第3話 与えられた痛み
学園の鐘が鳴り、一日が終わりを告げる。
あれから、クロは一度も竜胆たちと目を合わせられなかった。帰りの号令を終えると、鞄に荷物を詰め、駆け足で教室を去った。
罪悪感に満たされる重い心を引きずりながら、広大な校舎を横切る。
「見ろ! 代表がいるぞ!」
正門の周りでは、生徒たちの人だかりができていた。
その中央に、一人の生徒が立っている。
“アカデミック・オーソリティ”の代表だ。
学園は生徒を教育するだけでなく、国の政治を担っている。中でもアカデミック・オーソリティと呼ぶ組織は、その中枢に位置する選抜された生徒たちの集まりだ。
「今日も任務お疲れ様です!」
「いつもありがとうございます!」
――あの空間に、自分の居場所はない。
クロは人だかりを静かに横切る。正門を通過すると、高台から街の景色が見渡せる。賑やかに夜を迎える準備をしていた。
この街も、学園の生徒も。自分の気持ちなど知る由もなく、魔法に染まる日常を謳歌している。近いようで、理解の届かない世界。
クロは鞄の紐を強く握り、電車の停留所へ急ぐ。
「ハア……ハア……うぅ」
息切れの中に、情けない声が混じってしまった。
足を動かす最中にも、思考は止まらない。あの教師から課された命題を、何とかしなければならない。
どうやって。魔法が使えない自分に、何が創れる。
その授業だけ欠席するという選択肢もない。
事代家の当主が、それを許すはずもなかった。
解決策は何一つ思い浮かばないまま、クロはベロニカ島の港町まで着いてしまった。昼夜が入り混じる夕焼けの中、足を進める。
そのとき、頬に硬い衝撃が走った。
トマトが頬をかすめ、地面で砕け散る。腐った果汁の匂いが充満し、鼻を突いた。その一部が片目に入り込む。
野菜を売る店。薄暗い店内から、中年の男が手を振り上げていた。何か叫んでいるが、よく聞き取れない。別の場所では、子供たちが石を投げつけた。
クロは前髪で視線を隠し、足を動かす。
正門に辿り着いた頃には、顔は傷だらけになっていた。
「クロです。ただいま戻り……」
玄関の扉を開いた先では、思いも寄らない人物が待ち構えていた。
事代家の長女にあたる、早乙女だ。短く切り揃えられた青黒い髪、いささかの乱れもない佇まい。水鏡に立っても波紋の一つ生まれないであろう姿だった。
「姉さま?」
「何度も教わっているはずだ。帰宅の報告は扉を完全に閉ざした後」
姉が最初に見せたのは、刃物のように鋭利な眼差しだった。
「やはり、お前は事代家の恥だ」
何度も聞いたはずの言葉が、胸に突き刺さった。
「勘違いするな。お前を見送るために赴いたわけではない」
一拍入れ、姉は堂々と告げた。
「父上からの指名だ。夕食を終えた後、執務室へ向かえ」
それだけ言い残し、姉は背を向けた。冷水が岩窟に滴るような足音が、影に沈む廊下へ反響していく。
父上から指名が来た。その事実が、さらにクロを絶望へと引き込む。
学園で配られた成績や失態。偶然ではない。
父上に知られたかもしれない。
それが本当なら、処罰を受ける。
立ち眩みがする。
通路の奥から慌ただしい足音が聞こえた。
「クロ様。大丈夫ですか?」
玄関へ駆けつけたのはビオラだ。
「頬に怪我が。何があったのですか?」
「……何ともないよ。ただ、転んだだけ」
クロは顔を上げず、代わりに首を振った。
港町での非難は、今日に始まったことではない。力を持たないクロは、事代家の屋敷に対する羨望や反感のはけ口にされている。
もう慣れたことだ。
ビオラにまで不要な心配をかけさせたくはない。
「分かりました。でも、治療はさせてください」
ビオラは迷いもなく立ち上がる。
「クロ様は先に自室へどうぞ。救急箱を持って参ります」
「でも、僕は……」
呼び止めに応じず、彼女はどこかぎこちない足音を残した。
普段なら自分で治療していた。今はもう、誰にも甘えたくない。自分の弱さを認めてしまったら、また現実が辛くなるだけだ。
それでも、彼女の腕を掴んでまで止める理由もなかった。
◇
その後、クロは自室へ戻り、家の正装に着替える。
灯りのない部屋で待っていると、扉がノックされた。
「お待たせいたしました。入ってもよろしいですか?」
「待ってて。僕が開けるよ」
暗闇の中、魔導書に読み更けて待っていたクロは、扉へ歩み寄る。外の廊下から光が流れ込み、木箱を抱えたビオラの姿が浮かび上がった。
彼女は部屋の奥にある窓際まで歩き、縁の上で木箱を開く。中には古びた器材や医薬品が丁寧に詰め込まれていた。
