第33話 花びらを落とす
廊下に出たクロは、隣の病室にいる多香音のもとへ向かった。
木製の床から、ひんやりとした感触が足裏に伝わってくる。
扉の前に立つと、控えめに中指を打った。
「やっと来た! ノックとかいらないから!」
中から響いたのは、怒りに燃える声だった。
どうやら、自分で話せるほどには回復したらしい。
扉を開くと、赤髪の後ろ髪が目に飛び込んできた。
失礼します。その頭文字すら許さず、多香音は背を向けたまま怒鳴る。
「遅いよ! ずっと待ってた。早く持ってきて!」
彼女は腕を組み、機嫌が悪いことを隠しようともしなかった。
クロには思い当たる節がない。誰かと勘違いしているようだ。
「あの、多香音さん?」
渋々と声をかけると、多香音は弾かれるように振り向いた。
扉の傍らに立つクロの姿を認めた瞬間、彼女は目を皿のようにして固まる。しばらく唇を痙攣させていたが、やがて顔を真っ赤にして言い放った。
「なんでいんの!」
「えっと! あの――」
「なんで。ねえ」
多香音は叫ぶなり顔を毛布に埋め、手近にあった枕を力任せに投げつけた。
クロは避けようともせず、それを受ける。柔らかい感触が、まるでビンタを受けたような衝撃となって肩を叩いた。
床に落ちた枕を拾い上げると、彼女の姿はいなかった。
「なんでいんの」
小盛りの毛布の塊から、くぐもった彼女の声が響く。
「お見舞いに来た、つもりだったんですが。嫌でしたか?」
「知らない! どっか行って」
うめき声を交え、彼女はそう吐き捨てた。
「わ、分かりました。失礼します」
「……待ってぇ!」
申し訳なくクロが背を向けた瞬間、はっきりとした声に呼び止められる。多香音は毛布の端から、目元だけを覗かせていた。
「……やっぱなし。今の嘘」
ちゃぶ台返しのような勢いで毛布を跳ね除けると、彼女はそのままベッドに背中を落とした。しかし、後頭部に当たるシーツの感触が気に入らないのか、不満げにクロを指差す。
「ん!」
「えっと、これですね」
クロは意図を察し、抱えていた枕を差し出した。だが、彼女は受け取ろうとせず、代わりに首を震わせながら自力で頭を持ち上げた。病み上がりの体に追い打ちをかけるような強情さに、苦笑いを禁じ得ない。
再び意図を汲み取り、クロは後頭部とシーツの隙間に枕を押し込む。満足したのか、多香音はしばらく何も言わなかった。
次に彼女が目を向けたのは、ベッドの脇に立つ木の棒だった。そこに吊るされた冷水の入った袋を求めたが、手が届かない。
すると、多香音は得意げに鼻を鳴らした。
クロは吊り棒の裏に回り込み、仕掛けに手をかける。
「これ。どうやって動か――」
金具から紐を取り外した瞬間、紐が勢いよく上へ吸い寄せられる。吊り下げられた冷水の袋が多香音の額を直撃した。
「あっ。ああーっ! ごめんなさい!」
クロは真っ青になって袋を持ち上げたが、漏れ出た水滴が彼女の瞳を無情に突き刺す。多香音は嘆きの声を上げた。
「もういやぁぁ。いいことないぃ」
クロは必死に袋を抱え直す。紐の先を辿ると、吊り棒に固定された滑車に行き当たった。どうやら長さを調整するための金具らしい。取り外せば落ちるのは当然だった。
原理を把握したクロは、今度こそ袋の高さを調整し、熱い額の上へそっと乗せる。だが、彼女の機嫌をさらに損ね、クロは口を噤んでしまった。
やがて、多香音が苛立ちをぶつけるように布団を強く叩いた。
クロの肩がびくりと跳ね上がる。
「……座って」
少し戸惑った後、クロは大人しく腰を下ろした。
多香音から何かを訴えかけるような眼差しを向けられ、クロは思わず顔を逸らした。妙な違和感が胸で蠢く。
乱雑に結ばれていた長髪は、今では淑やかに流している。土汚れに染まった皮膚も清められ、露出を抑えた純白の寝巻が、彼女をいっそう儚げに見せていた。
「風邪っていいことない」
ふと、彼女がかすれた声で呟く。
「死ぬほど頭痛いし。お腹らへんも痛いし。熱いのに寒いし。意味分かんない。しかもみんなに文句言われるんだよ? ひどくない? こんなに可哀そうなのに」
ゆっくりと上体を起こし、縋るような視線を向けた。
「……そんなこと言わないよね?」
「は、はい。当然です」
クロは気圧されるように、何度も深く頷いた。
「なんで風邪なんて引いたんだろ」
「弟さんのがうつったとか?」
「近づいてないもん」
「やっぱり、川で遊んだ後に体を拭かなかったから――」
「そんなのしょっちゅーだし」
彼女の話では、真冬に同じ無茶をした時ですら、鼻水ひとつ出さなかったらしい。風邪を引いたのは初めてのことだった。
「……てか、今のひどくない」
「え?」
「責めてるみたいだった。こんなに辛いのに、私のせいだって」
多香音は今にも零れそうな涙目で、クロを睨みつけた。
「そっちだって悪いし! 私が風邪ひいたのも、そっちのせい!」
「どうして!?」
クロは本心をそのまま口に出した。
「もう傷ついた。動けない。ねえ。代わりにおかゆ持ってきて」
「おかゆ、ですか?」
クロは首を傾げる。そういえば、室内に入る前に、彼女がそんなことを言っていた気がする。
「食堂のおばちゃんにお願いしたのに、全然持ってきてくれないの。だから代わりに持ってきて」
それくらいなら安い御用と答えたかった。
『あたしの食堂には来させないよね!』
しかし、クロはあの婦人から人一倍恨みを買っている。
「……他の方に頼んでも――」
「ダメ! クロじゃなきゃやだもん」
念のために尋ねたが、分かり切っていた回答だった。きっと婦人との対立は避けられない。クロは肩を落としながら、出口の扉へ向かった。
「クロ」
ふいに名を呼ばれ、クロは立ち止まって振り返った。
時間が止まったように感じた。カーテンから入り込んだ風が、上体を起こした彼女の前髪を撫でた。そばに生けられた花瓶の撫子が、一枚の赤い花びらを落とし、白いベッドのシーツへ舞い落ちる。
その瞬間は、二度と忘れられない。そう思わされる。
「……早く戻ってきてね」
胸を打たれたように、クロは目を見開いた。
それから、しばらく口を閉じる。
「早く元気になるといいですね」
クロは穏やかに笑みを浮かべるのだった。




