第38話 どこにもない
夕闇が迫る頃。川良を村まで送り届けたクロは、そのまま村の端を回り込み、次の旅路を見据えた。
この村ともお別れだ。二度と戻ることもないだろう。
名残惜しい思いを胸に、クロは独り歩き出す。
だが、進むたびに不安が胸をかすめた。川良は無事に薬草を届けられたか。姉の病体は回復するだろうか。
せめて、それだけ見届けてからでも遅くはない。
迷いが振り切れず、クロはたまらず振り返る。
嫌な予感を煽るからっ風が、クロの前髪を卑しく撫でた。
多香音が療養している屋敷の前で、人盛りができていた。川良を送り付けたときにはなかった光景。その数は、村に住む大半の人たちが集まっているほどだ。
「おかしいって! 知らないはずないだろ!」
群集の中から、川良の悲痛な怒鳴り声が飛び出す。
気がつけば、クロは駆け出していた。
「何回言えば分かるの。勝手に窓から逃げ出したんだってば」
屋敷の人と言い争っている。
クロは群集を掻き分け、二人の前に立った。
「川良くん。何があったの?」
「クロ! 姉ちゃん知らない!?」
「ごめん知らない。多香音さんに何が?」
「こいつが消えたってほざいてんだよ!」
川良が激昂して指を突きつけた相手に、クロは視線を向けた。
「詳しく話してもらえませんか?」
「だから、私たちは何も知らないんです!」
自らの無実を証明しようと必死に訴えかけてきた。
元より彼女たちを嫌疑するつもりはない。
「お願いします。知ってることだけでも」
「そんなこと言われたって。様子を見に行ったら、突然いなくなってたわ。窓だけ開いていた。近くにあの子はいなかったし」
横から川良が口を挟む。
「なんで気づかなかったんだよ!」
「私たちだって暇じゃないのよ!」
川良が焦るのも無理はなかった。薬草は未だ川良が握りしめている。多香音はまだ風邪を患ったままだ。病体の彼女が理由もなく出ていくはずがない。
川良は歯を食いしばると、途端に駆け出した。寄せ集まった村人たちを強引に押しのけ、そのまま深い森の奥へと消えていく。
村の人々が呼び止めるが、彼は振り向くことすらない。
クロも制止しようと手を伸ばすが、寸前で止まってしまった。
いずれ夜を迎える。もう人に構っている余裕などないのだ。あの姉弟のことは、村の人々に任せられる。元の旅路に戻ったほうが賢明なのは確かだ。
だが、周りの大人は誰も追いかけようとしない。
『行動に移したのはオレだけだった』
このままでは、また独りきりになってしまう。
「ちょっと待ちな」
クロが後を追いかけようとしたそのとき、後ろから聞き覚えのある声に呼び止められた。これまで怒りに満ち溢れていたはずの、あの食堂の婦人だった。
彼女はひどく疲れ果てた様子で、しかし穏やかな声で言う。
「あんた、あの子を助けてくれるのかい」
「……できることを、したいです」
すると、婦人は掲げていた斧を落とし、深く頭を下げた。
「私たちも周辺を探す。あの子のことを、頼んだ」
クロは力強く頷くのだった。
◇
「姉ちゃん! どこ? いるなら返事して!」
黄昏の光が差し掛かる森の入り口を抜け、川良はあらゆる場所へ声を響かせる。返ってくるのは、野鳥の鳴き声だけだ。心臓の鼓動が、最悪の想像を掻き立てる。
このまま、二度と姉には会えないのではないか。
林道を駆け抜けた川良は、枝分かれした道の前で立ち止まる。
アンド、すぐに右の川辺を向いた。薬草を探すため、川良もこの方角を進んだ。同じ道を選ぶはず。姉は自分を探しに行ったに違いない。川良は迷わず、右の道を突き進む。
「川良くん! どこにいるの!? 戻ってきて!」
それから遅れ、クロがやってきた。
道が分かれている。直進した先には多香音と野営した遺跡。右に曲がれば、川良と薬草を探しに行った場所に続く。
どちらの道も、川良の姿は見えない。
右の道は、まずあり得ない。
もし薬草を探しに行っている間に多香音が抜け出したのなら、帰り道で鉢合わせする。川良もそれを理解しているはずだ。
ならば、正解は一つしかない。
迷いを捨てきれないまま、クロは奥の道を目指した。
◇
――姉ちゃん。
頭の中で何度も呼びかける。不安が喉を締めつけ、上手く呼吸ができない。道を違えたのだろうか。まだ風邪が癒えていない姉が、ここまで遠くに足を運ぶはずがない。
どうして消えた。何を考えて、どこへ行った。
分からない。
どこにも、いない。
ついこの間まで、すぐそばで笑っていたはずなのに。
『風邪を引いたの? しょーがないなぁ。ほらおいで』
不意に、かつての記憶が蘇る。
『ちょ、何すんだよ!』
自分が風邪を患ったとき、姉の多香音は腕を広げて抱きしめようとした。寝込んでいた川良は、その手を乱暴に振り払ってしまった。
「なんでぇ!? 抱っこだよ。いつもしてたじゃん!」
その後のことは、よく思い出せない。
すぐ元気になるとか、そんなことを言っていた気がする。
『なんで今なんだよ! それに気持ち悪いって言ってるだろ!』
ひどい言葉をかけたことだけは、鮮明に覚えていた。
風邪を移したくなかった。ただ、それだけだったのに。
