第41話 行きたくない
「誰か!」
弱々しい叫びが、底知れない常闇に吸い込まれていく。
「誰もいないの!?」
孤独だった。
いくら声を上げても、どれだけ空間を掻き分けても、温かくない。ふと見れば、自分の手が赤く染まっていた。その血が誰のものなのか、分からなくなってしまった。
何も思い出せない。自分が誰なのか。
自分ではない誰かのことさえも。放り出された名もなき世界を彷徨い、少年はついに膝をついた。願いは届かない。そもそも、自分は何を願っていたのだろう。
大切なものがあった。
誰よりも大切な人がいた。
それを教えてくれた人もいた。
思い出したいのに、手が届かない。ついに希望を手放した。それでも、離れないものがあった。手のひらにわずかな熱を感じる。
何も見えず、何度も握りしめ、その感触を思い出す。
これは、ハチマキだ。届けなきゃ。今度は駆け出した。記憶が帰ってくる。
大切なものがあった。それは、帰る場所、自分の家だ。
誰よりも大切な人がいた。その人のために、ハチマキを届けたい。それを教えてくれた人が、少年の目の前にいた。優しい顔だった。
名前を思い出せない。
彼は穏やかな声で、少年に告げた。
「――川良。思い出して」
少年の姿が消える。手のひらの熱が、より強くなった。ハチマキがよく見える。乱雑に縫われている。
これは、自分が作ったものだ。誕生日にあげる。早く渡さないと。もう二日も過ぎた。
きっと喜んでくれる。頑張って作ったんだ。
――姉ちゃんに、届けたい。
「あれ?」
穏やかな草原が広がる。そこに、一つの家がある。どこか懐かしく、変なにおいがする。
「あっ!」
家の窓から、少女が顔を覗き込んできた。いつものように軽やかな足音を立て、扉が勢いよく開かれる。そう、何の変哲もないこと。
そのはずなのに、少年は全力で走り出し、手を伸ばした。
やっと、届けられた。
「……姉ちゃん?」
ハチマキを額に巻いた多香音が、土汚れに染まった腕を広げる。
「川良!」
ずっと、我慢していたのに。目から勝手に。何も気にせず、姉は弟の体を持ち上げる。額を寄せ合った。
そして、笑った。
「――やっと。抱っこできた」
◇
バケモノの首が落とされる。肉体が焦土に倒れた。
クロは魔器を手から滑らせ、力無く膝を落とした。余熱を浴びた肉体が、黒い灰となって崩れ落ちていく。
その肉片が、憎しみに染まっているようだった。しかし、全てが失われたわけではなかった。クロはあるものに、目を剥く。
「……ハチマキだ」
崩壊した肉体の中から、ハチマキが出てきた。バケモノとなり、自分の肉体すら燃え盛るほどの熱に囚われていたはずなのに、この宝物だけは、何があっても焼き焦がらなかった。
クロは落ちているハチマキに手を伸ばす。
ほんのかすかに、熱を感じた。
足が崩れる。クロは項垂れるようにして、そのハチマキを両手で挟み、額に乗せる。彼が唯一残したものを、静かに受け取った。
祈りを捧げるように、強く目を瞑る。
きっと、あの子は天国には行けない。でも、せめて。あの人と再会できたら。
ゆっくりと手を下ろすと、クロは再び魔器を掴んだ。
まだ、やるべきことが残っている。
◇
紅い光に染まる室内で、少女は座り込んでいた。少し前の光景が、鮮明に思い浮かぶ。バケモノの叫び声。村人たちの悲鳴。
いつも仲良く暮らしていた村人たちが、虫のように殺された。その様子を、千里は窓から覗いていた。隠れるよう命じた祖父が、バケモノに食い殺される瞬間も。
まるで、一つの絵本を見ているようだった。
「――あぁ!」
扉が勢いよく開け放たれる。そこには、自分が治療をした少年がいた。
「……よかった。まだ生きてて」
笑みを浮かべると、クロは床を踏みしめるようにして、千里へ歩み寄る。彼女は部屋の隅にうずくまり、影に身を寄せていた。
「びっくりさせてごめん」
クロは彼女の高さに合わせて膝をつき、視線を覗き込む。
