第6話 ユキ
その少女には、不可解な親しみがあった。
まるでずっと昔から隣にいた家族のようだ。しかし、いくら記憶を辿ろうが、そのような事実は見当たらない。初めて見たのは確かだった。
幻想から訪れたような少女は、ベッドの上で足を広げ、純粋に笑う。
「ご主人様!」
その呼びかけに、クロはすぐに応えられなかった。
「……君は、誰? どこから来たの?」
クロが口を開くと、少女は不思議そうに首を傾げる。
やがて、理解したかのように笑顔を取り戻した。
「ご主人様!」
何も分かっていないようだった。
この少女は同じ言葉しか話さず、言葉が通じているかさえ分からなかった。
ひどく動揺していたクロは、窓から差しかかる日光を見て、ふと我に返る。机上の置時計では、四時五十分を差していた。もうすぐ普段の起床時間だ。
今日も学園がある。クロは自分の姿を鏡に写した。昨夜から服装が変わっておらず、髪は天井に逆立っている。我ながら酷い姿だった。
「なんとかしないと」
身なりを整えていく最中、クロはベッドに取り残した少女を覗き込む。彼女は何かを待っているかのように、口を開いて固まっていた。
彼女が現れるまでの記憶が途切れている。とにかく必死だった覚えはあるが、やがて何もない場所で光が走った。あの少女が座っている位置だ。
もしや、あの少女はクロが創造した存在なのではないか。
「あ、あの」
声をかけると、少女は嬉しそうに反応し、こちらまで駆け寄った。幼い人間のように振る舞う様子に、混乱はさらに加速する。
支度を進めながら、クロは問いを重ねた。
自分の名前は分かるのか。
別の言葉は話せないか。
なぜ、自分を主人と呼ぶのか。
――本当に、魔材から生まれた存在なのか。
「ご主人様!」
答えはすべて同じだった。知性がないのか。そう疑ったが、壁や床などを認識できるほどには賢い。どういうわけか、クロを慕っている。
思考の末、クロはある答えに辿り着いた。
この少女は、精霊ではないのだろうか。
魔法を扱う者の中には、精霊を操れる。そして、精霊は宿主に忠実だ。魔導書での厳かな印象とはかけ離れているが、この少女にも共通している。
しかし、精霊は自分の意思を持たず、物体に近い。
この少女は、そうは見えない。
そもそも、無為体の自分が魔法を使えるなど、決してあり得ないはずだ。
「……でも、学園に連れていけば」
もし本当に魔法によって創造された精霊ならば、これまでの問題は払拭される。今日の授業で提出する課題も、条件が満たされた。父上からも認められたら、失った日常を取り戻せる。
クロは決断した。だが、そのときまでは、この少女を見せたくない。
特に本当の体質を知っている家族は避けたかった。
どうにかして隠せないだろうか。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
「え、ええ?」
そこにいたはずなのに、影も形も残さず消えている。少女が立っていた床に触れるも、指先に来るのは冷たい木板の感触だけだ。
まるで奈落にでも落ちたかのように消えてしまった。
くすっ。
どこからか、忍び笑いが聞こえる。しかし、この部屋には響いていない。まるで自分の心に直接囁いているようだった。
クロの影が伸び、その中から少女が頭を突き出す。
「ご主人様!」
クロは思わず膝をついた。明らかに人外な力だ。
今の行動は、自分の想いに応えるようだった。
「えっと、ならご飯は創れる? パンとか」
立ち上がりながら簡単な命令を下すが、少女は首を傾げた。命令に忠実とはいえ、なんでも願いを叶えられるわけでもないらしい。
だが、もし自在に姿を消すことができるのなら、誰にも気づかれることなく学園に行ける。
クロは固唾を呑みながらも、期待で胸を高鳴らせる。支度の手を速めるが、彼女のことが気になって仕方がなかった。
次の命令を待つかのように、少女はそばで佇んで
いる。
「なんていうか、自由にしていいよ?」
たまらずクロが言うと、少女は弾けるように笑い、途端に駆け出した。両手を広げながら室内を駆け回り、自分が生まれた場所でもあるベッドの上で、高く飛び跳ねる。その反動で、室内が揺れた。
「ちょ、そんなに騒いだら」
彼女のはしゃぎ声で、屋敷の人間に悟られてしまう。
クロが制止させると、少女は銅像のように静かになった。彼女の言動には心が持たない。本当に精霊なのか、最後まで信じ切れなかった。
登校の準備を整えたクロは、少女に命令を与えようとする。
そこで、呼び名がないことを不憫に思った。
自分が創造した存在ならば、元から名前がないのも当然のことだ。
雪の結晶を連ねたようなドレス。雪原のように浄白な素肌に、銀糸を織り込んだように長い髪。
そんな印象から、クロは口にした。
「――ユキ。行こう」
ユキは、どこか嬉しそうにしていた。




