あの日
「ザザッ!ザザッ!しっかりしろ!」
息がっ!——苦しいっ——!
「かはっ——!」
ザイラの手は息苦しさに胸を押さえ、もう片方の手は何かを掴もうとするように天井へ伸ばされていた。
ザイラはかっと目を開けると、アイヴァンはベッドへ片足をついて体を折り曲げ、取り乱しながらでザイラの様子を窺っていた。
その姿が、ザイラには先程の夢と重なる。
思わず悲鳴を上げたザイラはアイヴァンを押しのけ体を起こす。
夢?夢だ——
大丈夫、分かってる——
ここはローリーの自室じゃない——
わかっていても、生々しい感触は未だにしっかりと脳裏に刻まれている。ぜぇ、ぜぇ、と大きく肩を上下させ、なんとか息を整えながら、ザイラは広いベットの端で縮められるだけ体を縮めて、震えを抑える様に自身をキツく抱きしめた。
「ザザっ!……ザザ?大丈夫か?」
アイヴァンが心配そうに声を掛けるが、その声さえザイラは恐ろしさを感じた。
大丈夫、大丈夫、落ち着いて——
大丈夫……?本当に?——
ザイラは恐る恐る顔を上げて、アイヴァンを見上げた。
緑色の宝石のような瞳——美しいその色は、月明かりでは何色に見える?——
あの晩見た、あの瞳は——
何色だった?——
……緑?
水面にポチャリと滴った、たった一滴の疑念は、波紋を大きくしてザイラの視界に映るアイヴァンの姿をその水面に映す。
ザイラの体はガクガクと激しく震え出して、悪寒が身体中を駆け巡った。
途端にザイラの意識は朦朧とし始める。
アイヴァンが異常を察知して駆け寄り、ザイラの体をしっかりと支えた。
アイヴァンの顔は蒼ざめ焦った様に何かを大声で叫んでいるのがザイラには分かった。だが、何を言ってるかまでは分からない。ザイラは震えに耐え切れず、自身の意識を手放した。
「ドゥガル!あなたのせいよ!あなたがお姉様を連れ回したから!」
ザイラは朦朧とした意識の中で、ロシーンの声に目を覚ました。
寒い……寒さが鋭い針となって、ザイラの体中ありとあらゆる場所を突き刺す。
ザイラが寝ている部屋の扉は開かれたままで、その入り口辺りから数人の話し声がした。
「皆様お医者様のご到着まで今暫くお待ちを」
初老の男性の声が聞こえる。恐らくフェルゲイン侯爵家の執事か何かだろう。
「念の為、病状が分かるまでは奥様への面会はお控え下さい」
淡々と述べるその声に、意義を申し立てる人物が居た。
「何ですって!?看病もするなっていうの!?」
ロシーンは取り乱した声で執事らしき初老の男性を詰める。
「侯爵様のご指示です。感染症であれば、病が蔓延すると」
もっともだな……とザイラはぼんやり思った。王都からザイラが病を持ってきたとしたら、王都と領地を行き来するフェルゲイン侯爵達ならまだしも、北から来た氏族達に免疫があるかは分からない。
「嫌よ!お側に居るわ!」
ロシーンの声が一際大きく聞こえて、初老の男性や他の使用人達がそれをなんとか宥めようとしている。
「下がりなさい!そこを退いて!」
揉める様ないくつかの声と、ロシーンの足音が数歩こちらに向かった音がザイラの耳にも届く。
「ロシーン!!!」
その瞬間、ザイラの部屋の窓が音圧でガタガタと小さく揺れた。屋敷中に響き渡る程のドゥガルの声が、ロシーンの歩みを強制的に止め、騒然とした一瞬の静寂が訪れる。
「こちらへ」
はっきりと、有無を言わさない声でドゥガルはそう言った。ロシーンは迷ったように衣服を擦る音だけがしていたが、歩む音は遠のいて、どうやら大人しく踵を返した様だった。
ロシーンにもしも感染させてしまったら、ザイラはそれこそ自分を許せないが、それ以上にドゥガルが許しはしないだろう。
今度こそ弾を込めて頭を打ち抜くかもしれない——
「気がついたか?騒がしくてすまない」
横に首を向けると、そこにはアイヴァンが居た。
その無機質な顔の眉間に皺を寄せ、深刻そうな面持ちでザイラを見ている。感染を恐れてないのか、危機感が薄いのか、ザイラにそこまで指摘する余力は無い。
「もうすぐ近くの医者が到着する。酷い熱だが大丈夫だ、心配は要らない」
大丈夫だ、とアイヴァンに言われても、屋敷には不穏な空気が漂っているような気がするのはザイラの勘違いでは無かった。
屋敷は急病人に慌てふためき、対応に苦慮している様だ。
ザイラはこんな状況であっても、夢に見た光景が、どうしても目に焼きついて離れなかった。少しでも思い出すと、またザイラの視界はグルグルと回り出し、吐き気が襲ってくる。
ここじゃない——
ここはフェルゲインの療養地だ——
そう飽きるほど、ザイラは自身に言い聞かせる。
それなのに、それが段々と……——
大丈夫だ—-
彼じゃない、アイヴァンじゃない——
と自分に言い聞かせ始めている。
あの人影と瞳は、いつまでもザイラに圧しかかってきているようで、思い出すと呼吸さえ苦しくなった。
「アイヴァン様……」
ザイラはしゃがれた声でアイヴァンを呼ぶ。
「なんだ?寒いか?水が欲しいのか?」
アイヴァンは前のめりになってザイラの様子を注意深く見ている。
「……あの夜。あの日、ローリー領にフィンとやってきて……お泊まりになった時……」
ザイラが言葉を紡ごうとすると、呼吸と共に、なぜか涙が溢れてきた。
「どなたがご一緒でしたか……?」
なぜそんな質問を今するのか、アイヴァンは困惑し首を傾げた。だが高熱に魘されてる人間なら、意識も曖昧で普段の様には頭が働かないというのはアイヴァンも理解している。
「あの時は私とエドガー、それにコリン……ディオン公爵家のコリンが居た」
アイヴァンは柔らかな声で優しくザイラに答えると、躊躇しながらも、ザイラの手をそっと握った。
まるで、怖がる子供を慰める様に——
あなたじゃないよね?
きっとそうよね?——
私を優しく、慈しむように見てくれるあなたが、あんなことする訳ない——
あれは、緑色の宝石のような瞳じゃなかった——
誰かにそうだよ、彼じゃ無いよ、とザイラはと言って欲しい。ザイラの涙はとめどなく溢れた。
アイヴァンはそれを見ると、ハンカチを取り出。本当にそっと、触れたら壊れてしまいそうな物に触れるかの様に、少しづつザイラの頬を拭った。
アイヴァンの行為に、ザイラは不意にミア嬢が思い浮かぶ。
熱に魘されてるせいだ——
だからこんな感傷的になるのだ——
愛してくれたなら、どんな風に愛してくれるのか、考えた事があったけれど……——
もし、が存在したなら……きっと、こんな風に慈しんでくれるのかもしれない、とザイラは虚しい錯覚を起こす。
ミア嬢が羨ましい——という一瞬だけ浮いた思いは、流れる涙と共に流れ落とす。
ザイラは自分が余り情け無くて、アイヴァンという人間に全てを預けれないのがもどかしくて、涙はやはり止まらないままだった。
全て高熱のせいだ——
きっとあなたじゃない、私には分かる。
あなたはこんなにも優しく、涙を拭ってくれる人なのだから。
ザイラは、その直感を信じることにして目を閉じた。




