第4話 事代家の当主
食堂は忙しなかった。食器がぶつかり合い、水道の蛇口からは勢いよく水が流れている。家政婦たちが殺伐とした声を上げた。
そこにビオラの姿はない。
クロは主室の食卓へと向かった。
台所のカウンターには、豪華な料理が無機質に並べられている。食事は個人制であり、既に始まっていた。
「遅かったじゃないか。クロ」
声が投げ飛ばされる。先に到着した末弟が気だるげに顔を上げ、クロを罵った。
「いつも舐めたような顔して。いつになったら俺を越えるんだ?」
クロは顔を下げる。
「……ごめん」
「ごめんなさいだろ? それが俺に対する態度か」
「そのくらいにして」
末弟が汚れたナプキンを鷲掴み、クロへ投げつけようとした瞬間、テーブルの奥から声がした。
魔導書を読み更けながら食事を口に運ぶのは、次女だ。
「俺に言ってんのか? 悪いのはクロだよな」
「どちらが悪いかなんて興味ない。邪魔しないでって言ってるの」
眼球をむき出しにし、口調を速める。
「また喧嘩してるの? 不快だからやめてくれない?」
わざとクロに肩をぶつけたもう一人の次女が、あくび交じりに言う。床に跪きながら、クロはその後の会話を聞いた。
「作業で疲れてんだから。女には気を遣いなさい」
「どうせ虫の解剖だろ?」
「最近飽きてきてさ。人間の解体もしたくなったよ」
その次女はクロを見下ろし、口角を上げた。
彼女が席につくと、専属の家政婦が食事を運んでくる。
「あぁ……うわあぁぁ……」
料理が届いて間もなく、入り口から荒々しい足音が聞こえてきた。鼻息を荒らしながら現れたのは、長男だ。
彼が座ると、テーブルが小刻みに震える。兄妹たちは小言を言いながら、ただ黙々と食事を口に運んだ。
クロも家政婦から愚痴と共に料理が届けられ、同じようにする。料理はあまり喉に通らなかった。無理やり胃に押し込んだ塊が、何度も逆流しそうになる。
長女の早乙女は、クロが訪れる前から既に食事を終えていた。
◇
食事を終えると、クロは一度自室に戻る。
正装を完璧に整え、止まらない心音を廊下へ運んだ。
静まり返った廊下には、赤色のカーペットが敷かれている。灯炎が揺らめく音だけが、これから起こる出来事を囁き合っているようだった。
そして、忽然と存在する一つの扉の前に、クロは止まる。
『父上からの指名だ。夕食を終えた後、執務室へ向かえ』
この奥に、本当に父上がいるのか定かではないほど静かだ。
「クロです」
入れ。
確かに、父上の声が返ってきた。
クロは汗まみれな手を、扉の取っ手に伸ばす。軋む音を必死に抑えながら扉を押した。精神を極限まで研ぎ澄ましていくうちに、外からの風を感じる。
執務室では、椅子に座った父上が窓の外を眺めている。
まるで怨霊が住み着いているかのようだった。
クロは部屋に踏み入れると、扉を完全に閉め直す。
「失礼いたします」
そして、最敬礼した。一瞬の滞りも許されない精密な動きで。
コーヒーをすする音が聞こえる。マグカップを机に置く。
父上は椅子から立ち上がると、窓を力任せに閉ざした。
「想定よりも遅かった。何をしていた」
振り向かずに、当主は問う。
「申し訳ありません。夕食に時間をかけ、準備が遅れてしまいました」
沈黙。
父上は横目を送る。
再び、沈黙――。
「右肩の位置が偏っている。それでよく時間をかけたと言えたな」
そこで初めて、クロは正装がわずかに傾いていることを知った。自室では服のしわや埃ひとつ許さないほどに整えたはずだ。
「二度はない」
そのとき、父上はクロへ顔を向けた。
まるで悪魔のような険相だった。今に殺されても不思議ではない。
本題に入ると言わんばかりに、父上は姿勢を整えた。
「今日の午後、学園から連絡があった」
机上に置かれた固定電話を見る。
「また、私に恥をかかせたようだな」
やはり、父上に知らされていた。
「本日の二限目、お前は失態を犯した。教師のくだらぬ怒りに触れたようだな。課題の話も受けた。お前はそれを受け入れたと」
一歩、父上は床を踏みしめる。悲鳴を上げるように軋む。
