第34話 かけがえのない宝
靴を借りて外に出ると、クロは作業中の村人に駆け寄られた。
「あの子を助けてくれてありがとう!」
「お主がいなければ、どうなっていたことか……」
「命の恩人だ!」
素直に受け取れず、クロは不器用に手を振った。
体調が悪くなっていく一方で、人だかりは増していく。最後まで困惑を秘めながら、群衆を掻き分けるようにして食堂へ急いだ。
扉を開くと、涼やかな鈴の音がする。薄暗い室内には使い込まれた丸机や椅子が数多く並んでいた。人の姿はないが、奥に続く調理場らしき一室からは、香ばしい匂いが漂ってきた。
「誰だい? まだ開いてないんだけど」
野太い声が飛んできた。あの婦人だ。
「あの、すみません。旅の者なんですが……」
声を低めた途端、強い力が床を叩いた。重い足音が続くと、台所の暗がりから、エプロン姿の中年女性が現れた。
「なに」
獲物を追い払うような鋭い眼差しを、クロへ向ける。
「多香音さんからお願いがあって。おかゆは――」
「作ってるとこ! どれだけ手間かかると思ってるの?」
婦人は苛立たしげに腰に手を当てる。
「どうせ急かされたんだろ。昔っからそう。人の気も知らないで、こんなよそ者よこしやがって。いつまで経っても成長しないね」
クロの指先が、勝手に動いた。
「あなたは、多香音さんに成長して欲しいんですか?」
「急に何。答える義理はないよ」
「……教えてくれたら、消えますから」
婦人は心ならずも答えた。
「面倒が減ってくれんなら。さっさと大人になってほしいもんだ」
「なら、ちゃんと見てあげてみるのはどうですか?」
婦人は隣の壁を殴った。クロの肩が跳ねる。
「説教のつもり? よそ者に何がわかんのさ」
「…………何も分かりません」
それが、答えだった。
彼女と過ごしてきた時間は、決して穏やかなものばかりではなかった。自分の望み通りにならなければ平気で喚き、自分の立場を押し通そうとする。大変だと感じることが何度もあった。
――それでも。彼女は自分の時間を、クロに譲ったのだ。成長しないと切り捨てられるのは、納得できない。
『でもこれだけは言えるんだ』
本当の光は見えてこないのだから。
「分からないと、もったいないと思います」
「なにそれ。答えになって――」
婦人が歯を見せた瞬間、台所から弾ける音が響いた。
「かまど。火つけっぱだった」
彼女は駆け足になる。爪先で椅子を突き飛ばしても気に留めず、台所へ向かった。そこから忙しい音が続き、婦人の苛立った声が響く。クロはその場で立ち尽くした。
やがて、婦人が再び顔を出す。手には軍手をつけ、煮込まれたおかゆの器を持っていた。湯気に混ざった卵の香ばしい匂い。料理の腕は、紛れもなく一流だった。
『ダメ! クロじゃなきゃやだもん』
「僕も多香音さんに頼まれて」
無言で通り過ぎようとする婦人に、クロは踏み出した。
「私が持っていって悪い!?」
しかし、拒絶された。
「あの子はね。私がずっと面倒を見てきた。よそ者なんかに、あの子は渡さない! あの子の気持ちが分かるもんか!」
婦人は扉を蹴り、多香音の待つ屋敷へ向かった。
取り残されたクロは、うつむくのだった。
◇
「ほら。持ってきたよ」
病室の扉を開いた婦人は、寝たきりの多香音に言い放った。
「……うう、お腹いたい……」
多香音の容体は再び酷くなっていた。額に乗せられた袋は中身の氷が溶けており、彼女の荒い呼吸が室内で響いている。顔は林檎のように火照り、うわごとのように小さく唇を震わせていた。
婦人は何も言わず、枕元の机に器を置く。そして、はだけかけた毛布をそっと整えながら、複雑な顔で彼女を見つめた。部屋に充満するおかゆの湯気に混じった別の匂いに、婦人は深くため息をつく。
おかゆの匂いに釣られ、多香音はうっすらと目を開いた。鼻腔をく強く刺激したのは、出汁の効いた美味しそうな匂いと、慣れ親しんだ古臭い婦人の匂い。
それは、多香音が最も求めていた匂いではなかった。
「……クロは?」
その名を耳にした直後、婦人は不満げに眉を寄せた。
「なんであんなよそ者招き入れたの」
「どういうこと? クロはどこ?」
「もう帰ったよ」
きっぱりと言い、婦人は背を向けて立ち去ろうとする。
「待って……待って――」
多香音は激しく咳き込みながら、苦しげに背中を呼び止めた。
「止めてきて。お願い」
婦人は振り返らない。屈強な肩が次第に震え始める。
「約束したから。一緒にでかけるって、クロと約束したの」
「聞き分けを持ちなさい!」
その怒号が室内に轟き、世界の時間が止まった。
「約束したのはアタシだって同じだよ! もう本島の人間とは関わらないって、アタシと決めた! どうせあいつが何か唆したんだ。一発ぶん殴ってやる」
婦人は怒りに任せて袖をまくり上げ、鼻息を荒くする。
「やめて。違うよ」
「何が違うのさ。あんたもいい加減に、大人に――」
「分かった」
