第29話 剥がされた憎悪
夕焼けと溶け合う森林。足音が自分のものだけになると、途端に不安が胸を締め付ける。すぐ近くで聞こえた頼もしい音は、どこにもない。
これでよかった。クロは自分に言い聞かせ、鞄の紐を握る。
次の一歩を踏み出した瞬間、背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。震える唇を必死に閉じながら、その鬼気を実感する。やはり、気のせいではなかった。
奥深くの闇に潜む遺跡が、禍々しい気配を放っている。
「……うう!」
拳を握りしめ、緩やかな坂を一気に駆け上がった。足を動かすたびに、自分を奈落へ突き落とすような畏怖が足元から這い上がってくる。振り絞った最後の力を、終点で踏みつけた。
先に待ち受けていたのは、想像を絶する物寂しい光景だった。
剥き出しの平地に、一枚の石壁が孤立していた。たったそれだけだ。
これまでの遺跡は、どんなに小規模でも数多くの瓦礫が散乱していた。ここには崩れた破片ひとつ落ちていない。未曽有の鬼気を感じさせた遺跡の正体が、本当にこれだったというのか。
「……何か書いてある?」
その石壁には、天井が影を作っている。姿を隠すかの如く、小さな文字が掘られていた。極めて小さく、目を凝らさなければ目視できない。
「なんだろう」
関心を寄せ、クロは歩を速める。
普段より冷たく響く足音が、地中へ吸い込まれていく。その残響に反応するように、土の奥からうめき声が聞こえた気がした。
無意識のうちに、クロは背中の鞘から魔器を引き抜いていた。そして、クロは天井の下に踏み込む。
「……あれ」
何が書かれているか読める。人間の言葉で掘られていた。
あり得ないことだった。魔族が使う言葉は、人間のそれとは異なっており、解読も不可能だ。村長はそう言っていた。これまでの調査の記録でも、文字の存在など明記されていない。
辛うじて読み取れる文字を、クロは口に出してみた。
「……嘆きの声よ。我が眼前に響け」
からっ風が落ち葉を吹き荒らし、おどろおどろしい反響音が木霊する。
「穢土の傲慢に侵されし不治の奴隷よ。命を覚えよ」
紡がれる言葉ひとつひとつに、重みがのしかかる。心臓が早鐘を打ち、肺の空気が奪われていく。それでも、口は止まらない。
「我は汝を求む。汝の行進を我が意のもとに、示せ――」
それは言霊となり、クロの声に答えた。
文字に気を取られたクロでさえ、瞬時に感じ取った異変。背中に突き刺さる気配に、クロは吸い寄せられる。
何もない空間に、次元のほころびが口を開いた。光と闇を束ねる破片が散乱し、漆黒の歪みがひび割っていく。そして、黒い腕が這い出てきた。
現世に投げ出されたのは、名もなき怪物だった。
「……な、なに?」
クロは後ずさる。背中が冷たい石壁に触れる。
得体の知れない恐怖に飲み込まれる中、ただ一つの命令が聞こえた。
武器を構えろ。本能に従い、クロは魔器を構えた。
地にひれ伏す怪物は、この世のものとは考えられない声を出す。そして、クロに襲い掛かった。爪を立て、こちらへ跳び込んでくる。
――どうやって止める。殺すことは、できない。
黒い霧に染まる怪物は、クロの頭上を横切った。
その先にあった壁が突き破られ、石が崩壊する。頭上から天井が降り注ぎ、屈み込んだクロはとっさに身を投げ出した。
その刹那、背後の壁が大きな音を立てて崩れ落ちる。砂埃が舞い、視界が白く霞んだ。
転倒した衝撃にうろたえながら、クロは必死に呼吸を整え、刮目する。まだ、怪物がいる。
「くうっ!」
小鹿のように震える足を叩き起こし、クロは魔器の柄を握りしめる。鉄を這い上がる炎が、黄昏を照らした。
「ァ……ァァ……」
考えるより早く悟った。あの怪物は、話の通じる相手ではない。
あれは、魔族なのだろうか。歴史書や手帳に記録された特徴とは、似ても似つかない。魔族には理性もあったようだが、あの怪物にはない。そもそも、魔族は半世紀前に封印されたはずだ。
殺すべきなのか。その権利が、果たして自分にあるのだろうか。考える猶予は、そこで途切れた。
異形は四足獣さながらに大地を駆け抜け、黒い爪を翻す。最初の一撃を紙一重で回避するも、間髪入れずに追撃が襲った。
必死に攻撃を見切ろうとするが、爪先が頬に届き、糸のような血が宙を舞う。
「ご主人様!」
胸の内のユキが叫ぶ。
どうすればいいか、分からない。
回避を続けながら、刀身を震わせる。やはり、自分にはできない。この魔器も他者を守るために作られた。自分のために命を奪う無機物ではない。ユキにも責任を押し付けたくはない。
それに、この怪物にさえ、愛すべき家族がいるかもしれない。
家族。その言葉に、アネモネ村の住民の姿が過ぎる。つい先ほど別れた多香音は、今もこの近くにいる。本当の家族が滅ぶかもしれない。あの笑顔は、奪われるべきではない。
――迷いを断ち切るように、クロは地面を踏み砕いた。
次の一撃を控える怪物の首元を捉える。刀身から突きだした炎は、色鮮やかに激しさを増し、空間を震わせた。
ファイアー・クラフト 万灯踏。
立ち昇った業火が一閃の軌跡を描き、絶望の首を断ち切った。
「ハア……ハア!」
鉄の剣から、炎が散っていく。
首が泣き別れになった怪物は、死骸になって動かなくなった後、灰燼と化して空へ消えていった。
「やっぱり、人間じゃなかった」
頭では理解していても、柄を握りる手のひらに、汗がにじんでいく。剣を伝う感触は、あたかも人間の首を切断したように生々しかった。
怪物の消滅により、遺跡に漂っていた空気の重みが緩和されていく。
だが、全てが消え去ったわけではない。森の奥から、同じ気配が漂い始める。
それは、ひとつではない。数え切れないほどの憎悪が息を潜めていた。
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