第28話 柄じゃないこと
目指した道を外れ、二人は高い木々がそびえる森で薬草を探した。
多香音が巨木をよじ登っていく間にも、クロは村長の地図本、さらには学長の手帳を次々とめくっていく。
クロが知覚した現象は、どこにも記されていなかった。
過去に遺跡を調査した政府の人間や村長も、あの遺跡から感じる強い気迫を感じ取っていない。何もないという事実が淡々と綴られていた。
なぜ、クロだけが感じているのだろうか。
「また本読んでる!」
思考に浸っていたクロは、その声に呼び覚まされた。
木の枝に足を絡ませて逆さまにぶら下がった多香音が、不満げに頬を膨らませていた。クロは慌てて書物を閉じ、鞄の奥へ押し込む。
「もうすぐバイバイするんだから! 今くらい我慢して!」
「ごめんなさい。お待たせしました」
答えは見つからない。今は考えるべきではなかった。
多香音はまだ拗ねた顔をしているが、ひとまず気が済んだらしく、宙返りをして体勢を戻した。
別の枝に飛び移っていく姿を見て、クロはふと、初めて彼女と出会った頃を思い出す。
「今度は落ちないといいけど……」
地上で見守っていると、ふいに彼女と目が合った。
「ねえ。そっちも登ったら?」
唐突な誘いに、クロは短く声を漏らす。木登りの経験など皆無だ。旅の途中で崖を登ったが、木は降りる必要がある。掴める場所も少ない。もし足を挫けば、今後の旅に障る。
最悪な想像ばかりするクロに、再び逆さまにぶら下がった多香音が視界に入り込んだ。彼女は手を伸ばし、地上のクロへ差し伸べる。
「はい。来て」
クロは一瞬ためらった後、鞄や魔器を木の根元に降ろした。
彼女の手を握り返した次の瞬間、クロの体は瞬く間に持ち上げられ、気づけば太い枝の上に座らされていた。
怪力に驚き、顔を上げたところで多香音と視線がぶつかる。すると、多香音は身を乗り出し、勢いよく唾を吹き出した。
「髪が!」
多香音の叫びに、クロは一瞬きょとんとした。やがて額のあたりに妙な違和感を覚え、手を当てる。髪がなかった。
「あ、あれ?」
「ハゲだ! クロおじいちゃん!」
思わずクロは笑いを漏らし、恥ずさが遅れてやってくる。一方で多香音は容赦なく頭を振りながら笑い転げていた。クロは誤魔化すように視線を上へ逸らし、揺れる木の葉を見つめる。
「薬草は木の上によくあるんですか?」
「え? なんで知ってるの?」
肩を揺らしながら、多香音が問い返す。
「昨日も木の上にいましたから。そこにあったのは、隠密草でしたけど」
当時の様子が思い浮かび、クロの口元に自然な笑みがこぼれる。
それに釣られ、多香音も笑おうとしたが、これ以上は腹筋が持たない。息を整えると、ふと胸の奥がかすかに熱くなった。きっと、笑いすぎたせいだ。
「そうなんだ! 木の上によくあるの」
多香音は立ち上がり、別の枝に手を伸ばす。
次第に彼女の赤髪は木の葉に隠れ、木肌に引っ掛けた片足だけが残る。クロは視線を夕日に戻した。掻き分けられた葉っぱが、ひらりと夕暮れに舞う。
影に埋もれた多香音は、あるものに視線を吸い寄せられた。
「あっ!」
「どうかしましたか?」
声に反応し、クロが問いを投げる。
多香音が見つけたのは、薬草だった。
「薬草を見つけたんですか? 葉っぱの線が紫色じゃないものです」
熱心に頷きながら、枝の根元に生えている薬草を見つめる。葉脈は確かに緑色で、薬草の特徴と一致している。
多香音は手を伸ばし、根元から引きちぎった。これで弟の風邪も治る。ようやく手に入れた。嬉しいはずなのに、どこか引っかかる。
多香音はそれを伝えようと、口を開いた。
――声が出なかった。
「多香音さん? 大丈夫ですか?」
「え? ううん! なんでもない」
茂みの影で首を振り、薬草を握る力を強める。
「どうでした? 何か見つけましたか?」
「えっとね。何もなかったよ! 葉っぱだけ!」
とっさについた嘘。多香音はシャツの胸元に薬草を押し込み、木の葉から降りた。
クロの隣に腰を下ろし、何事もなかったように夕日を眺める。
「……大丈夫ですか?」
「え、何が?」
様子がおかしく、クロが問う。
「……いえ」
「なになに?」
「なんでもないです」
「教えてよ。なんだったの?」
「ちょっと変なことを考えてました。すみません」
クロはそう言って柔らかく微笑んだ。多香音の目じりが、じんわりと熱くなる。
行き場のない感情を逃がすように、木の枝から飛び降りた。高低差も著しく、彼女は着地の勢いで足を滑らせ、そのまま転倒した。顔を土に埋め、短いうめき声が漏れた。
立ち上がりない。異変を察知したクロは、とっさに本体の樹木を掴み、皮膚を削りながら降りる。手を添えようとすると、多香音はすぐさま起き上がった。
「大丈夫!」
得意げに何度か繰り返し、足を動かしてみせる。その直後に、膝が折れた。
「あ、あれ? なんで?」
予期せぬ痛みに邪魔された。多香音の瞳が揺れる。
駆け寄ったクロが、地面に伏せる多香音の顔を覗き込む。
「足を見せてください」
「や、やだ。触らないで」
皮膚を触れる温もりから逃れるように、身をよじらせた。
「気に障ったならごめんなさい。でも、大事なことなんです」
真剣な声だった。多香音の強がりは長く続かなかった。
地面に手を触れ、足を裏返す。膝に強烈な痛みが走り、短く悲鳴を漏らした。明らかになった左足の膝に、赤色の液体がこぼれている。