絞り出された声は、あまりにも弱っていた。
「分かりました」
多香音は力無く繰り返す。婦人は横目を流し、小さく悲鳴をこぼした。
ベッドの上で、多香音の大きな瞳から流れた涙が、白いシーツに絶え間なく染みを作っていく。手で顔を覆い隠しても、止まらない涙や鼻水が容赦なく顎を伝い落ちた。しゃっくりを上げるたびに、華奢な体が跳ねる。
「ちゃんとっ。言うこと聞くか、らぁ。ごめんなさい……」
――どうして、悪者のように言う。
婦人の心中で、大きな音が立てられた。今までの多香音なら、すぐに反発した。生意気にも謝ろうとせず、何も言い返せなくなったら森へ逃げ込んでいた。わざわざ夜通しで駆け回っても、礼の一つも来やしない。
今の多香音が分からない。そう思ってしまった。
「ご、ごめん。冗談だから。殴らないって」
婦人は戸惑いながら歩み寄り、彼女の熱い頭を撫でた。
「ほら、泣き止んで。アタシが悪かったから」
手を握る。やがて、彼女の泣き声が少しずつ収まっていった。
どこか、懐かしかった。
「おばさん……ありがとう」
「……うん」
それを聞いたのは、いつぶりだろうか。
そもそも、自分は何がしたかったのだろうか。
『分からないと、もったいないと思います』
誰よりも理解していた。そのつもりだった。
今度こそ傷つけないと誓ったというのに。大事な子供を、知らずのうちにこの手で閉じ込めていた。多香音は自分にとっての宝物を、既に見つけていたのだ。
それは、ゆかりのない世界だった。
おかゆを届けた婦人は、心に大きな穴が開き、覚束ない足取りで戻る。まだやることは沢山ある。まず、村のみんなの食事を作って。いや、その前に掃除をしなくては――。
食堂の入り口には、箒が立てかけてあった。
婦人はいつも、地面に転がしていた。
「……なんで?」
食堂の中は、貴族の屋敷と見違えるほどに綺麗になっていた。埃ひとつなく、古びた机や椅子が磨かれている。台所を覗くと、先ほど自分が散らかしたはずの器具や食器などが、完璧なほどに片付けられていた。
これほど器用なことができるのは、少なくとも村にはいない。
「まさか」
あの少年の姿は、どこにもなかった。
◇
「……本当に、もう出発するのかね」
村長の屋敷。着替えを終えたクロは、そう尋ねられた。
「まだ元気がないように見えるが」
「体調は回復しました。きっと、気のせいですよ」
力無い笑顔を見せるが、村長の不安は潰えなかった。
クロの古びた装備は、光を反射するほどに磨かれている。洗濯から乾いた装備は、村長の家に保管されていた。
村長は確かに休養を終えたら取りに来いと命じたが、ここまで早く旅立つとは思っていなかった。
「そんなに急いで、そなたは何がしたいのじゃ」
「それは、言えません。ごめんなさい」
深々と頭を下げた。魔族の謎を追っていることは彼に明かしたが、その理由である怨霊の浄化までは話していない。
クロは脱獄し、政府から追われている身だ。タイムリミットは刻一刻と迫っている。だが、村を発つ理由はそれだけではない。
自分はただの通りすがりの旅人。そのはずが、村の日常を脅かしている。もし自分が嵐なら、早く過ぎ去るべきだ。
「……多香音さんには、申し訳なく思います」
約束を守れなかった。だが、これが正しい選択だ。
クロはそう言い聞かせ、未練を断ち切るように背を向ける。
「少しいいか」
重みのある声が、踏み出そうとした足を止めた。
「君は多香音を救ってくれた。心から感謝しておる。この村にとっての宝だからじゃ。君のことも、無事でいて本当に良かった」
村長が語る間にも、台所から孫の千里が顔を覗かせていた。
「当然のことをしたまでです。村の方々からも、十分すぎるほどのお礼を頂きましたから」
「……その中に、お主のことを心配する声はあったか」
クロは押し黙った。気づかないふりをしていた。食堂へ向かう道すがら、熱狂する村人たちに囲まれていた時。村長も彼らの声を傾聴していたのだ。
人々は皆、多香音の無事を喜び合い、感謝を伝えた。
クロが無事でいたことは、誰も気にしていないようだった。
老人は力強く杖を突き立てる。
「許されていいはずがない」
彼の頭は震えていた。
ふと、かつての会話を思い起こす。
「いつだったか聞いたな。埃が入った茶を、君は飲むと」
『飲みます。捨てるのも、もったいないので』
あのとき、クロは迷いなく答えた。
「だが、仮にもし。入った埃がとてつもなく大きく、器の中身を全て吸い尽くして、その重さに耐えきれず器すら壊れてしまったら」
――君はどうする。
その質問に、クロは答えられなかった。
「……すまない。変なことを聞いた。忘れて構わない」
老人は後退りし、クロの旅立ちを送り出す姿勢を見せる。
「だが、これだけは言わせておくれ」
俺はただ、あんたが心配だ。
その眼差しには、かつて数多の修羅場を乗り越えてきた冒険家としての、真実を見抜こうとする強い意思が宿っていた。




