第7話 日常が壊れる
クロは普段と変わらない時間に、鞄を肩にかけて玄関へ向かった。
玄関には誰も来ない。ビオラがパンを分けにやってくることもなかった。
――落ち着け。
クロは拳を丸め、自分に言い聞かせる。
魔法を使えた。そのことを証明するには、まだ遅くない。
「行って参ります」
応じる者のいない廊下に告げ、クロは屋敷を後にした。
重い首を上げる。空は今にも嵐が起きそうなほどに濁っていた。
◇
教室に到着するまでの道のりは過酷だった。昨晩から一睡もしておらず、父上から打たれた頬の痛みも消えていない。気を抜けば意識が飛びそうになった。
クロは生唾を飲み込み、扉を開く。その先では、友人たちが話し合っているが、クロは視線を合わせられなかった。俯いたまま机に座り、やがて鐘が鳴る。
教室に着いたら、すぐに朝礼が始まるように調整して歩いた。まだ竜胆たちには話せない。昨日は避けてしまった。父上に抹消される可能性だってある。
きっとみんな驚く。自分が初めて魔法を使えたのだから。
次の時間の授業で、ユキを見せる。
「おはようございます。全員いますね」
実技室にて、班を追い詰めた教師が苛立たしく出席簿を開いた。
「授業を始める前に話があります。昨日、魔法による実習がありました。欠席者、および私から指名を受けた生徒は、今すぐ立ち上がってください」
教師の命令に、該当する生徒が腰を持ち上げる。
クロは深く息を吸った。心臓の鼓動が、より激しくなる。
「まずは、あなたから」
生徒たちの視線が集まる。クロは顔を上げた。
呼ばれたのは、クロではなかった。最初に指名された生徒は、気だるげに手を動かす。
「合格です。なぜ昨日は休んだのですか」
「いや、頭痛くて……」
「次はありません。体調管理も学生の本業です」
その後も教師の指名が続いていく。呼び出された生徒は、当然のように即興の作品を見せた。虱潰しにするように、次から次へ席に座らせていく。
「いいでしょう。もう用はありません」
この場に立っているのは、クロと教師だけになった。
「きちんと練習してきましたか?」
一歩ずつ近寄りながら、教師は怯えた様子のクロに問い詰める。
その光景を、友人の竜胆は遠くから眺めていた。
『――もう僕のことは、助けなくていいよ』
クロの言葉が、動かそうとした足を止める。
頬には昨日までなかった傷があった。何かあったのだろう。助けたくても、クロはそれを望んでいない。それでも、魔法が使えなければ、さらに教師の逆鱗に触れるだけだ。
「――はい。創ってきました」
それを聞いた竜胆は、驚愕の声を漏らした。
『きっといつか、魔法を使えるようになるから』
自分でもそう言った。ありえない話でもないのに、なぜか信じられなかった。
「では、すぐに見せてください」
教師の促しに、クロは肩を震わした。今では太鼓を打ち鳴らしているように鼓動し、吐き気すら催す。深く息をつき、自分の影に手を伸ばした。
昨夜の感触が、指先に蘇る。
やり遂げる。日常を取り戻すんだ。
「出ておいで。ユキ」
その呼びかけに、クロの足元に伸びる影が呼応した。
教室の床に、漆黒の液体が煮えたぎるように滲み溢れる。そこから、そぐわない純白の髪が浮かび上がった。宝石のような輝きを放つ瞳が晒され、ドレスが優雅にたなびく。
魔法の使えないクロが創り出した少女が、現世に降り立った。
これで、今までの憎き日々ともお別れだ。
「あの、この子なんですけど――」
教室は、ひどく凍り付いていた。
「……え?」
誰もが畏怖に憑りつかれたような表情を浮かべ、ユキに釘ついている。
ある一人の生徒が甲高い悲鳴を上げ、その場にいた生徒が一目散に飛び出した。椅子や机が蹴り飛ばされ、怒号や悲鳴が混じる。我先にと廊下へ押し寄せていく群集の足音が、建物そのものを揺らした。
騒ぎの中、クロは思考が止まる。
一つだけ分かった。
これは、自分のせいだ。
「あ……あぁ……」
クロの前にいた教師が、腰を抜かした。最後の生徒が逃げ出し、両者だけが取り残される。教師は下唇を噛みしめると、黒板の前まで滑り込んだ。
そして、懐からステッキを取り出す。
「プラント・クラフトぉぉ!」
杖から鋭い棘を帯びた茨が突き出した。
剥き出しになった敵意が、クロへ迫る。
――やめて。怖い。
恐怖を感じたそのとき、ユキが力強く床を踏み鳴らした。クロを守るように立ち塞がった少女は、ありったけの空気を吸い、頬を膨らませる。
次の瞬間、鼓膜を破滅させるような叫び声が響いた。小さな口から放たれた音波は、クロの目先まで近づいていた茨を跡形もなく焼き尽くしていく。
波動は止まらず、教師まで到達した。
黒板が打ち砕かれ、室内を震わせる。
クロは耐え切れず、膝から崩れ落ちた。
そこにあったはずの椅子や机が、初めから存在しなかったかのように消し飛んでいる。波動をかすめた床は黒い断面を残し、黒板は大きく穿たれていた。
確かにいたはずの教師が、姿を消している。
「……そんな、嘘だ」
最悪な予感が、脳裏をよぎった。
やがて、くり抜かれた教卓の陰から、怯え切った声が漏れ出す。教師はとっさに身を倒し、寸前で波動を回避していた。ステッキは湯気が立つ根元を残し、消滅している。
教師は這い上がるように、教室から飛び出した。
そして、学園に警鐘が鳴り響いた。




