第39話 誇りを捨てる
それは、あまりにも突然の出来事だった。
森の中を駆け回っていたクロは、瞬時に振り返る。視界が状況を把握するより早く、灼熱の熱風が襲った。
大爆発が起こったのだ。小高い丘の上にいたクロは、程なく爆心地を突き止めた。そこでは、荒れ狂う獄炎が、無垢な自然を食い尽くすように広がっていた。
その向こうで、業火をまとう何かが蠢くのが見えた。
「――身魂?」
最初はそう感じた。あのバケモノがいる場所から、未だかつてないほどの憎悪が放たれている。遥か遠くにいるクロにさえ、肌を焼くような殺気が鮮明に伝った。
その巨大なバケモノは、飢えた獣のように草木を蹂躙する。やがて動きを止めたかと思えば、獲物の匂いを嗅ぎつけたかのように森林を駆け抜けていった。
その矢先には、夜の帳に灯りが点々と浮かんでいる。
――村のみんなが、危ない。
◇
「みんな! 集まれ!」
井戸の鐘を激しく打ち鳴らし、一人の村人が叫ぶ。
彼が仰ぎ見る先では、小高い森林を飲み込む火の手が、闇夜を禍々しく照らしていた。その異様な光景に導かれるように、多香音たちを探していた村人たちが一斉に村へ駆け戻る。
「山火事!? なぜ今!」
「多香音たちの魔法が暴発したんじゃないのか!?」
村は瞬く間に恐慌に陥れられる。逃げ遅れた動物の叫びが響き、遠く離れたアネモネ村にまで、喉を焼くような熱気が押し寄せた。
人々を叩き起こすように、食堂の婦人が太い声を張り上げる。
「とにかく消しに行くよ! なんとかなる!」
「お、桶を持ってきます」
「いらん! 魔法で消せ!」
この村で暮らす大半は年寄りであり、魔法を強力に扱える者はごくわずかだ。しかし、炎は瞬く間に木々を食い散らかしていく。
「寿命を削る思いでやんな! いくよ!」
婦人が叫び、先頭で足を踏み出したそのときだった。
のたうつ獄炎が、意思を宿した生物かのように丘を降り始めたのだ。密生する木々に姿を隠しながらも、漏れ出した紅蓮の光が恐ろしい速さで迫ってくる。
「……な、なんだアレ!」
「こっちに来るぞ!」
誰もが逃げ腰になる中、衆目を割って長老が前に出た。
「村長! 危ないから下がって!」
婦人の呼びかけも、今の彼には届かなかった。村長は迫り来る厄災を凝視して佇んでいる。およそ五十年ぶりの動揺。握りしめた老木の杖が、体の震えに共鳴する。
「……あれは、魔族か?」
長老は杖を強く地面に叩き付け、持てる魔材を集約させた。
プラント・クラフト フレキシブルブランチ。
杖を突いた位置から、無数の枝が蛇のような滑らかさで這い上がってくる。空中でしなやかに形を変え、鋭利な剣や鈍器へ変貌すると、村人たちへ次々と届けられた。
それは、立ち向かえという沈黙の合図だった。
「あれは魔物だ。この村を滅ぼしにやってきた。今ここで退けば、ワシらの未来はない。子どもたちもろとも根絶やしにされる」
長らく使っていなかった喉を破裂させる勢いで、長老は叫んだ。
「子供たちは家に戻れ! 大人は立ち向かえぇ!」
宣告が夜の村へ響き渡ると同時に、獄炎をまとった獣が山麓を越えた。長老が射貫くような視線を向ける。
その魔族は、巨大な虎の姿をした炎の化身だった。
「犬ころ如きに、滅ぼされてたまるものか!」
激しく咳き込み、杖を支えに体を揺らしながらも、長老は気丈に言い放つ。その勇猛な背中に、婦人は迷いを振り切った。授かった鈍器を、天高く振り上げる。
「同感だね。子どもたちの祝言を見るまで死ねるかっつーの!」
未来を繋ぐ。恐怖に濁っていた村人たちの瞳にも、確かな闘志が宿り始めた。家の奥で震えている自分の子供たちの顔が浮かぶ。なんとしても守り抜く。
「あたしらが死ねば、あの子たちを助けられない」
受け取った武器を握りしめ、その矛先をバケモノへ向けた。
「来るぞ!」
「かかれぇ!」
◇
その頃、クロは胸を焼く渇きに耐え、バケモノの行方を追っていた。
弟を見つけるために駆け回った体は、既に限界を迎えている。ありったけの酸素を取り込み、もつれる足を引きずった。
村のみんなを助ける。
その一心で、クロはついに森の出口を抜けた。
赤黒い炎に包まれ、変わり果てた村の姿が、目に飛び込んだ。来る前は当たり前のように並んでいた建物が、無惨にも倒壊している。猛烈な火の粉が夜空を埋め尽くしていた。