外に出られない彼女が、陰で掻き集めたものだ。
「ごめんね。僕の部屋だけ灯りがないから……」
「問題ありません。じっとしていてください」
ハンカチが頬に当てられる。冷たい感触が広がり、頬の汚れが拭い取られた。次に彼女は刃物で包帯を切り取り、粘着液をまぶしてから傷口へ貼り付ける。
顔が近い。
吐息がすぐ近くで聞こえる。
普段とは違う距離に、反応に困る。
クロはたまらず窓の外へ視線を逃した。
「なんだか、小さい頃を思い出します」
ふと、彼女の手が止まる。
「よくクロ様の治療をしてきましたから」
心当たりを辿るように、クロは昔のことを思い出した。
確かに彼女に手当てを受けることが多かった。
だが、その経緯は決して和やかなものではない。
事代家の指導の中で、怪我を負うことも少なくなかった。特に幼い頃はひどかった覚えがある。今の現状に精一杯で、忘れかけていた。
「……昔から、ビオラには助けられてばかりだ」
「そんなことありません」
彼女は即座に言い返した。
「私もクロ様に助けられてばかりです」
「でも今朝だって。ビオラはパンをくれたけど、僕は何も返せてない」
「二つに分けてくださったじゃないですか」
「そんなの、当たり前だよ。元々はビオラのものだったんだから」
食事は平等に与えられるクロに対し、ビオラは充分に与えられない。
不等な扱いを受けているのは、彼女のほうだ。
「簡単なことですよ。そんな考え方ができるのはクロ様だけです」
治療の手を止めたまま、彼女は続けた。
「それに、私は救われてきました。小さい頃から」
「……そうだったんだ」
「私が、この家に来たときのことを覚えていますか?」
「うん。少しだけなら」
初めは異国からやってきた少女という印象だった。
金で雇われた他の家政婦とは違い、ビオラは当主に拾われた存在だ。素性はクロにも詳しく知らない。
彼女は他の家政婦よりも劣等な扱いを受けていた。
当時のクロは、それを黙って見過ごすことができなかった。
ある日、わざと食器を落とされ、ビオラはその罪を被せられた。彼女は跪き、たった一人で破片を片付けていた。
クロは、それを一緒にやった。
そのときの会話までもは覚えていない。
ただ、ビオラは泣いていた気がする。
「ここへ来たとき、私はここでも幸せになれないんだと思いました。でも、私がここまで生きてこられたのは……」
ふいに彼女は手を動かし直した。わずかに早まった手つきで、床に置いた包帯から布を引き出し、指先で押さえる。
刃物を当て、切断しようとする。
上手く切れず、ノコギリのように動かす。
布を通り過ぎた刃先が、そのままビオラの左手をかすめた。
「いたっ!」
「怪我したの? 大丈夫!?」
「……平気です」
「見せて。ほら」
手を差し出すと、ビオラは渋々と応じた。
親指の付け根が切れていた。傷は浅いが、血が垂れている。
「ちょっと借りるね」
彼女が落とした刃物を拾い、クロは同じように包帯を切ろうとした。
「危ないです! クロ様も怪我を」
クロは笑って受け流し、手頃な大きさまで布を切り分けた。自身の汚れを拭いたほうを避け、清潔なハンカチの端で血を拭くと、素早く布をかぶせた。
まだ血が滲むため、クロは慌てて布を重ねていく。
その様子を、ビオラは子供のように興味津々な目で見守っていた。
「……ごめん。たんこぶみたいになっちゃった」
ビオラは縮こまるように顔を隠し、肩を震わせた。
「だ、大丈夫? まだ痛む?」
「な、なんでもありません」
顔を覗かせるクロに、ビオラは声を上ずらせて答えた。やがて落ち着きを取り戻すと、彼女はゆっくりと顔を上げ、不格好に膨らんだ包帯を眺める。
「……ありがとうございます」
まるで宝物のように、愛おしげに見つめた。
二人の時間を妨げるように、ビオラの懐から小さな鐘が鳴った。手を添えると、そこから古びた懐中時計が現れる。
「そろそろ、お食事の時間ですね」
ビオラは器材をまとめ、木箱に納めた。
「遅刻してはいけません。私も仕事へ戻ります」
窓縁から腰を上げ、ビオラは背を向ける。
だが、彼女は振り向き、力のない笑顔を見せた。
「残りは、また後でやりましょう」
それは一瞬の出来事のように感じた。どこか軽やかな歩みで扉まで寄り、彼女は一礼を残してから、廊下へ立ち去っていった。
「……ありがとう。ビオラ」
取り残されたクロも、彼女の感謝を呟いた。
一人になった途端、忘れかけていた現実が蘇る。
夕食の時間だ。兄妹たちと食堂に向かわなければならない。
その後に、当主からの呼び出しがある。




