第37話 闇の影
その殺気は、かつて遺跡や森林で感じたものと酷似している。
まるで野に放たれた狂犬だった。目の当たりにした川良は、恐怖に突き動かされるように、クロの背後へ逃げ込む。
だが、その先にあるのは、逃げ場のない深い闇だ。
「何してんだ! 逃げようよ!」
川良が悲鳴に近い声を上げるが、クロの足は一歩も動かない。
クロの後ろには、川良がいる。身魂は見境なく生者を食らう。本来なら部外者だったはずの川良も、殺されてしまう。
――守らなければ。
「隠れてて!」
川良の制止に耳を貸さず、クロは駆け出した。
後ろの少年を庇いながら応戦できない。二体の身魂を同時に倒すしかない。衝突する身魂たちが腕を掲げた瞬間、クロは魔器の炎を勢いよく立ち昇らせた。
ファイヤー・クラフト 希求達!
クロの身の丈を遥かに凌駕する巨大な炎が、間合いの外にいる身魂の首を断ち切った。身魂の体は、音もなく消滅する。
感触は一つだけだった。
短い悲鳴が漏れる。振り抜いた炎の剣を潜り抜けるようにして、もう一体の身魂が這い迫った。再び攻撃する時間がない。
クロはとっさに魔器を構え、突進を受け止めた。
凄まじい力に押し倒され、背中に鈍い痛みが走る。巨体に覆い被さられ、唯一の光が遮られた。急所が狙えない。
さらに圧力が増し、身魂との距離が縮まる。
魔器の刃が、クロの喉笛まで押し切られる。
身魂の眼光が鋭くなった、そのときだった。奴の頭から鈍い音が鳴り、同時に若い叫び声が響いた。それが川良のものと気づいたころには、身魂の体躯が横へ転倒していた。
大きな岩石を持った川良が、涙を含みながら息を切らしている。間髪入れずに雄たけびを上げ、身魂に追い打ちをかけようとする。
しかし、クロは手を伸ばした。
「……あとは、僕がやる」
クロは魔器を握り直すと、のたうち回る身魂へと歩み寄り、その首を静かに断ち切った。崩れ落ちた異形が、冷たい煤となってクロの体を黒く覆っていく。
「助かったよ。川良……」
振り向いた瞬間、クロの声が途切れた。
岩石を手から滑らせた川良は、地べたに尻をつき、言葉にならない悲鳴を上げていた。無理もないと、クロは思ってしまう。
身魂は怪物だが、確かに肉体としての形を持っている。岩で叩き伏せた時に手に残ったのは、人間の頭を砕いたような、あまりに生々しい感触だったはずだ。
「……川良くん。落ち着いて」
なだめようと手を伸ばすが、川良は拒絶するように激しく首をふる。程なくして、その場から逃げるように出口へ向かって駆け出していった。
残されたクロは目を伏せた。取り返しのつかないことになった。平穏な日常を歩むはずだった子供に、この世界の闇を見せてしまったのだ。
クロは洞窟を抜け、森林に戻る。そこに川良の姿がない。彼の行方を探ろうと、元来た林道を駆け抜けていった。
その遥か上。高く聳える木の枝から、古びた布が垂れ下がっていた。
そこに、一つの影。
「……面白う。ここまでしても勿体ぶるのか」
少女は口元を手で覆い、愉悦に満ちた笑みを零した。
「まだ、スパイスが足りないようだな」
◇
彼を見つけるのに、そう時間はかからなかった。林道を進んだ先で、川良が木の影にうずくまっていた。
「……アレはなんだよ」
近づいたクロより早く、彼が口を開く。
「オマエの武器、殺すために持ち歩いてたのかよ!?」
何も返せなくなり、クロは口をつぐんでしまった。
身魂の正体は、クロにも見当がつかない。学長から確保を勧められた魔器も、バケモノを殺すために使うとは予想だにしなかった。
「あの人たちは、人じゃない。だから君は悪くない」
「……そんなの、信じられるかよ」
「ごめん。巻き込むべきじゃなかった」
即座に謝る。これは自分の責任だ。
「君に罪はない。どうか気に病まないで。忘れてほしい」
相手を慰めるはずの言葉が、いつしか自分を責め立てる。
胸の中にいるユキの力が、強大になった気がした。
「それは、違くないか」
その言葉に、クロは顔を上げた。
「逃げたいわけじゃない。知りたかった。俺だって加担したし」
川良は膝の震えを抑え込むように、ふらつきながら立ち上がった。一度もこちらを見ようとせず、拒絶するように背を向ける。
「……オマエは俺を守ってくれた。ありがとな」
クロは、少しでも救われた自分がどこまでも非力に感じた。
◇
二人は沈黙を続け、あまり時間をかけずに川辺まで戻った。
「もうすぐ村につくけど、オマエはどうすんの?」
ふと、川良が問いかける。
「消えるよ。僕はここにいていい人間じゃないから」
その煮え切らない返答に、川良は疑わしげに目を細める。そして、足元の川水を力任せに掴み、クロの顔へ叩きつけた。
一瞬、クロは驚きに目を丸くしたが、滴る水と共に再び俯く。
「いい加減、頭冷やせ。いつまでそうしてるつもりだよ」