崩れかけた家の屋根から、太く悍ましい腕が這い出る。
それは、逃げ惑う人々を掻き乱すかのように暴れていた。
「……あ、あぁ……」
どろりとした絶望が胸に落ちる。
クロは喚き声を上げながら、折れそうな足を再び動かした。
鉛のように重い足に激痛が走るたび、クロは自分の拳で叩き起こす。急げと、呪詛のように何度も唱えた。
近い。すぐそこだ。
建物の角を猛然と回り込む。そして、クロは初めて来たときに多香音と訪れた、思い出の境界線を踏み出した。
「……ああぁ、あああああぁぁああぁああぁぁ!」
視界の先で、至る所に死体が転がっていた。血に塗れた地面に、枯れ果てた木の武器が横たわっている。倒壊した建物の瓦礫から、子どもの小さな腕が突き出ていた。
杖を握っているか弱い体は、首から上がない。
学エプロンを着込んだ女性は上半身しかない。
――生きている者は、誰もいなかった。
「……」
やがて、クロの視線は一点に釘付けになる。
虎の形をしたバケモノは、更なる血肉を求めるように、建物の瓦礫を掻き分けていた。そのたびに、鋭い爪にこびりついた鮮血が、村の残骸へ飛び散っていく。
――ドクン。
心臓が跳ね上がり、駆け巡った衝動が脳を白く塗り潰す。
「倒さなきゃ」
全てを奪われた。体が揺らぎながら、柄から魔器を引き抜いた。
魔器からは、主の怒りに呼応するように細い火柱が漏れ出す。
「……バケモノ」
怒りに支配されながら、思考の片隅でふとした疑問が芽生えた。
憎しみとは何なのだろうか。あの身魂のような姿をした怪異は、人の命を奪うためだけに生まれた存在なのだろうか。もし、話し合う術があったなら。彼らを理解しようと歩み寄れたのなら――。
まだ、何も試していない。
バケモノはクロと目が合うと、口の端に付着した生々しい肉片をまき散らしながら、天を仰いで咆哮した。その禍々しい遠吠えは、燃え盛る村の戦火に反響していく。
叫び声の余韻。クロは信じがたい違和感を抱く。
咆哮が途切れる、ほんの一瞬。聞き覚えのある声が混じっていた。まるで地獄から助けを乞うような、か弱い残響。
「――川良?」
そんなはずはない。分かっていても、その答えに辿り着いた。
もしそれが本当なら、理解の余地がある。
クロの瞳に最後の希望が宿った瞬間、バケモノが迫った。クロは地面へ伏せ、肉薄する巨体を回避する。頭上を凄まじい速度で通り過ぎたバケモノは、着地と共に土を深く削り取った。
起き上がったクロの前髪が、バケモノの呼気に揺れる。
やはり、川良だ。そんな予感がする。
「川良くん? 君なの!?」
変わり果てた醜悪な姿に、クロは少年の名を叫ぶ。
バケモノは応えない。白い息をこぼし、爪先で土を上げると、再び突進した。クロは屈み込み、その猛攻を凌ごうとする。
しかし、クロの寸前に迫ったバケモノは、動きを止めた。
大きな影が覆い尽くす。クロはとっさに魔器を盾にするが、凶悪な爪が突き出され、背後の地面まで叩きつけられた。
受け身も取れずに揺れる視界を、再び巨大な影が被さる。
クロはその場を蹴り、紙一重で追撃を回避した。ところが、着地と同時に振り下ろされた爪が腕を捉え、赤い血が噴き出る。
「……あぁッ!」
激痛に意識が飛びかける。
「川良くん! お願い! 聞いて!」
わずかに余裕が生まれた。
「これは君のしたかったことじゃない!」
『だから、俺がちゃんとしないと』
今では遠い昔の記憶。
家族をこよなく愛していたのに。
「君の正義は、本物だった!」
バケモノは拒絶を示すように叫び、太い尾を薙ぎ払った。
クロの体が弾き飛ばされ、民家の屋根へ叩きつけられる。背中の鞄が衝撃を抑えたが、その衝撃で瓦が散乱し、肺に残った空気が押し出される。
跳び上がったバケモノが、同じ高さへ降り立った。重い地響きが起こり、クロは体勢を崩す。バケモノはのらりと距離を詰め、身動きが取れないクロを捉えた。
これだけ呼び掛けても、反応がない。
気のせいなのだろうか。川良ではないのだろうか。
それでも、わずかな可能性でも捨てたくない。
「……待って。川良くん。戻ってきて」
クロは手を差し伸べる。その指先は、今にも自分を食い殺そうとする牙の寸前にある。口から溢れる熱い息が、皮膚を焼きそうになる。唾液を垂らしながら、バケモノは身を震わした。
――苦しそうだ。
バケモノが大きく顎を開く。
