ではないかと推測するが……——とフィデリオは予想していた。
恐らく悪い意味であった場合、この男は一切外に出ずそれこそ四六時中奥方の側に張り付いているだろう、という仮定に基づいたものだ。
そう考えると分かりやすい男でもある——
『何か言う事があるのでは無いか』
殿下をお待たせした事、誠に申し訳ありません——
という言葉をフィデリオは期待したわけで無I。
遅れてすみません、位は言えるだろうと思っていた。話がしたいと言ったのは向こうからなのだから——
クレイグは瞳を上に向けて、暫し考える。
『……話があります』
『それは知っている』
『……では良いですか、話しても』
沈黙が続いた後、フィデリオは長い長いため息を吐いてクレイグに席に座る様促した。
クレイグは椅子へ腰掛けると、ジャケットの内ポケットから小瓶を出し、テーブルに置く。
『なんだ、これは』
フィデリオは手には取らない。
皇族なのだ、普通ならこれが何か見える様に差し出されるのが常である。
『麻薬です。エルメレでも流行った〝春の楽園〝』
クレイグの言葉に、部屋は一気に緊張が走る。フィデリオとレオは顔色を一気に変えた。
『どこで手に入れた?』
『……』
『言えないのか?』
それか言わないつもりか……——
ややこしい言葉遊びをしている場合では無かった。 余裕のないフィデリオは、奥歯をギリっと鳴らして眉間に皺を寄せる。
『そなたにはこれまで、我々も敬意を払って来たつもりだ。高価な医術書や専門書籍を手土産にしたのもその一環だが、我々は良き関係を築いていなかったということか?フォーサイスよ』
フィデリオはクレイグに圧をかける。身分差、いや天上からの施しを無下にする者に対しての、警告だ。 空気が更に張り詰める。
とはいえ以前からこの男が何か恩を感じる性格では無いのもフィデリオは分かっていたので、周りから埋めようと剛腕なフォーサイス夫人から籠絡しようとしたが、今の状況からすると、上手くはいってなかったらしい。
『これを使って……妻を貶めようとした男が居ます』
クレイグはそうポツリと言った。
だがその目は底の見れぬ暗さでありながら、フィデリオやレオを気圧すのに充分な憎悪と憤怒が込められていた。
『これで2度目だ。1度目は僕が居た。だから助けることが出来た。2度目は、妻の代わりになった者が居る。エルメレの土地柄、これに随分手を焼いたのも僕はよく知っている。向こうにいた時、何百人と患者は見た。
まだ小さな噂だが、今エルメレが遂にこれを持ち込んだと王国で言われているのも知っている。だけど、これは元々どこから来たか、それをあなた方がわざわざ調べに来ているのも知ってる。
つまりは王国からやってきたのでは……と思ってる事も。僕は妻を永遠にこの薬物と、それに関わる人間から遠ざけたい。だから、取引です』
クレイグの目の色はどんどん暗くなる。
フィデリオとレオは、雰囲気の異質さに何も喋る事が出来ない。
『有益な情報を提供します。もしそれで妻に手を掛けた奴を見つけたら、ただ僕の前に連れて来て欲しい。その他は何も要らない』
連れて来い、その先は、聞かなくても想像に容易かった。
『フェルゲイン侯爵家。そしてディオン公爵家。この2つの家をよく調べると良い。僕は今調べられない。だから調べて欲しい』
淡々とクレイグは続ける。何の感情も感じない、感じさせない声色は、それでいて既に不気味だ。
こんな一面があるとは……
フィデリオとレオに口を挟む余裕も無かった。
『……その二つの大貴族が、これを流したと?何を根拠に』
フィデリオは鋭く、そして思慮深くクレイグを見やる。
『春の楽園自体は、元はどこの国でも鎮痛や麻酔に使われていた。特別珍しくも無い。それこそ、遥か昔の文献にさえ記述がある。
麻薬の成分を採取するのは人も手間も掛かる割に、その量は極僅か。だから余計重宝されていた。より純度の高いものを求めるなら更に精製しなければならない。あれだけエルメレで流行らそうと思えば、人も金も土地も必要になる。それなりの準備が必要になるということです。
まずはそこから洗うべきだが、まぁエルメレの構造上、かなり難しい。だから手を焼いたんだ。
それに、国王だって馬鹿じゃ無い。海の向こうの騒ぎは警戒していた。それこそ、非公式に水際で食い止めるために尽力はしていた。
