第8話 渦巻く恐怖
ある瞬間、誰もが学園で溢れ出した殺意を感じ取った。
「焦らないでください!」
学園では警鐘が響き渡り、混乱に陥っていた。生徒たちは理性を失いかけ、あてもなく逃げ回っている。逃げなければ殺される。確証もない恐怖に突き動かされ、教師の指示も意に介さなかった。
クロの友人の三人も、校舎内を走っていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
後方を走っていた晃は、前の美琴と竜胆を呼び止める。
「クロくんがいないよ!」
逃げ惑う生徒に、クロの姿はなかった。彼が危ない。
その心配に、美琴は口調を強める。
「当たり前でしょ。《《アレ》》はクロが創ったんだから。違う?」
騒動の発端は、クロが発現させた少女だ。
前へ向き直し、美琴は再び走り出した。
「でも……」
何も言い返せず、晃も彼女の後に続いた。
しかし、竜胆は足を止めた。
◇
「ご主人様?」
孤立した教室で立ち尽くしたクロは、その声で我に返る。
学園に警鐘が鳴っている。自分を起点として発生した。
いや、ユキだ。この少女の叫び声は、確実に人の命を奪う代物だった。自分の生み出した精霊が、人を殺めかけたのだ。
「ど、どうしよう」
やがて異変を察知した教師たちが駆け付ける。他の生徒が逃げ切った中、取り残されたクロは真っ先に怪しまれる。警鐘が発生した真相は見当もつかない。
下手に動くより、学園に身を委ねたほうがいい。
しかし、もし近づいてきた人々を、ユキが再び襲ったら――。
「……ユキ。隠れて」
クロは次第に足を動かし、ユキに命じた。ユキは漆黒の影になり、溶け込みながらクロの後を追いかけていった。
今はとにかく、逃げるしかない。人気のない場所を目指し、騒ぎが収まるのを待つ。警鐘は鳴り止んだ。いずれは元通りになるはずだ。
その後のことは、まだ考えられない。
学園の中には、逃げ遅れた生徒たちの姿が残っている。クロを見かけても、実技室のような反応はない。
彼らからすれば、クロは逃げ惑う生徒と同じように映っている。
ユキの姿を見せなければ、過度に警戒を向けられないようだ。
出口に近づく。しかし、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あの子がぁ! あの子がやったのぉ!」
「落ち着いてください! あの子って誰なんですか。先生!」
ユキが襲った教師だ。この通路は使えない。
クロは進路を変え、階段をのぼる。廊下の窓から見える庭では、パニックが起きていた。低学年の生徒が逃げ回り、足を絡めて転んでいる。泣き声を上げる生徒もいた。恐怖に染まった声が、クロの胸を突き刺す。
騒ぎは自分が思っていた以上に深刻になっていた。
他の教室に隠れたくても、大半は逃げ遅れた生徒がいる。先へ進むしかない。
この先は、上級生の校舎だ。
「どうして警鐘が鳴ったんだろう?」
「さあ。避難命令が出されてるらしい。授業潰れてラッキー」
「言ってる場合か。さっき外を見たけど大変だったぞ」
低学年とは違い、恐慌に陥っていなかった。上級生は異変を不審に思いながらも、大人しく教師の指示を待っている。人が多い。クロの存在が目立っていた。
「あれ? あの子、低学年の子だよね」
「なんでここにいるんだ」
ここに来るべきではなかった。
引き返すか悩んだが、駆け付けた教師と鉢合わせたら終わる。
この群集を突き抜けたほうが、安全な気がする。
渋滞が立ちはだかる。潜り抜けようとしても隙が無い。無理でも押し通そうとするが、上級生の屈強な肉体に弾かれてしまった。
「ちょ、なんだよ。誰だ?」
「変な子がいる。副委員長。ちょっと捕まえてくれない?」
「え、うん。どうしました? 避難場所、分かりません?」
一人の生徒が、尻をついたクロと視線を合わせる。
呼吸が痞える。クロはとっさに跳び上がるが、生徒に腕を掴まれた。
「そっちは危ないから。後で先生が来るので待ってください」
冷え切った悲鳴がこぼれる。教師に見つかれば、さらに警戒が強まる。言い逃れができなくなる。クロは意地でも離れようとするが、腕の力が強まる。
騒ぎが広まる。生徒たちの注目が集まっていく。
「落ち着いて。今、避難命令が出てるみたいだから――」
「そこまでだ」
その瞬間、全員の手が止まる。
鼓膜を細く穿つように冷徹な声、耳が覚えている。クロは顎を震わせながら、声のした方へ振り向いた。
「なぜ、お前がここにいる?」
「……姉さま」
事代家の長女、早乙女がいた。
彼女は杖を携えている。
「い、委員長。これは――」
「下がれ。私が話をつける」
彼女の命令により、生徒は逃げるように拘束を解いた。
だが、クロは支配から逃れられていない。
「高学年の校舎に何の用だ」
答えを誤れば、脱出どころの話ではなくなる。
「に、逃げたんです。学園が大変なことになっているので」
「大変なこと? それは何だ」
「えっと、僕もよく分かっていなくて……」
沈黙が起こる。早乙女は何も返さない。
彼女の瞼は、失望するように閉じた。
「姉さん?」
「……誰が――」
姉さんと呼ぶことを許可した?
