第25話 ひとやすみ
「これを持っていきなさい」
長老は地図のほかに、様々な用品を詰め込んだ鞄を差し出した。中には怪我を癒やす包帯や水壺、食材などが鮮やかな色彩を放っている。
「……こんなに」
「まだ足りないか?」
「いえ! 十分すぎるほどです」
「ワシは申し訳なく思うよ。これしか用意できんくてな」
重い鞄を受け取ると、クロは玄関へ招かれた。外では掃除を終えた多香音が腰を下ろしており、地面を指でなぞっている。
「これ。行儀が悪い」
「それで、話しって? おじいちゃん」
「村長と呼べ。お主とは血が繋がっておらん」
多香音は立ち上がり、尻についた砂を払う。
「このお方が、お主の薬草探しに付き添ってくれるそうじゃ」
「え! そうなの!?」
多香音の瞳が、弾けるように輝いた。
「少しは話を聞きなさい。そちらのお方は別件で用事がある。互いに助け合うことを心掛けなさい。あまり勝手に振り回さないよう――」
「分かりました! 行くよ!」
村長の言葉を最後まで待つことなく、多香音はクロの手首を掴んだ。
「話は、まだ……」
そう呼び止めようとした頃には、二人は村の境界を越え、森林へ走っていった。長老は長いため息をつきながらも、遠ざかる背中を見届けた。
「ご武運を祈ります」
◇
背中には魔器、左肩には鞄の持ち手を掛け、クロは森林を進んだ。穏やかな風が林間を吹き抜け、木洩れ日が点々と顔を撫でる。
「そういや、そっちの名前聞いてなかったね」
多香音は巨木の根を軽やかに飛び越え、前を向きながら尋ねた。少し考え、クロは下の名前だけを明かす。
「クロって言います」
「ふーん。何歳なの? 私は十七」
「僕は十四歳です」
「なーんだ。私がお姉ちゃんだ」
多香音は何やら残念そうに声を伸ばし、足元の石ころを蹴り飛ばした。
やがて、緑の奥で涼やかな水のせせらぎが聞こえてきた。
「そうだ! 近くに川があるの!」
勢いよく振り向き、彼女が結び合わせた赤髪が弾かれる。
「ねえ。寄り道しようよ。ちょっとだけ!」
「あの、先を急ぎたいので――」
「じゃあ私だけ行ってくる! そっちは薬草探しといて!」
多香音は迷うことなくブーツを脱ぎ捨て、薄汚れた靴下も乱暴に放り投げた。あどけない歓声を上げ、眩い飛沫を散らして川面を駆け抜けていく。豪快に泳ぎ始める彼女を背に、クロは鞄から分厚い本を取り出した。
「森の中にある川。この辺りかな」
地図の紙面から、現実の景色へ視線を巡らせる。
長老から受け取った本には、村から広がる地形が正確に描かったいた。さらに、所々に書き加えられた長方形の記号。おそらく魔族の遺跡を指し示している。ここから最も近い遺跡は、すぐ目と鼻の先だった。
「……どうしよう」
右顧左眄している間にも、川の喧騒は絶えない。
多香音は島のガイドだ。しかし、いつまでも遊びに付き合うわけにはいかない。薬草を早めに見つけて、彼女を村へ帰すべきだろうか。
「ねえ!」
考え事をしていたクロは跳び上がった。多香音が水面に浮かび、気だるげに声を上げた。
「飽きた! 一人だとつまんないよ」
駄々をこねるように水しぶきを上げる。水中に沈み込んでいく体から豊満な双丘が溢れており、顔が隠れていた。
「でも、着替えもないですし。僕は遠慮しておきます」
言葉を濁しながら断った――そのときだった。
太陽の光に淡く照らされる水面を見ていると、今の自分には存在しないはずの好奇心が、胸の奥で蠢き始める。それは実体を持つかのように鮮明な輪郭を作り、やがて自分の足元へ垂れた。