「なぜ従った。無為体であるお前が魔材を生み出せるはずがない。不可能と分かっていながら、このような愚策に乗ずるとは」
無為体であることを隠しているのは、父上の意だ。
クロは問いに答えられなかった。
悪いのは、すべて自分だ。
それを打ち明けたところで、何の解決にもならない。
「加えて成績では最低評価。筆記は学年でも最上位だったようだが、自惚れるな。魔材を扱わなければ価値など認められない」
逃げ場を閉ざすように、父上は言葉を重ね、距離を詰める。
「ならばどうする?」
「はい。魔法が使えなくとも、誰かに必要とされる力を身に着けることです」
答えが口から離れる――。
クロの頬に凄まじい衝撃が走った。
視界が揺らいだ次の瞬間、背中に鈍い痛みが叩きつけられる。そこにあった本棚が倒壊し、大量の書物や埃が崩れ落ちる。
「いつからお前は、口先だけの人間になったのだ?」
拳を振り抜いた体勢のまま、父上は崩れ落ちるクロを見下ろした。
「攻撃を予知できる隙は見せた。にも関わらず、何もできなかった」
突き刺すような言葉が、木くずと共に降り積もる。
「――その程度で、誰がお前を必要とする」
クロはがくっと首を落とした。
この場所に幸せはない。始めから分かっていた。
今は耐える。この時間を耐え切れば、いつもの日常に戻れる。
「お前の実力が発揮されない原因は、周囲の人間にある」
「……え?」
石を落とされたかのように、その言葉が心を砕く。
クロは本の山から、力無く顔を上げた。
「早乙女から聞いた。事代家の人間であろうお前が、他者とじゃれ合っていると。その不穏分子が、お前の心を弱めている」
――それだけはやめて。
「今後、その者たちと関わりを持つことを禁ずる」
学園の生活は数少ない希望だ。暴力など気が済むまで受ける。どんなに冷酷な言葉を浴びせられても構わない。
友人を失うことだけは、受け入れられない。
それすらも奪われたら、生きる理由すら残らない。
「私も面倒なことは避けたいが、もし周りの人間がお前を唆すような真似をすれば、その家族の末路は分かるな?」
脅迫の意味を理解した。それでも、クロは頷けなかった。
「……ま、待って――」
木屑の山から身を乗り出し、這いつくばって父上を仰ぎ見る。
「そ、それだけは、どうか――」
「それと、先ほど話をつけたことがある」
クロの懇願を気にも留めず、父上は告げた。
「お前に専属させた家政婦、ビオラは別の家系に売ることになった。お前には後日、別の家政婦を配属させる」
その後も言葉が続くが、遂に耳には届かなくなった。
思考が追いつかない。意味が分からなかった。
『残りは、また後でやりましょう』
つい先ほどまで、ビオラはすぐそばで普通に話していた。
ビオラが、他の家に売られた?
「あの売女のことも忘れろ。お前には不要の存在だ。その顔面の包帯も、奴からの差し金だろう」
床に伏せるクロの顔に、父上の手が伸びる。ビオラが丁寧に貼りつけてくれた包帯を、力任せに引き剥がした。鋭い音が響き、クロの口から悲鳴が漏れる。
包帯が、父上の手元にある。
「……やだ。やめてぇ!」
父上は包帯を床に叩きつけ、靴底で踏み潰した。
胸の奥が音を立てる。灰皿のようにこぼれ落ちる。父上が次に靴を上げた下には、もはや原型を留めていない布が散らばっていた。
「ああぁっ!」
引き剥がされそうな頭皮の痛みに、クロは悶絶する。
「悲鳴を上げるな。礼儀がなってない」
父上はクロの髪を掴み上げた。
「お前は事代家、使命を果たすための道具に過ぎない。道具に意思は存在しない。理解する価値もない。ただ私の言葉に従うだけでよい」
髪の毛を掴みながら歩き、子供を引きずる。絶え間なく続くうめき声にも眉ひとつ動かさず、父上は扉を開け放つ。ゴミを扱うように、その子供を廊下へ投げ捨てた。
「奴隷に幸福は不要だ。そのことを骨の髄まで理解しろ」
扉が閉まる。
それからしばらく、クロはその場で動けずにいた。
理解を拒む。
それでも、突きつけられた現実が、今までの思い出を抉り取った。
ひとつ、心の器に雫がこぼれ落ちる。
その器は限界まで満たされ、今にも溢れ出そうとしていた。




