第31話 勘違い
「……」
最後の身魂を討ち果たしたクロは、魔器を下ろすことなく、じっと固まっていた。
肉を断つ感触を覚え、魔器を鞘に戻し、両手を合わせる。
身魂を倒し切ったことで、森に漂っていた憎しみの念が完全に消え去った。まるで長年の呪縛から解放されたようだ。かつての重みはもうない。
あの身魂たちにも、還るべき場所があるかもしれなかった。
「どうか、報われてください」
強く祈りを捧げ、クロはゆっくりと手を下ろした。
精神が落ち着いてくると、途端に疲労が押し寄せた。先ほどの遺跡を調査したいところだが、今は村長に事変を伝えるのが先決だ。
わずかな月光を頼りに、クロは森を抜ける。せせらぎが聞こえてきて、三本の川に辿り着いた。多香音と休憩した水滴の跡は、もう消えている。
水面に足を踏み入れると、凍えるような流れが容赦なく足を攫おうとする。クロは必死に濁流を押し分け、何とか対岸を渡り切った。
こんなとき、多香音がいてくれたら。
そう思っても、彼女の朗らかな声が聞こえてくることはなかった。
残りの道も楽ではなく、山林が果てしなく続いていた。どれほどの時間が経過したことだろう。今すぐ横になりたいという衝動を抑え、見覚えのある光景を何度も横切っていく。やがて、最初の遺跡に辿り着いた。
そこには、多香音と囲んだ焚火の跡が残っている。
力無い欠伸をしながら、クロは歩みを進めた。
いつしか月が沈み、遠くの稜線から橙色の柔らかな光が差し始める。ひと休みした川の音を拾い、林道には大岩が聳えている。
ようやくここまで来た。村までの距離は近い。
村に到着したら、まず村長の家に寄る。少し休んだら、旅を再開する。
魔族に関する情報は何も掴めなかったが、それよりも重大なことが起こった。脳裏に過ぎるバケモノの姿。
朝日の光が目元まで伸びてくる。うつむいていたクロは、眩しさに顔を上げた。
その先で、人が倒れていた。
「……え? あれ」
現実離れした光景に、クロの口から呆気ない声が漏れた。
次第に事の重大さを理解していき、鼓動が早くなる。
勘違いしていた。平穏は、いつまでも続かない。
森の出口だ。道に伏せるようにして、人が倒れている。
クロの位置からは遠く、姿がよく見えない。人形のように微動だにしなかった。
「あの、大丈夫ですか――」
声を張った瞬間、足元がぐらりと揺れた。
足元には何もないのに、躓きそうになった。油断すれば気絶する。クロにも余裕がなかった。
重荷となった鞄をその場で脱ぎ捨て、鞘から引き抜いた魔器を杖代わりにして歩く。その姿が鮮明になっていく。
「――」
声にならない悲鳴が溢れ出した。
傷だらけのブーツ。土汚れに染まった素肌。大きな影が体格を物語っている。地面に埋めている顔の先から、赤色の髪が広がっていた。
多香音だ。
「た、多香音さん」
舌が震える。クロは疲労を忘れ、彼女へ駆け寄った。
激しく揺れ動く視界に、痛ましい現実が突きつけられる。紛れもなく多香音だった。
彼女の傍らに辿り着いたクロは、硬い地面に膝を落とした。意識を呼び覚まそうと、祈るような心地で手を伸ばす。
「熱――っ!?」
指先が彼女の素肌に触れた瞬間、まるで炎に触れたような刺激が走った。体温が尋常ではない。
顔を近づければ、塩を蒸したような匂いが鼻を突く。全身が大量の汗に浸っていた。
クロは素肌を避け、シャツを掴んで必死に揺さぶった。
「……ぁ……」
かすかに聞こえてくる、弱り切った声。まだ生きている。
束の間の安堵を切り、彼女の体を横へ転がした。泥に染まった頬は、熟した林檎のように赤く染まっている。
「む、村は?」
とっさに顔を上げる。遠景にある村は、変わり映えのない様子だった。異常があるのは多香音だけだ。
村へ連れて帰り、誰かに診てもらえば、きっと助かるはずだ。
彼女の太い腕を掴み、火傷しそうな熱さを堪えながら、無理やり自分の肩へ担ぐ。そのまま立ち上がろうとした瞬間。
「――重っ!」
凄まじい重圧がのしかかり、思わず地面に手をついた。
クロと彼女の息切れが交わる。多香音の腕から垂れ落ちた汗が、クロの背筋を冷たく伝った。
陽炎のような熱が意識を掻き乱す。今この瞬間に両膝を折れば、背負った重みに押し潰される。
今の彼女を救えるのは、自分しかいない。その確信が、折れかけた精神を繋ぎ止めた。
震える四肢に渾身の力を注ぎ、強引に押し伸ばす。自分よりも一回り大きな多香音を支え、泥を蹴って大きく足を踏み出した。
「大丈夫です。多香音さん!」
肩に回した彼女の熱い手を、強く握り直す。天を仰ぐように顔を振り上げると、叫び出したい衝動を飲み込み、村へ向かって走り出した。
地獄を走っているような感触だった。せり上がってくる胃酸を必死に喉の奥へ押し込む。村まであと少しだ。しかし、村人たちは誰もクロに気づけていない。
ぐらつく意識を持ちこたえる。眩暈がし、馬小屋が四つに重なって見える。足がもつれる。何度も転びそうになるが、そのたびに耐えた。
――諦めるな。数え切れないほどに繰り返す。
朝の作業をしていた村人と、クロは目が合った。
その瞬間、不意に足が浮き上がる。ついに力尽きて倒れた。力が逃げていく。立てない。
「――ぁ……――っ!」
誰かの声だろうか。何か叫んでいる。よく聞こえない。
背中が重い。