「怪我はない?」
千里は小さく頷く。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
彼女はずっと目を丸くしている。そこに感情はなかった。
「もうすぐ助けが来るから。もう安心して――」
「できない」
無機質な声で、千里は言った。
「みんな死んだ。おうちも燃えてる」
全てを失った。そう一括りにすることすら許されないほど、凄惨なことが起こった。まだ幼く、未来が明るかったはずの少女が故郷を燃やされ、家族を惨殺されたのだ。
「もう何もないのに。どうして生きないといけないの」
「……すぐに答えを見つける必要は、ないと思う」
答えが見つからず、無責任な言葉しか並べられなかった。少なくとも、自分は彼女を救えない。
「君が生き残ったのには、きっと意味がある。それは、今すぐ見つけなくてもいいよ。ゆっくり探していけばいいんだ。君の命が託された理由が、どこかで分かるから」
ふと、クロは懐に忍ばせていた生地を、千里へ渡した。
「これは、君が持っていてほしい」
「……私に?」
あの弟が残した、絆の証だ。
見覚えのあるハチマキを、千里は見つめる。
すると、頭に温かい手が乗った。クロは彼女の頭を、優しく撫でる。それは、祖父がいつも千里にしていたことだった。
「いつか会ったときに、また見せてよ」
あの少年は、千里の知らぬ間に消えていた。
千里はハチマキを握りながら、涙を拭うのに必死だった。
◇
「村も燃えている! すぐに消火活動を!」
本島から赴いた政府の組織、安寧団の隊員が箒から次々と降り立った。村の名を示す看板は焼き焦げており、先には地獄絵図が描かれていた。
駆け付けた隊員たちも絶句する。
「この、惨状は? いったい何が」
誰かの襲撃があったのは確かだった。村人が惨殺されており、建物が崩壊している。
何者かに暴れ回られた痕跡が至る所に見受けられるが、犯人の姿がない。逃げ出したのか。それとも――。
「いたぞ! 生存者がいる!」
「小さい女の子です!」
安寧団の隊員は、ある屋敷から一人の少女を発見した。
アネモネ村の生存者は、その少女だけだった。
◇
クロは遠くに広がる森林を進む。彼が残した足跡には、落とした血が続いていた。
「行かないと……」
鞄の紐を縋るように掴み、クロは重たい体を引きずる。
魔族の謎や、怨霊を浄化する方法は何も掴めていない。その謎を解き明かすために、元より旅を始めたのだ。早く成果を上げなければ、政府の人間に捕らえられてしまう。
そうなれば、すぐに死刑が下される可能性だってある。
足を止められない。ユキを救うんだ。
「……うぅ」
クロは足を崩し、道の途中で項垂れた。震える唇から、本音が零れ落ちた。
「もう、行きたくない」
何も守れなかった。救いようのない役立たずだ。
どれほど追い詰められようと、強大な敵が現れようと、話し合いを重ねていけば、いつか理解が成立する。そう信じていた。
そのためなら、多少の犠牲を払うことも厭わない。
その犠牲に含まれているのは、クロ自身だけだ。現実は変えられなかった。それだけでは、足りない。
血が止まらない。骨も砕けている。
「……いたい。つらい」
もう、耐えられない。
「――ご主人様」
すぐそこで、白い光が差し込む。顔を上げると、とても小さな手のひらが、視界に留まった。
そこにいたのは、ユキだった。
「ご主人様!」
輝かしい笑顔に、クロはたまらず身を縮こませ、子供のように嗚咽した。楽になりたかった。
自分の死で罪を償いたかった。だが、そんな選択を許さないもう一人の自分が、確かにそこにいたのだ。
まだ諦めない。進み続ける。失いかけた決意を燃やした途端、村の人々を失った悲しみを、また思い出してしまうのだった。
ユキはずっと、悲しみに暮れるクロを見守った。
season2 fin