あれが最後の会話だった。それから多香音は、川良のために薬草を探しに出かけた。持ち帰ってきたのは別の毒草だった。屋敷の台所が騒がしいかと思えば、開け放たれた扉の前で、姉が紫色の液体を浴びていたのだ。
川良は病体の悪化で声を出すこともできなかった。
次の日の夜。姉は本当の薬草を届けに来てくれた。
そのときの姉は、どこかいつもと様子が違っていた。
理由は話してくれず、川良も聞けなかった。
調合された薬草を飲み、川良が回復の兆しを見せ始めた翌日。姉は今にも死にそうな様子で屋敷に運ばれた。つい昨日まで自分が横たわっていたベッドと入れ替わったのだ。
慣れない遠出をしてまで、必死に薬草を探し回ったせいだ。
それで決めた。今度は自分が、姉ちゃんを助ける番だと。
「……嘘」
見てはいけないものと立ち会い、川良は足を止めた。
「――姉ちゃん!」
そこに横たわっていたのは、多香音が何よりも大切にしていたハチマキだった。
まるで息絶えたかのように、力無く伸びている。その異質な光景に、川良は吐き気すら催した。いつも額に巻いていた宝物なのに、近くに姉の姿はなかった。
忘れもしない。それは、かつて自分が誕生日に贈ったものだ。
村の人たちと協力し、なかなか手に入らない素材を必死に掻き集め、何日もかけて編んだ。渡すのが二日遅れてしまったが、姉は心の底から喜んでくれていた。
――きっと、近くにいる。
震える手でハチマキを拾い上げると、川良は再び姉を探した。
◇
「どこに、行ったんだ……」
長い時間をかけて森林を駆け回ったクロは、ついに立ち止まって膝に手をついた。疲労が体を重たくする。呼び声を上げながら足を動かしていたからだ。
目を凝らしても、耳を澄ませても、あの姉弟の姿は見当たらない。共に夜を明かした遺跡を調べ尽くしても、そこには虚しい光景が依然としてあるだけだった。
もう日が落ちている。とっくに夜を迎えていた。
クロは諦めず、その後も足を動かし続ける。
肌を突き刺す熱のような気配が、森を霞ませていた。
◇
「ハア……ハアっ……」
視界が歪み、足元が覚束ない。額から流れる汗が地面を濡らし、激しい眩暈が容赦なく歩みを阻む。
川良は姉のハチマキを千切れんばかりに握りしめ、漆黒の闇の中をがむしゃらに進んだ。どれほど走っただろうか。何も見えない暗闇の向こうから、どこか焦げ臭い匂いが漂ってくる。
気のせいだろうか。そう思った瞬間、川良は絡まり合ったツタに足を奪われた。地面に顔を叩きつけ、鈍い衝撃が走る。
「……なんでだよ、ちくしょう!」
泥に顔を埋めたまま、川良はひび割れた声を絞り出した。
姉に会いたい。それだけのことだ。病に倒れるまでは当たり前のように続いた、何の変哲もない日常。すぐそばで聞こえていたはずの声が、今はもう、果てしなく遠い場所へ消えてしまったような気がして、堪えきれない涙が溢れ出した。
いつか姉が来てくれる。慰めてくれる。
そんな幼い期待を、捨てきれずにいた。
霧に隠れた月が、冷たい息を取り戻す。流れ星が一つ。
月明かりに照らされ、川良は震える顔を上げる。目を開けた先に、もし姉がいてくれたら。祈りにも似た希望を抱えながら、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
そこに、いた。
茂みの影から、少女の寝顔が横たわっていた。
土に汚れた頬、見間違えるはずのない鮮やかな赤髪。
「……姉ちゃん?」
やっと、見つけた。
「こんなところで寝て! どれだけ心配したと思ってんだよ」
こちらの心労も知らずに、穏やかな寝顔を浮かべている。安堵で全身の力が抜けていくのが分かった。川良は姉が寝ている茂みの奥へ、少しずつ這って進んでいく。
こんなに心配させたのだ。どんな仕打ちをさせてやろうか。
茂みから姉の全身を覗いた川良は、一瞬、声を失った。
「え? あれ?」
それから、またしばらく言葉が出なくなった。
姉の足がない。
「おかしいな。なんで?」
足がなかった。腹から下がない。
何かの病気だろうか。地面が真っ黒だった。
「お、起きてよ。姉ちゃん」
なぜか手の震えが止まらない。大丈夫なはずなのに。声をかければ、いつものように姉は目を覚ます。起きた後は、どうやって説明しよう。足がないことを。
姉ちゃん。起きて。
体を揺らす。風邪なのに、凄く体が冷たい。
脇の下をくすぐってみる。乾いた唇から、何も出てこない。
屋敷に連れて行かないと。おばさんに診てもらえば、きっと治せるはず。起きないはずがない。絶対に大丈夫だ。
姉の体を持ち上げる。
ひどく軽かった。
「死人に口なしとは。まさにこのことか?」
頭上から声が降り注ぐ。鈴を転がすような少女の声だった。
川良は眼球を剥き、凍り付いた首を動かす。
木の葉の影に、誰かいた。太い枝の上に小さな人影が横たわっている。そこから垂れ下がった古い衣装には、全てを燃やし尽くす業火のような模様が縫われていた。
艶然と弧を描く口元。鋭い牙が闇の中で光った。
「味わい深い。お気に入りの言葉だ」