「君のお姉さんは、こんなこと望んでいない!」
火花に染まる夜空に、叫びの残響が流れた。
その瞬間、静寂が訪れる。吹き荒れる火炎の鳴動さえも遠のいた。目前まで迫っていたバケモノの動きが、止まったのだ。
乱暴に引き延ばしたように歪んでいる虎の貌。そこには、隠し切れない人間の面影が痛ましく残っていた。その瞳は、あの姉弟だけが宿していた青空のような色。
「……辛かったね」
クロは愛おしげに声を出す。
「君は悪くない。何ひとつ悪くないんだよ」
バケモノは喉の奥で、ひび割れたような唸り声を漏らした。その巨体が、内側からの衝動に抗うように激しく震えている。
「元の君に戻って。また声を聞かせて」
懸命な祈りに呼応するように、バケモノは夜空を貫くほどの咆哮を上げた。それは獣の雄たけびではなく、魂の叫びに聞こえた。
声が届いたのだ。想いが通じた。
「川ら゙っ゙――」
かつての名を呼んだ瞬間、クロの口先が絶えた。
肉が抉られる音。空気を切り裂く音。ガラスが粉砕する音の連続。
バケモノが容赦なく振り抜いた拳により、クロは殴り飛ばされた。まだ形を残していた屋敷の窓を突き破り、奥の本棚へ衝突する。舞い上がった砂塵や紙片が、一瞬にして室内を覆い尽くした。
ほんの数瞬。クロは意識を失った。
次に目が覚めたとき、力無く横たわる自分の手や、黒い木片、割れた窓から差し込める紅い光が視界に入った。クロは叩きつけられた壁にもたれて座り込んでいた。
獲物を見失ったバケモノは、再び瓦礫を掻き分けた。
「……まだ、だ――」
起き上がろうと頭を震わせた瞬間、喉から血が溢れ出した。
もう体が動かない。傷口から流れる自分の血が、手元を濡らしていく。あの一撃で肋骨が砕け、背骨にもひびが入っていた。
それでも心だけは、砕け散る寸前で踏み止まった。
「ひっ」
怯え切った少女の声。
消えゆく意識が繋がれる。クロは残された力で顔を上げた。
壁の陰から、少女が顔を覗かせている。
誰も生きていないと、クロは思い込んでいた。だが、たった一人でバケモノから隠れ続けていたのが、村長の孫娘だった。
この景色、見覚えがある。村長の屋敷だ。
「……千里、ちゃん?」
名を呼んだ途端、千里は羽織っていた薄い上着を脱ぎ捨てる。今にも転びそうな足取りで歩み寄り、クロの傷口に生地を押し当てた。
千里の小さな指先から、細長い木の枝が伸びる。
煌々と輝く魔材の光が、二人の顔を青白く照らした。千里は巻き付けた上着を縫い合わせるように枝を走らせ、その先端を繋ぎ合わせる。
溢れ続けていた血が、やがて止まった。
千里は手を離すと、何も言わずにクロから離れる。
本当に、何も言わなかった。
「……あぁ」
涙が堪え切れなくなる。本当に泣きたいのは彼女のはずなのに。
千里の祖父は、既に命を失くしていた。他の村人も皆殺しにされた。この村で生き残ったのは、とても幼い女の子なのだ。彼女の顔には光がない。虚ろな瞳を揺らしている。
――ここで動かなければ、千里まで死ぬ。
まだ魔器を握っている。クロは持ち上げようと手を動かした。
ふと、クロの指先にあるものが触れる。かつてハーブティーを振る舞われた茶碗が、破片となって散らばっていた。クロが建物に叩きつけられた衝撃で、机ごと粉砕されていた。
初めてそれを口にしたときは、まだ平和だったのに。
長老の言葉が、導きのように蘇った。
時に、しばらく部屋に放置した茶に、埃が入っていたとする。
たかが小さな埃で、不治の病にかかるわけがない。
だが、仮にもし。
入った埃がとてつもなく大きく。
器の中身を全て吸い尽くして。
その重さに耐えきれず器すら壊れてしまったら――。
君は、どうする。
あのときは答えられなかった問いが、今なら理解できる。
クロは己の四肢に、熱を走らせた。両足は震えながらも、その想いに応える。魔器を握った手も動いた。内臓がひっくり返るような痛みを噛み殺し、クロはようやく立ち上がってみせた。
鞄がすり抜ける。座り込む千里の傍らを横切った。
僕ならどうする。
「…………その埃は」
――捨てるしかない。
「川良くん!」
かつての友の名を叫ぶ。
壊れた窓から外へ踏み出したクロは、魔器を構えた。
「今から君を、殺す!」
憎しみにも負けない炎が、魔器から立ち昇る。
力強い眼差しに、決意の炎が揺らめいた。




