第26話 初めての遺跡
二人が遊び終えた後、クロは心の中にユキをしまった。
「精霊だったんだね。びっくりだよ」
大岩の上に腰を下ろし、濡れたシャツの裾を力任せに絞りながら、多香音が言う。
逞しい腕が動くたび、生暖かい水滴が灰色の岩肌に散っていった。彼女は濡れて泥を噛んだ足の裏を適当に払うと、そのまま靴下の中へ無理やり押し込んでしまった。
「もっと遊びたかったのに……だっくしゅっ!」
豪快にくしゃみをし、鼻水をシャツでこすりながら、多香音は悪戯っぽく笑う。
「大丈夫ですか? 戻って体を拭いたほうが……」
「やだ」
鼻息を鳴らし、彼女は岩から地面へ軽やかに飛び乗った。
「めんどくさいもん。濡れたくらいで死にはしないし」
クロの気遣いを意に介さず、多香音は天高く拳を掲げる。
「さっ! 冒険を続けよー!」
もはや、彼女は本来の目的を忘れていた。
クロも旅を続けたいところだが、既に日没が近く、景色はいつの間にか橙色に染まっていた。多香音が進んでいく先には、最初の遺跡がある。その探索で、今日は終わりを迎えるだろう。
「あ、そうそう。奥にさ。変な建物? みたいなのがあるの」
「……何かいたりとかしませんか?」
「えっ?」
妙な問いに、多香音は一度足を止めた。
「まぁ、虫とかはいるよ。あ、そうだった! 珍しい虫を探してたんだったね。そっちの用事もそれなの? おじいちゃんが言ってたやつ」
「そんなところです。遺跡にしか生息していないみたいで」
何とか誤魔化せた。隠し事は本望ではないが、本当の目的を隠したまま、魔族の痕跡を調査できる。
そして、最初の遺跡に辿り着いた。
「……これが、遺跡?」
想定から大それていた。建物という割には、森林で開けた地形に、瓦礫が散乱しているだけだ。唯一形を保っている長方形の柱は地面に埋まっており、大きな影を作っている。
クロは思わず駆け出し、壁に手を触れた。
「何も書かれてない……」
指先に伝わるのは、ただの風化した岩の感触だけだった。
どの壁も同じだ。いくら見返しても、魔族の謎に迫るような痕跡はない。実際に怨霊を発現させたクロでさえ、何も感じ取れなかった。
もし、別の遺跡も同じだったら――。
「大丈夫?」
壁にもたれかかるようにしたクロは、後ろの多香音から心配された。
我に返り、クロは首を振る。
「すみません。なんでもないです」
「変なのー」
疑わしげに口を尖らせながら、多香音は壁の上に乗った。
もう日が落ちる。彼女の赤髪すら見えなくなっていく。遺跡の先には巨大な崖が待ち構えていた。これ以上は進めない。
「……夜ですね。一旦村に戻りましょう」
すると、多香音は腕を組み、悩ましそうに鼻を鳴らした。
「いや! 今日はここで野宿しよう!」
「の、野宿? ちょ、待って」
クロの呼び止めに耳を貸さず、多香音は森林を突き進んだ。
「ずっと燃えそうな枝。どれだろ。よく見えないなぁ」
後を追いかけると、多香音は腰を下ろし、枝を探していた。
「ちっちゃい枝を探してる。こんくらいの」
多香音は指を広げて大きさを示した。暗くて全く見えないのは言えない。
「野宿には焚火がつきものじゃん? よし、手分けして探そ。私はあっちいくから。クロはそっちね。あの変な岩のとこで落ち合お!」
軽快に手を振りながら、彼女は呆気なく常闇へ消えていった。
今度こそ取り残されたクロは、バックの紐を強く握る。
暗い場所は苦手だ。おまけにすぐそばには得体の知れない遺跡がある。
何も見えない常闇を、手を伸ばしながら進んだ。もし急に虫に噛まれたら――そんな妄想で背筋が凍る。魔器の炎で照らすこともできるが、森林に燃え移る可能性がある以上、絶対にできなかった。
「どこだ。ここどこー……」
地面に手を走らせ、必死に枝を探す。
いくつか手頃な枝を見つけるたび、片手に収めた。その動きを繰り返していくにつれ、緊張が和らいでいく。思いのほか、簡単に集まる。とつぜん誰かに襲われるなんてこともなかった。
「ひっ!」
後ろの茂みから、物音がした。
「だ、誰ですか? 多香音さん? そうですよね?」
返事はない。
クロは後退りする。茂みは今も動いており、まるで怯えるクロを誘っているかのようだった。
肌にまとわりつく蒸し暑い空気の中で、冷たい汗が頬を伝い落ちる。爪先を立て、茂みの奥を覗こうとした。
――何かいる。
「ばあっ!」
