第30話 灰に染まった手
ユキのように憎悪を放ちながら、人間のような肉体を持つ異形。どの記録にも載っていなかった怪物を、クロは身魂と呼ぶことにした。
戦いは終わっていない。先ほど殺したはずの身魂と同じ咆哮が、森林から聞こえてきた。産毛を粟立たせる憎悪が、霧のように森林を覆う。
叫び声はひとつではなく、別の方角からも呼応するように吠える。
クロは逃げ出そうとしたが、思い止まった。
石壁に掘られた文字を呼び起こした瞬間、身魂は発現した。森林の出現もクロが原因だ。あの怪物は、容赦なく人を襲う。放置すれば人里に降りるかもしれない。
自分の選択で、人の命が失われるくらいなら、できることをしたい。
「……行こう。ユキ」
クロは鞄を背負い直し、再び歩み出した。
クロの影が長く伸び、少しずつ傾いていく。燃えるような橙色に染まる空は、やがて紺色が混ざっていく。森林の奥深くへ足を踏み入れた頃には、冴えざえとした月明かりが目立っていた。
足音を忍ばせ、頬の傷を気にしながら進む。
あの遺跡で感じた憎悪が、極限まで強まっていた。
身魂が放っているようだが、数多くの気配が霧のように雲散しており、位置が特定できない。
小枝を踏む。クロは立ち止まり、警戒を強める。
異常はない。確認を終え、クロは再び歩き出す。
樹木から液状の闇が漏れ出し、異形の腕が突きだした。
(――来た!)
敵襲の気配。頭上だ。クロはとっさに屈み込み、同時に振り返った。
目先に鋭い針が走る。遺跡にいた姿と同じ身魂が、地面に投げ飛ばされた。
魔器を構え、体勢を崩した身魂を狙ったが、森の奥や別の茂みから新たな身魂が現れ、やがて一つの大群となって寄せ集まってくる。
囲まれた。退くしかない。
瞬時に駆け出すクロの背中を、身魂は異様な咆哮を上げながら追いかけた。その声は何とも不気味で、肉親の仇を討とうとする怒りにも聞こえれば、心の底から楽しんでいる子供の嬌声にも響く。
終わりの見えない森を一心不乱に駆け抜ける。木々が視界の端へ流れていく。漏れ出した月明りが自分の顔で点滅する。
横目を送った視界に、一体の身魂が飛び出した。
(追いつかれた!?)
とっさに魔器を振る。身魂の爪が衝突し、赤い火花が散った。
両者は足を止めず、丁々発止を繰り広げる。その攻防に飽きたかのように、身魂が両腕を上げて飛び込んできた。
クロは姿勢を低め、突進を避ける。身魂が奥の茂みへ突き抜けた隙に、進路を変えた。開けた林道から、木々が密集する場所へ駆け込む。
耳を澄ませ、背後から叩かれる足音を聞き分けた。
大きい音が一つ。比にして小さい音が一つ。遠くで数多の音が響く。
足を激しく動かしていたクロは、突如として立ち止まり、土を削った。
魔器を振るう。目前に迫っていた身魂の首を、斬り落とした。
「まずは、一体」
(なっ――)
横切った死骸に気を取られていたクロは、飛び掛かった身魂に捕らえられた。とっさに魔器を盾にするが、地面に押し倒される。
鋭利な爪が刀身を軋ませ、クロの顔へ迫ってくる。
力では押し返せない。クロは歯を食いしばると、あえて力を抜き、魔器の角度を急激に逸らした。動きにつられた身魂の拳が、顔の真横へ突き出される。拘束から解放されたクロは、即座に喉元を切断した。
寄りかかった身魂の灰が、クロの胸にのしかかる。
爆ぜるような鼓動を運び、すぐに立ち上がる。
しかし、再び囲まれてしまった。全方位に有数の身魂が構える。
まだ五体も残っている。奴らは理性を持たないが、多勢に無勢という状況を強いる群れとしての知性がある。
剣技も使えない。森に引火する恐れがあった。
力が届かないなら、こちらも頭を使う。
双方の身魂が跳び込んだ瞬間、クロは膝を曲げた。
頭上を横切った二体の身魂が衝突し、互いに弾かれた。片方が倒れたのを確かめると、クロは隙を狙う。振るった魔器から、灰が舞った。
もう一体も倒そうと振り返った瞬間、強烈な蹴りが襲う。機転を利かせて防御したが、魔器を胸に押さえたまま、クロは遠くの茂みまで蹴り飛ばされた。
(なんとか防いだ、けど……)
まだ四体。もう何分も駆け回れる体力は残っていない。
ふと、クロは閃いた。最初の身魂と衝突する前に、木の後ろへ身を隠す。それから間もなく、追いついた身魂が樹木を回り込んだ。
しかし、狙った先にあるのは、踏まれた草木のみ。
身魂に別の影が伸びる。次の瞬間、その頭が斬り落とされた。
別の追手が叫び声を上げ、クロに向かって猛進する。
クロは衝突の寸前で身を引いた。クロを横切った身魂は、その先にある樹木に激突する。
身魂は倒れ込むと、頭を抱えてうめき声を上げた。
その姿が、まるで子供のように見えた。
魔器を振れない。ためらってしまった。
「アアッ!」
「――っ!」
さらに別の身魂が攻撃をしかけ、クロは止めが刺せないまま駆け出す。人間ではない。分かっていても、鼓動が鳴り止まなかった。
森を抜けた先には、下へ繋がる崖があった。後ろには身魂がすぐ近くまで迫っており、疲労でこれ以上は早く走れない。深さを確かめる暇もなく、クロは意を決して飛び込んだ。
幸いにも崖は浅く、クロは芝に着地する。
クロに遅れ、先駆した身魂が崖から飛び降りた。ところが着地を誤り、身魂は転倒する。
その隙を狙おうと、クロは接近した。
身魂は悶える様子で、強打した腕を押さえていた。
「――ごめんなさい!」
そう叫び、クロは魔器を勢いよく振り下ろした。
灰燼を抱える背中に、残りの身魂が盾突く。
「ハア……ハア……」
残り二体。正面での衝突は避けたい。
次の手を考えていると、木の枝に着目する。
「そうだ! ユキ。お願い!」
その呼び声に応じ、クロから分離した影が走る。奥に聳え立つ樹木を走って上ると、木の枝で輝かしい姿が露わとなった。
「ご主人様!」
ユキは小さな手を懸命に伸ばす。
地上から跳躍したクロがその手を掴むと、彼女は外見からは想像もつかない力で、一気に体を引き上げた。
枝の上に着地したクロは、接近する身魂を見据える。先頭の身魂が跳び上がり、爪先が木の枝を突き破った。
粉々に砕け散った木屑から、クロが飛び出した。衝突の直前、クロはさらに上方へ跳び上がり、身魂の背後を捉えていた。空中で晒されたうなじを目がけ、魔器を振り抜く。
確かな手ごたえを手のひらに残し、クロは地面へ降り立った。
「あと、一人……」
目前の敵を注意する。その場から駆け出した。
視界が開け、草木が少ない空間に辿り着くと、暗がりから猛然と迫る身魂を捉える。最後の一人になっても、その殺意が揺らぐことはない。
クロは魔器を正しく構え、迎撃の体勢を整えた。迷いを振り払うように深く息を吐くと、刀身から赤い影が伸び、闇夜を淡く照らした。
その光は、憎悪に染まった闇を断ち切った。