早乙女は握っていた杖を構える。先端に添えられた青い水晶が、輝きを放つ。彼女の周りに魔材が収束し、頭上に新たな水の球体が発生した。
「ウォーター・クラフト。マテリアル・アクア」
水魔法の起点。多様な技へ発展させる球体。
それは、美琴が創ったものとは規模が桁違いだった。
カレントバインド。
二つのマテリアルから水流が伸び、クロへ襲い掛かる。
痛いのは怖い。目を閉じた瞬間、クロの影からユキが飛び出した。寸前まで迫っていた水の触手は、一度宿主の元へ引き返す。
異変に気づいたクロは、震える瞼を開いた。
「……ユキ!?」
自分の意思とは関係なく、ユキが姿を現した。
それと同時に、上級生たちが暴れ始める。すぐそこで顕現する殺意の塊に、保っていた統制が乱れた。あのときのように、誰もがユキから逃れようと、我先に出口へ殺到する。
唯一、早乙女だけは微動だにしなかった。
「お前には心の底から失望した。認識が甘かったな」
逃げ惑う生徒たちを避け、早乙女が距離を詰める。それに合わせてクロは後ずさるが、ユキは両手を広げたまま、一歩も引かずに義姉を睨みつけた。
「学園では既に避難命令が出されている。場所は庭園。ここ二階の校舎とは真逆の方向だ。お前が意図せず迷い込んだのは、理に適っていない」
すべて看破された。もう説得が叶わないことを悟り、クロはユキの手を握って駆け出す。生徒が逃げたことで、道が拓けていた。
だが、義姉が逃亡を許すはずもない。
「私に後ろを見せるとは。笑止千万」
彼女は頭上に浮かぶマテリアルから、再び水流を伸ばす。
音が聞こえてから、クロの背中に衝突するまで一瞬だった。速度が桁違いだ。クロは成す術なく、蛇のように絡みつく水流に捕らわれ、床へ転倒する。
「ご主人様!」
そばに取り残されたユキが、宿主の危機に駆け寄った。
手足が固定され、微動だにしない。圧迫された肺に酸素を送ることすら精一杯だ。それだけに留まらず、触手から滲む水域が、クロの体力を奪っていく。
「ね、姉さ、ま……」
「事代クロに命じる。お前を世界の理に反した反逆者として拘束する」
言葉の意味を理解するよりも早く、クロは苦痛に喘いだ。
宿主の無残な姿を目の当たりにしたユキは、怒りを見せる。
そして、頬を膨らませた。
「……ま、待って――」
また波動が放たれる。声が出ない。
義姉が死ぬ。どんなに優れた魔法であっても塵になる。
早乙女は危機を察知し、とっさにマテリアルを増やす。
ユキも攻撃の準備を止めなかった。
「ユキ! お願いだから話を聞いて!」
ユキの足元に、結晶のような漆黒の力がみなぎっていく。次第に空間が歪み始めた。宿主であるクロの声も、届いていない。
早乙女も、クロの拘束を解かない。力強くでも止められない。
自分が無力なせいで、姉が死ぬ。
それだけは嫌だ。
「……姉さんは、僕の――」
大切な人なんだ!
――そう叫んだ瞬間、早乙女の魔法が、一瞬だけ力を失った。
「ううぅ!」
クロは迷わず身を暴れさせ、縛り付けていた水流から逃れる。
そして、ユキの体に抱き着いた。彼女の顔を強引に引き寄せ、咆哮の向きを義姉から真横の壁へと逸らす。
ユキが叫び、その波動が学園の壁を破壊した。
道が拓けたことを確かめ、クロはユキの手を握る。二階の廊下から、破壊された壁の隣にある木の枝を伝い、地上へ滑り降りる。二人は再び逃走した。
取り残された早乙女は、呆然と廊下に立ち尽くすのだった。