聞き覚えのある大声と共に、多香音の顔が飛び出した。
クロは小さく悲鳴を漏らし、その場で腰を抜かす。
彼女は満更でもない顔で、茂みから手を突きだす。そこには、溢れんばかりの植物が握られていた。
「見て。きのこ」
あまりにいつも通りの彼女に、クロは文字通り拍子抜けした。
◇
「いやぁ! 大量だね」
多香音は収穫した野菜や木の枝を乱暴に投げ入れる。クロの集めた物を足すと、小盛りの山ができあがった。それを、遺跡に囲まれた地面に集める。
「ちなみに、どうやって火を起こすんですか?」
いざとなれば、魔器の炎を使う。背中の柄へ手を伸ばした瞬間、多香音は不思議そうな様子で言った。
「ん? そんなの決まってるじゃん」
多香音はマッチに火をつけるように指を鳴らす。すると、本当に指先から炎が宿った。
「火なんて魔法で簡単に作れるよ?」
「……そうでした」
当然の事実だったが、クロには無縁の世界だった。
多香音は火種を木々の山に投げ入れる。鮮やかな炎が爆ぜるように立ち上がり、真っ暗な空間を照らした。
彼女は続けて遠隔で火力を操作する。やがて熱源が安定していき、炎が自立を始めると、多香音はそっと支配の糸を解いた。
ファイヤー・クラフト。基本の術を、彼女は当たり前のように熟した。
「あったかいね。枝が全然ないとさ。ずっと火を見なきゃいけないから面倒で」
多香音は近くの石柱に背をもたれ、ぼんやりと炎を見つめる。その向かいでは、クロが小さく背を丸めて座り込んでいた。
「夜ご飯にしよ! もうお腹ぺっこぺこ!」
多香音が集めた植物。そして村長から預かった食材を枝に突き刺し、焚火で炒めた。
料理と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、実際に口にしてみると、存在に腹を満たしてくれた。事代家や学園の豪華な食事とは、また違った味だ。
「空! きらきらだよ」
多香音はかじりかけの野菜を掲げ、夜空を仰いだ。クロもそれに釣られて顔を上げる。
一面に広がる星は、誰にも邪魔されることなく、己の輝きを証明していた。
「私ね。何度か本島に行ったことがあるんだけど」
ふと、多香音が独り言のように語り始めた。
「なんか冷たい目で見られて。私ってそんなに変? って思って」
クロは言葉を呑み、嫌な光景を想像してしまった。彼女の服装は薄着で活動的だが、ゆえに露出も多い。端麗な身なりを好む本島の人間には異質に映ったのかもしれない。
「でもこれだけは言えるんだ。本島なんかよりも、この森から見た星のほうが、ずっと綺麗だから!」
多香音は腕に力を込め、誇らしげに胸を張った。
その横顔を見て、クロの口元にも自然と笑みがこぼれる。
「素敵ですね。ここには光がないから、本当の光が見えてきます」
「……よく分かんないけど、褒めてくれてるんだね!」
「はい。すみません。変なこと言って」
クロは照れくさそうに、そっと後ろ髪を掻く。
すると、多香音は自分の膝の上に顎を埋めた。その瞳には、企みを含むようだった。
「クロも。多分本島の人なんだろうけど、私はいい人だと思うよ」
パチパチ。火花が静かに散る。
「あと五歳上だったら、お嫁さんにしてもよかったかも」
沈黙。クロは言葉が返せず、視線を斜め下へ逸らす。
「……あの」
「え?」
「それだと、僕が女の人になっちゃいます」
「あ」
多香音はそのおかしさに気づき、途端に笑い出した。
「そうじゃん! 変なのー!」
天真爛漫な声が、夜空の果てまで届きそうなほどに響き渡る。
しばらくして、笑い疲れたように石柱に頭を預け、ゆっくりと目を閉じた。
「さっきのは嘘だから、気にしないでね」
ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、悪戯っぽく頬を緩めていた。
「でも、いい人って思ったのは、ほんとだよ」
程なくして、安らかな寝息が聞こえてきた。その足元には平らげた串が散乱している。
クロはそれらを拾い集めて炎の中へ投じると、空になった鞄を毛布代わりに彼女の体へ被せた。
本でも読もうかと思い立ったが、焚き火の勢いは見る間に衰えていき、自分の指先すら見えなくなる。諦めて本を閉じ、他の荷物と共に石柱の上へ置くと、静かに瞼を閉じた。
眠りに落ちる頃には、焚き火は完全に消えていた。