だが、それを擦り抜けてこの国に入ってきたのなら、引き入れたのは水際に居る者でしょう。気が緩んだのか、綻びが出たんだ。
帰国してすぐの頃、妻が狙われた時、王国ではまだこの薬物患者を見る事も無かった。
海を渡ってすぐに入手し使用しようと思うなら、これがどんな症状を起こすか既に知っている者だ。故に海の向こうに縁もあり、手に入れるのに時間もかからず海へ販路を持っている者は限られる。フェルゲインも北の氏族達を使えば、そう難しい事では無い。
……妻が最初に狙われたのは、妻のデビュダントの舞踏会。その年に参加した条件に合う貴族は、この2つしかない』
ディオン公爵……——諸国との交易を主とした海運を司る大貴族。フェルゲイン侯爵は王国中の情報を網羅し、北の氏族の主戦場は海——
エルメレのあらゆる商家、売人……いくら追っても潰しても春の楽園は消えなかった。元よりあらゆる民族が独自の方法であらゆる薬を使う。占いや女神信仰の強いエルメレでは、薬は切っても切れない。
惨たらしい公開処刑を繰り返し、密告を推奨し、長い時間をかけやっとエルメレに吹き荒れた嵐を治めたというのに……——
嵐はかの王国にその触手を伸ばし、その咎をエルメレに着せ、友好に水を差そうと必死だ。
フィデリオはすぐにレオに目配せし、レオは扉の前に居る護衛に何やら指示を出す。
しかし、ここまで喋れるでは無いか……
フィデリオは初めて見る光景が信じられないでいた。
普段は打っても打っても響かないクレイグが、見違えるほど饒舌にその確固たる根拠を述べた。まるで同じ人物とは思えない。
フィデリオはクレイグの持つ一面に、驚愕したと同時に、姉が目をかける理由が、それなりにあったのだと納得した。
クレイグが掛ける、エルメレの美しい装飾が施された眼鏡を見るたびに、フィデリオはまるで姉までそこで話を聞いている様な錯覚を起こす。
自らに課せられた使命も所詮は姉の掌の上だ——
この男が役に立つと見通してたのだろう。
何とも、……悔しい——
フィデリオは、人目を気にせず艶のある髪を掻き乱した。
無力、と自らを認めざる得ない。いくら血筋が高貴であっても、幾ら周りが頭を垂れようとも、裸の王様にフィデリオはなるつもりは毛頭無い。
まだまだ修行は足りないということか……と自らを落ち着かせる大きな溜息を吐いた。
ふとフィデリオがクレイグを見ると、小瓶をジャケットに仕舞い、話は終わったと言わんばかりに席を立とうとしている。
『クレイグよ、顔色が随分悪いな。そなたの憂いが明けるまで、ラティマはここに残すとしよう。ラティマなら、必ずそなたの力になれる』
クレイグの不躾な行いは慣れたものだった。けれど今日の働きは確かに有益であったとフィデリオは断言出来る。見知った優秀な侍医を奥方のために残すのは、せめてもの謝意だった。
『……』
だが、クレイグは何も言わない。
『何か言う事はないのか?』
『何をですか?』
既にクレイグはこの場所に用も無く、興味も無い。 早く帰ろうと首はフィデリオを向いているが、体は扉に向いている。
『こう言う時は、ありがとうと言うのだ』
苛立ちを抑え、皇族らしくスマートに、まるで子に教えるように、フィデリオはクレイグに語りかける。
『……言えばいいですか?』
それで満足ですか、というクレイグの視線がフィデリオには耐えられない。
『普通の人間だったら……言うのだ!ここで、ありがとう、と!』
『ここでありがとう』
『私が言ったことを繰り返せとは言ってない』
……なぜだ——なぜこの様な敗北感、挫折を感じるのだろう。打っても打っても響かないどころか、打てば打つだけ己の生気を吸い取られていく。まがいなりにも医師のくせに、共にいると具合が悪くなる。
フィデリオはガシガシと頭を掻き乱す。
『フォーサイス卿、流石に不敬に当たりますよ』
いつの間にか戻った側近が、クレイグを嗜めるが、
不敬……一体どこからが?とフィデリオの動きが止まる。
『……レオ、そなた遅いのだ』
嗜めるなら、生気を失う前にして欲しかった——
もう既に、フィデリオに言葉を発する気も無い。
パタン、と扉が閉まる音がした。
男は挨拶もせずに扉から出て行ったらしい。
そうだ、この男はそういう奴だ。
フィデリオの知っているクレイグはいつも通り帰って行った。




