第43話 治らない傷
宿から出た先では、雄大な山脈が広がっていた。ストレリチア村と呼ばれる集落は、鉱山と隣接していた。
「まさに灰の景色だろ。国一番の鉱山地帯なんだ」
長いベンチに腰を下ろしたクロに、大漢が語りかける。
彼の名は素軒と言った。そして、クロを助けたのは、百香という少女だ。
「にしてもどうよ。百香特製のココアの味は」
「苦いって言ったらぶっとばすよ」
「……おいしいです」
クロは彼らからココアを受け取った。マグカップに口をつけ、甘い湯気が漂う液体を喉に流し込む。
味がしない。ほんの少し含んだだけで、ひどく胃がもたれた。
宿の周辺では、作業に勤しむ男たちが威勢よく声を上げている。
「ご近所さんがえらいことになっちまって、びっくらこいたぜ。本島の輩が箒にやってきては、待機命令なんてもんを出された」
素軒は懐から乱雑に丸めた紙を取り出した。
それを広げると、政府が発行した待機命令の公報が確かに記されている。
「ま、俺たちは家が仕事場だから関係ないけどな」
素軒は豪快に笑い飛ばすと、再び紙を丸めた。
「そういや、娘も有名人でな。久しぶりに顔が見れて嬉しいよ」
「私もパパのおひげ見れて嬉しい」
微笑んだ二人が、互いに見つめ合う。
「別の用事があったらしくて、こっちに寄り道してきたんだ。そんで帰ってきたら、知らない男を浮かせてきて、これまたびっくり」
「拾った。落ちてたから」
「どうも死にかけていたらしいな。運よく百香が通りかかってなきゃ、お前さんは今頃天に召されていたな」
愉快な会話を、クロは押し黙って傾聴していた。
あれから記憶がない。
無心になって先を目指していたが、二人の会話の内容から、途中で力尽きたようだ。生死を彷徨い、命が事切れる寸前で、百香が助けてくれたらしい。
「助けてくれて、ありがとうございます」
クロは絞り出すように言う。
ココアが全く減っていなかった。
様子がおかしいことを悟り、素軒が背中を叩く。
「どうしたよ。怪我はちゃんと元通りになったぜ?」
「いや、その。そういう問題では……」
それきり、クロは再び沈黙した。瀕死のところを救ってくれたのは、本当に感謝している。
だが、もう誰ともかかわりを持ちたくなかった。新たな関係を築けば、また失うかもしれない。それが自分のせいなら、なおさらだ。
まだ気持ちの整理も全くついていない。
項垂れるクロを前に、親子は頷き合った。
「ぴんぽん。百香のクイズコーナー」
「よっ! 待ってました!」
やけに上機嫌な二人に、クロは困惑を隠し切れなかった。
「第一問。私たちのペットのオウムは、なんて呼んでるでしょう」
唐突に始まったクイズだが、クロは考えた。先ほど彼女の口から出ていた。
「アルティメット、フェニックス?」
「ぶぶー」
彼女は指でバツ印を作り、口を尖らせた。確かにそう言っていたはずだ。
「答えはフェニちゃん」
彼女に続き、素軒が得意げに話す。
「名前はアルティメットフェニックスだ。それは間違いない。だけど百香が聞いたのは俺たちがなんて呼んでるかだ」
クロが知るはずもない答えだった。
「第三問」
「ん? 次は二問目じゃなかったか?」
「そうだった。そうだっけ」
百香はわざとらしく咳払いする。
「第二問。なぜ私は三問目と間違えたでしょうか」
「……分かりません」
「答え。パパが余計なこと言ったせい」
百香は隣の父親へ視線を向け、頬を膨らませた。
「えぇ!? 俺、解説してやったのに!」
「アドリブ力ない。ノーセンス」
素軒は派手に頭を抱え、崩れ落ちるように屈み込んだ。そんな滑稽なやり取りを前に、クロは何も反応を示さなかった。
おそらく、元気づけようとしている。気を遣わせているのが、かえって申し訳なかった。
百香は後ろに手を組み、素軒も頭を抱えながら、クロを覗き見た。やがて、素軒は芝居を終えた役者のように、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……元気、出ねえな」
困ったように呟いたとき、宿の奥から野太い声が響いた。
「百香ちゃん! ちょっと来てくれないか!」
「いってくるね」
百香は即座に応じ、父親に短く告げると、兎のように軽やかな足取りで駆け出していく。
だが、建物の影に消える寸前、何かを思い出したかのように顔を出し、無言で手招きした。
それを見た素軒は、クロの腕を強引に引き上げた。
「お前も来るんだよっ!」
「わ、分かりましたから」
大男の凄まじい怪力には、抗う術もない。
クロはマグカップを置き、半ば連行される形でその後を追った。宿の裏手から広がる山麓では、男たちが掘削の作業をしていた。
大きな斧やつるはしを振るい、無骨な岩肌を何度も掘っている。その中に一人、手から血を流している男がいた。
――血。
それを見た瞬間、クロの呼吸が止まりかける。一足先に向かった百香が、こちらへ手を振った。
「どうしたの?」
「怪我しちまったんだ。見れば分かんだろ」
「ごめんね。顔ばかり見てたから」
「また思ってもねぇことを……」
頭にタオルを巻いた男は、まんざらでもなさそうに頬を緩める。
「それより、ほら」
男はぶっきらぼうに手を差し出した。作業中に軽い切り傷を負っていた。
だが、出血の勢いが強い。
「よく見て」
百香は後ろにいるクロたちへ合図を送った。青ざめた顔を逸らそうとするクロの頭を、素軒が笑いながら手で掴んで固定する。
可憐な笑みを浮かべたまま、百香はその手を傷口に添えた。
リリーフ・クラフト。
そよ風に揺らぐ若葉のような光の破片が、男の傷口へ吸い込まれていく。
「へい。ありがとさん」
男が満足そうに笑うと、すぐさま作業へ戻った。
つるはしを握り直した手は、傷が消え去っていた。クロの治療も、あの魔法で施したのだろう。
作業中に怪我をしては、百香に治してもらう。それが、この集落における日常でもあった。
「では、次の問題」
百香は身を揺らしながら、クロへ歩み寄る。
「なんでも治せる魔法でも、治せないものはなんだ」
「……心ですか」
確信を込めて、クロは答えた。その問いの答えなら、嫌というほど理解している。
「では、どうしたら治せるでしょう」
クイズは終わらない。
クロは少し悩んだ後、口を開く。
「治していいものなんですか?」
「ぶぶー」
「失言ポイント。一ポイント!」
隣にいた素軒が商売の呼び込みのような威勢の良さで叫ぶ。それと同時に、クロの背中を強烈に叩いた。
反動でよろめく背中には、失言という烙印が焼き付けられる。
「もう一回。ラストチャンス」
クロは必死に思考を巡らせた。だが、どれほど考えても、心の傷を癒すことは現実から逃避していることに過ぎないという結論に辿り着いてしまう。
もう逃げないと決めた。
「分かりました。贖罪です」
「追加で五ポイント!」
今度は尻を叩かれ、その場でうずくまってしまった。
「教えてあげるね」
百香は膝を折り、地面にへこたれるクロと視線を合わせる。
救いを求めるように、クロが顔を上げた。
「それはね。肉体労働だよ」
「……へ?」