「骨。折れちゃった?」
涙を堪えながら、かすれた声で言う。
「この足がないと、私……」
「軽いかすり傷ですよ。包帯があります」
「き、汚いよ? 私の足」
「問題ないです。じっとしていてくださいね」
そう言い残すと、クロは多香音の元から離れ、木の根元に置いた鞄から包帯を取り出した。丁寧に生地を伸ばし、彼女の膝に巻き付ける。白い布に血の斑点が滲んだ。
今更、その傷が大して痛くないことに気づく。
「……あんまり怪我したことなかったから!」
何を証明したいのかも分からず、多香音は訴える。
「はい。分かっていますよ」
クロは微笑みを絶やさず、ゆっくりと何度も頷いた。多香音の傷口を真剣に眺め、包帯を巻きつける。しかし、多香音はその手つきを見つめていた。
こんなこと、初めてだ。鳥肌が立つ。クロは気にするだろうか。なぜだか、すごく恥ずかしい。
「はい、終わりました」
ようやく治療が終わり、多香音はとっさに足を引っ込める。
「かすり傷ではありますが、黴菌が入ったら大変なので。一度、川に戻って洗い流しましょう。それまではあくまで応急処置です」
クロは膝を曲げ、手を差し伸べた。
「立てますか?」
多香音の視線は、クロの口元で止まった。それより上は、どうしても見られない。
「ひ、一人で立てる」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
クロは前を向き、立ち上がった多香音の前で静かに待つ。
「気をつけてくださいね」
その背中を、端を蹴っ飛ばしたくなった。
あれだけ忙しそうにしていたのに、自分のために時間をかけようとしている。最も望んでいたことのはずなのに、素直に喜べない。隣の夕日を見る。徐々に陽炎に沈んでいく。もう一度、クロを見る。
「ん?」
クロの足が止まった。後ろから、上着の裾を掴まれていた。その力は、ほんの少しだけ強かった。
クロはまず、自分の上着を掴む多香音の指先を見る。そこから、ゆっくりと顔を辿った。彼女の胸元には、数束の薬草が握られていた。
「……多香音さん?」
彼女は体を少し斜めに傾け、前髪で目元を隠していた。
「さ、さっきたまたま見つけた。だからもう、へーき」
声が止まる。
「――私の旅はおしまい。でしょ?」
答えを待った。胸がうるさい。風の音がやけに大きく聞こえる。
長い沈黙の後、クロが言った。
「ありがとうございます。多香音さん」
多香音の足が勝手に動いた。靴の先が、少しだけ土を削る。本当に欲しかった言葉は、それじゃない。
それじゃなかった。
◇
それから、不思議な時間が流れた。
クロはせめて川まで見送ると言ったが、後ろを歩く多香音からの返事はない。
沈黙から抜け出せないまま、森の出口へたどり着く。三本の川を辿っていくと、濡れた体を乾かした河原を見かけた。石の上には、あのときの水滴の跡がまだ残っている。
クロが足を止めると、多香音も同じようにする。
「……それでは――」
「ちょっといい?」
ふと、多香音が久方ぶりに口を開いた。クロはそっと、彼女の続きを待つ。
「私のこと、嫌いになった?」
わずかに膝を寄せ、視線を足元に落としながら、彼女は問う。
「ずっと私ばっか喋ってたから、めんどくさかったかなって……」
多香音はクロよりもずっと背丈が高く、歳も上だ。勇猛果敢であり、木や崖を平気で登る。度胸は誰にも負けない。そんな彼女の手が、今までにないほどに小さく見えた。
「……僕は楽しかったですよ。本当に」
クロは本心を話す。
「こんなことになってしまって、ごめんなさい」
今は余裕がなかった。それは、言い訳だ。彼女に対する理解が足りていなかった。
「でも、嘘ついたよ?」
クロは気持ちを曲げず、静かに首を振った。
その嘘は、他者を傷つけるためではない。自分を守るための嘘だ。ある老人の姿が脳裏に過ぎり、鉄の匂いが鼻をかすめる。
「また今度、どこかへ出かけませんか?」
「……いいの?」
次第に彼女の顔が、本来の明るさを取り戻していく。
「僕に余裕ができたら」
自信はなかったが、クロは頷いた。
多香音は何も言わず、いつもの笑顔を見せた。すぐに顔を隠すが、笑みが影から隠し切れていない。やがて、彼女は小指を差し出した。
「じゃあ、約束!」
その指は汚れ、爪の間にも黒い土が詰まっている。しかし、今だけは可憐な女の子の小指に見えた。
「はい。約束です」
クロも指を返す。二人の指切りが、強烈な夕日の光に照らされた。
そのとき、多香音の口元に、悪戯を含んだ笑みが浮かぶ。絡ませたクロの指をぎゅっと握り締めると、勢いよく引き寄せた。
多香音の顔が、クロの視界を埋め尽くす。
「――っ!?」
突然、強烈な揺れが起こった。クロは頭を抱え、とっさに膝をつく。
「ぜったい忘れないで! ぜったいだから! また明日。いや今度!」
聞いたことがないほどに弾んだ彼女の声と、水しぶきが跳ねる音が視界の外から聞こえてくる。
狼狽するクロが顔を上げた頃には、彼女の背中が虫のように小さくなっていた。何をされたか分からない。多分、頭突きされた。
「……行っちゃった」
彼女の背中は森の奥へ消えていき、風のように去っていった。
夕暮れに取り残されたクロは、後ろを振り向く。
この先に、異様な気配を放つ遺跡がある。何が起こるか分からない恐怖の中、クロは力無い覚悟を握りしめ、歩みを進めるのだった。