「――ユキ!?」
それが、怨霊の発現であることを、少し遅れて理解した。
「ご主人――」
声を出そうとしたユキの口をとっさに塞ぎ、クロは茂みの奥へと飛び込んだ。
望んでいない。自分が危険に晒されたわけでもない。今までの条件を満たしていないのに、ユキが現れた。
「ねえ。今の誰?」
彼女には姿を見られていないが、声を聞かれた。
「え、えっと……」
「誰かいるの? 私も混ぜろ!」
言い訳を模索する頃には、多香音は川の水を蹴立てるように進む。
「ユキ――」
戻って。そう伝えようとした声が途絶えた。
ユキは体をよじらせ、うめき声を上げた。遊びたい。そんな空耳すら聞こえる。
その瞬間だけ、ユキは自分に忠実な怨霊ではなく、本当の子供と思い込んでしまった。ユキは怨霊。他者に危害を加えるかもしれない。
「え、何その子!」
見つかった。クロは強く目を瞑る。
「めっちゃ可愛い!」
「……え?」
クロは予想外の歓声に毒気を抜かれ、ユキの口から手を離す。彼女は目を輝かせ、茂みからユキを覗き込んでいる。
「うちの村の子じゃないよね? ドレスちょー綺麗!」
「な、なんとも思わないんですか?」
「思うよ! だってこんなかわいい子初めて見たもん」
ユキは全ての人間に害を与えるわけではない。憎しみの塊に恐れる者もいれば、一人の人間として素知らぬ様子で関わる者もいる。彼女は後者だった。
「その子なら、一緒に遊んでもいいでしょ?」
クロが返事をするより早く、ユキが手を伸ばした。
「やったぁ! そういうの大好き」
多香音は茂みに手を差し入れ、ユキの小さな手をぎゅっと握った。川辺に誘われたユキは、すぐに多香音の水しぶきを食らう。その瞬間を目の当たりにしたクロは、短く悲鳴を漏らす。
「もし敵だって勘違いしたら――」
不意打ちを受け、唖然とするユキ。彼女は次第に弾けるような笑い声をあげた。小さな手を懸命に振り、多香音に精一杯の飛沫を返す。
「ちょ! 目に入った! タンマ! もーっ! やったな!」
腕を掲げて防御した多香音は、そのまま両腕を川底へ沈ませ、豪快に身を跳ね上げた。ユキは声を上げて岩肌に尻をつく。純白のドレスが肌に張り付くのも構わず、何度も水しぶきをかけ合った。
二人は虹色の光を放ちながら宙を舞う飛沫の中で、無邪気に走り回った。足を取られて転んでも、ユキはすぐに立ち上がった。ユキの渾身の体当たりを受け止めた多香音は、笑い転げながら背中から川面に飛び込む。
天を仰ぐ二人の笑い声が、初夏の青空へ吸い込まれていった。
◇
二人の睦まじい様子を、クロは彼方から呆然と眺めていた。まるで、知らない人を見ているようだった。
ユキは自分の負の感情が具現化した少女。いわばもう一人の自分だ。
しかし、これまでの彼女の言動は、とても憎悪から生まれたとは思えなかった。楽しいことには迷わず飛び込み、驚くほどに素直な感情をあらわにする。初めて出会ったときも、ベッドの上ではしゃいでいた。
別の人格。だが、自分にはない感情を持っている。
「……でも」
それは、悪いことばかりではなかった。
怨霊と恐れられてきたユキが、ひとりの人間として対等に触れ合っている。心の底から楽しそうなユキの笑顔や、そのきっかけを作ってくれた多香音を眺めていると、言葉にならない感謝がこみ上げてきた。
ユキが自ら手を伸ばしたのも、遊びたいという純粋な願いからだったかもしれない。
クロは川沿いの石肌に腰を下ろし、分厚い本を開く。次の目的を考えている間にも、二人の楽しそうな声はずっと続いていた。