「……ありがとう。でも、違うんだ」
クロが来てから、あの村は変わってしまった。
それを聞いた川良は、呆れ果てたように深くため息をついた。彼は近くの樹木に歩み寄ると、腕を組んで背をもたれる。このまま村に帰るつもりはないようだ。
「オマエ。姉ちゃんと仲良かったんだろ。姉ちゃんからオレのこと聞いたって言ってたしな」
一瞬、躊躇するように口を塞ぐ。
「……姉ちゃんは、自分のことを話したの?」
焚火を囲んだ月夜。多香音が打ち明けたことがあった。
「本島の人間に、冷たい目で見られたって」
口に出して、クロはようやく気づいた。
村に暮らす人々が、本島の人間を嫌う理由。
「それだけじゃねーよ」
川良は頭を抱え、封じ込めていた記憶を掘り起こした。
そして、絞り出すように語り始めた。
「姉ちゃんは、馬鹿にされたんだ」
それは、六年ほど前のことだ。
本島で働く両親に会いに行くついでに、多香音はある祭りへ参加した。春の終わりを祝うために催される流星祭。初夏には流星が夜空を埋め尽くし、吉兆として崇められてきた。長い歴史を持つ祭典だ。
「姉ちゃんは、すげー楽しみにしてたんだよ。ただ純粋に」
しかし、そこで待っていたのは祝福ではなかった。
見知らぬ人々から冷たい眼差しを突き刺され、通行人からは心無い言葉を投げつけられた。終いには、祭りの運営者にさえ、理由も分からず怒鳴り声を浴びせられたのだ。
誰にも受け入れられなかった多香音は、村に戻る。
「……姉ちゃんは、一晩中泣いてたって」
それから、村は悲しみに包まれた。次第に本島へ出歩く者もいなくなり、誰もが本島を避けるようになり、そして憎む者さえ現れた。
『あの子はね。私がずっと面倒を見てきた。よそ者なんかに、あの子は渡さない! あの子の気持ちが分かるもんか!』
あの婦人の痛ましい声が、クロの脳裏を過る。
「食堂の人とは、どんな関係が?」
「里親だよ。代わりに俺たちを育ててくれてんだ」
同じ村に暮らしているが、血は繋がっていない。
「あの人は性格悪いし、口うるさいから嫌い。でも、あの人にとっても、姉ちゃんは宝物でさ。村のみんなも同じ。姉ちゃんが笑うと、やっぱ気持ち悪いけど村中が明るくなって」
川良は後ろ髪を掻く。何が言いたかったのか次第に忘れた。
「……オマエはどうなの?」
唐突な問いに、クロは目を丸くする。
「姉ちゃんが大事なのかって聞いてんの」
「……うん。大切な人」
「なら、姉ちゃんのこと頼むわ」
何かを諦めたように、川良は吐き捨てた。
「これ、誰にも言ったことないんだけど。村に閉じ込めるのが正しいとは思わないんだ。姉ちゃんだって、結婚して幸せになって欲しい。あんな狭苦しい村から出てって」
家族に囲まれる幸せそうな笑顔を、川良は幻想のように浮かべる。
それが、たとえクロでも、悔しいが不快には思わなかった。
「……どうして、僕なの?」
「姉ちゃんだって、本島の人間は怖いはず。でも、お前とは仲良くなれたんだろ? 姉ちゃんだって本当は気づいていたと思うよ」
川良は再び視線を落とし、所在なげに小石を蹴った。
「それに、俺だって。姉ちゃんにひどいことを言ったから……」
クロはかける言葉を失った。
「で、どうなの?」
「僕は……」
クロも視線すら向き合えなくなり、下へ移した。
もし、このことを多香音に話したら、どんな反応を見せるだろうか。心の底から喜ぶとは思えない。けれど、もしそんな未来が許されるのなら、彼女や川良の想いに尽くしたい。
水面に映る自分の顔は、どこまでも迷いに満ちていた。
やがて、ゆっくりと波紋が静まり、覚悟を秘めた眼差しへ変わる。
クロは真っ直ぐに、川良と向き合った。
「僕はみんなのことが大切だよ。多香音さんも、川良くん。村の人々も。そして、本島のみんな――僕の家族も。かけがえのない存在」
僕には、やるべきことがあるから。
「……ふーん。なら上手くやれば?」
誘いを断られるとは思わなかったのか、川良は苛立ちを隠すように地面を蹴り、クロに背を向けた。そのまま村の方へ歩み出す。
「みんなのことは、君が守ってほしい」
クロが呼び止める。
「もし、さっきみたいにバケモノが襲ってきたら、君が頼りだよ。逃げてもいいから。みんなの笑顔は奪われちゃいけない」
村の平穏はこれからも続くべきだ。自分の関係のない場所で。
「……川良くんは、賢くて勇敢だから」
川良はぶっきらぼうに振り返り、耳を赤くしてまで言葉を返す。
「そ、そら当然だろ。村のヤツらはボケっとしてるし」
強がりの奥で、クロに託された信頼が胸に沁み込んでいく。
「だから、俺がちゃんとしないと」
その横顔は、幼い子供でありながら、誰よりも気高い騎士のようだった。
この子なら、きっと大丈夫だ。憎しみには負けない。




