第32話 身魂の謎
窓の外からそよ風がたなびき、肌を撫でる。
クロは安らかな吐息を漏らし、ベッドに横たわっていた。ふと目が覚めると、クロはゆっくりと上体を起き上がらせる。
木製の室内は、隅々まで清潔に整えられていた。塗りたくられた漆の独特な香りと、花瓶の粉っぽさが鼻先をかすめる。
ふと枕元に目を向けると、一つの椅子が置かれていた。そこから紫色の髪が流れている。
椅子に座っている少女は、小さな鼻歌を歌いながら交互に足を揺らしていた。後ろ姿からでも、両手で支えた分厚い本に没頭している様子が伝わってくる。
クロは見覚えがあった。村長の孫娘だ。確か名前は――。
「千里ちゃん?」
名前を口にした途端、千里は持っていた本を天井へ向かって放り投げた。鈍い音が連続し、ようやくクロと視線が合う。
椅子から跳び上がると、床に落ちた本を拾い、脱兎のごとき勢いで逃げ出していった。
「……た、助かったのかな」
彼女のこともそうだが、自分の状況が知りたかった。多香音はどこにいるのだろうか。
「うちの子が騒がしくて申し訳ない」
しばらくして、聞き慣れた声がした。
「いやはや、君が無事でよかった」
杖を突きながら歩み寄ってきたのは、村長だった。
「多香音さんは、大丈夫ですよね?」
クロはいち早く、熱で倒れ込んだ彼女の安否を確かめる。
椅子に腰を下ろしながら、村長は告げた。
「心配はいらぬ。ただの風邪じゃ」
それを聞いたクロは、驚きを顔に残したまま、ベッドに倒れた。
「……よかった」
少しの沈黙の後、村長は唸るように言葉を紡ぐ。
「いや、ただのというのは語弊があった。そなたが命がけで守ってくれた子だ。謝らせてくれ」
「え、えっと。そんな大層なことはしてません」
それよりも、彼女の詳細が聞きたい。
クロの訴えに頷き、村長はここに至るまでの経緯を話した。
多香音が届けた薬草により、弟の風邪は回復した。そのことを知った彼女は普段のように遊びに出かける。
それからしばらくして、朝の作業に勤しんでいた村人が、彼女を背負ったクロを発見した。
多香音は体を洗い流した後、クロとは別の病室で安静を取らせている。同じく検査を受けたクロは、八時間以上も眠っていた。
「つまり、今はお昼ですか?」
村長に頷かれ、クロは頭を抱えた。もう三晩だ。怨霊に関する情報は何も得られていない。
「村長さん。僕の装備はどこですか?」
クロが着ている服は、見慣れない村のものだった。
「ワシらが洗い流した。朝に干したから、もう乾いているじゃろう」
「ならすぐに――」
立ち上がろうとした次の瞬間、頭の中がぐらついた。
「……あまり無理はしないほうがよさそうじゃの」
「どうして……」
多香音の風邪が移ったのだろうか。最初はクロもそう疑った。
しかし、村長には疲労の蓄積を指摘された。四日間ほど休むことなく動き続け、従来の生活習慣から逸脱した活動をしてきたため、知らぬ間に顔もやつれていた。
「それよりも」
村長は目の色を変える。
「そなたの体を診た者が、獣に引き裂かれたような傷を見たらしい。大事には至っていないが……何が起きたのか、話してほしい」
クロは息を呑み、遺跡で起きたことを話した。
◇
「その怪物とやらの正体は、ワシにも見当がつかん」
かつて魔族と戦争をしていた時代を生き抜いてきた村長ですら、クロの語る怪物には心当たりは何一つなかった。
魔族が残した遺跡に現れた異形の陰。クロが壁の呪文を読み上げたことで発現したが、なんと以前村長が調査した時点では、文字なんて刻まれていなかったという。
「その怪物は、殺した瞬間に消滅したんじゃな?」
「……はい」
後ろめたい思いを振り切り、クロは頷いた。
「魔族は絶命したとき、死体が残る。そなたの話を聞く限りでは、その怪物は間違いなく人間ではないが、魔族でもない」
こればかりは今までの常識を超えている。力になれそうにないと頭を下げる村長に、クロはとっさに首を振った。
しかし、ある予感が拭えなかった。
あの身魂からは、紛うことなき憎悪を感じた。他者がユキを見て抱く感覚と同じだろう。すなわち、身魂は怨霊と関連がある。
怨霊と似た力を持つ魔族の痕跡を探るために、クロは旅に出た。
もし、身魂の正体が魔族に通じているのなら、浄化の方法を魔族が握っている可能性も高まってくる。今までにない確実な進展だった。
だが、身魂の登場により、謎は深まるばかりだ。クロは旅の再開を視野に入れ、辺りを見渡した。
「……そういえば、僕の武器を知りませんか?」
背中の重みが消えたことに、次第に違和感を抱いた。
「そなたが携えていた魔器のことか? 戻った時からなかったが」
クロは後になって思い出した。
記憶が曖昧だが、森林で多香音を発見したとき、無意識のうちに落とした気がする。そのときに背負っていた荷物も一緒に失くしてしまった。自分の体調を鑑みるに、これ以上の無茶はできない。
「そなたの装備は、ワシの屋敷で大切に保管しておく。休養を終えたら取りに来てくれ」
村長はそこで一度言葉を切り、どこか切実な眼差しをクロに向けた。
「せっかくなら、多香音の容態を見てやってくれないか。隣の個室におってな。これだけ苦労させられたんじゃ。文句の一つ言っても罰は当たらん」
流石にそこまではしないが、他にできることもない。
「そうですね。会いに行ってみます」




