第5話 全てを失った夜
その夜、クロは全てを失った。
まるで重い水に溺れているかのように、手足がうまく動かせず、視界も濁っている。
ふらつく足取りでようやく自室に辿り着くと、クロはベッドに倒れ込み、枕に深く顔を埋めた。喉が裂けるほどに叫んでも、その声は誰にも届かずに消えていく。
ただ、胸の奥底へ沈み込んだ。
何もかも失った。
楽しかった学園での日常も、支え合ってきたビオラとの温かい記憶も、今では遠い前世の記憶のように霞んでいく。あれが全て、いずれ覚める淡い夢だったなんて、信じたくない。
心の中で助けを呼ぶ。
誰か助けて。
応える者はいない。
父上が悪い。そう思っても無理だった。怒りの矛先を向けようとすれば、その姿は自分自身に変わる。魔法も使えない事代家の恥。
そう、全ては自分のせいだ。
誰も悪くない。自分が無力なせいだ。
「……嫌だ」
どうしても、受け入れられない。
自分の頭を殴り、今日の記憶を引きずり出す。
学園で突きつけられた成績。
魔法の実技の失態。
そのせいで、こんなことになってしまった。
魔法が使えない体質が理由だ。
今までの苦しみも、すべて無為体という呪いのせいだ。
魔法が使えるようになれば、すべて解決する。
それに気づいたクロは、濡れた枕から顔を離した。
魔法が使えれば、成績も上がり、実技の課題も完了する。父上からも役に立つ道具として認められ、ビオラを屋敷へ呼び戻せるかもしれない。竜胆たちの関係だって、元通りにできるはず。
魔法さえ、使えれば。
クロは悪霊に取りつかれたように立ち上がると、わずかに開いていた扉を押し、廊下からの光を葬り去る。
底深い夜の闇に沈んだ部屋で、再びベッドの上に膝をついた。
生唾を呑む。今まで試したことはない。無茶だと思い込んでいた。
でも今なら、できる気がする。
祈りを捧げるように、クロは暗闇に手をかざした。
想像力を極限まで研ぎ澄まし、常人の真似事をする。
水の一滴でも、火花でも構わない。どれだけ卑小でも、何か一つでも形にできれば、この地獄のような苦しみから解放される。
自分の命を差し出すほどの意思で、指先に力を注いだ。
奇跡は起こらなかった。
無為体は魔材を宿す器そのものが存在しない。翼を持たない人間が空を飛べず、夏に雪が降らないのと同じ。決して覆しようのない世界の理だ。
「嫌だ! 諦めたくない! 絶対やる!」
窓の外では、銀色の月が屋敷を巡る。数秒、数分、数時間。他者にとっての当たり前に、クロは血を吐くような思いで手を伸ばし続けた。いつかは届く。そうでないとおかしい。その一心で。
「……なんでよ。なんで!」
どこまでも無力な自分を、いっそ引き裂きたくなった。
朝が近づいている。もうすぐ登校しないといけない。魔法の実技で認められないといけない。このままでは課題を果たせない。
時間がない。
焦れ。
何か創れ。早く。
「あああっ!」
とうとう手を下ろしてしまった。腕が震える。これ以上は無理だ。体も鉛のように重い。自分の手が四つに見える。
苦しみからは永遠に解放されない。
今にもベッドから崩れ落ちそうになる。
ただ、取り戻したいだけなのに。
みんなといつものように笑いたいだけなのに。
――もう、なんでもいい。
魔法なんて必要ない。
何か創ることができれば、理屈なんていらない。世界の理に背く禁忌だったとしても。取り返しがつかない道だとしても。
今までとは明らかに異なる感覚が、手のひらを走った。
「……え?」
まるで空想を見ているかのように、クロは目を輝かせる。
虚空から、白い光が迸っている。それは神々しいほど純白の輝きを放ちながらも、その裏では底知れない闇が渦巻いている。
これが、魔法なのか。
思考を捨てる。その光へ没入した。脳裏にかすめる大切な人たちの影。普通ではなくても、そんな自分を認めてくれた友人。幼い頃から共に支え合ったビオラ。
そして、自分を虐げてきた家族の姿が映る。
白い光はクロの想いに呼応し、意思を持つかのように収束する。ベッドの上で蠢きながら、一つの形を築き上げていく。
遺された力をすべて出し切る。
その瞬間、ガラスが砕け散ったような衝撃が、クロの全身を駆け抜けた。
心を蝕んでいたものが、引き剥がされた。
「――う、うう」
臨界を迎え、クロはその場で倒れ込む。
硬い生地に打ち付けられるはずの顔は、泣きたくなるほど柔らかい感触に受け止められた。クロは信じられず、痙攣する瞳を必死に持ち上げる。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
乱れたベッドの上には、煌びやかな白亜のドレスが広がっている。
綺麗だ。
――誰かいる。身動きの取れないクロの頬を、小さな指先が包み込んだ。凍えるような感覚が、父上に殴られた痣に広がっていく。
クロは重い顔を上げた。
そこには、見たこともないほど美しい少女がいた。
「ご主人様!」
「……君は、誰?」




