第19話 小さな泥棒
港から船の汽笛が重たく響き渡る。なんとか出航に間に合ったクロは、係に銅貨を支払い、カルミア島行きの便へ乗り込んだ。
大雨で湿った木板の席に、クロはうろたえながら腰を下ろす。
『そんなの分かりませんよ。ちゃんと話してみないと』
脳裏に過ぎる言葉と、少し崩れた菓子の包み袋を握りしめた。
客船が鈍い音と共に動き始める。それからしばらくして、雨水を含んだ霧の向こうから島が見えてきた。
本島を取り囲む七つの島。その一つである北のカルミア島は、山脈に恵まれた鉱石貿易の要だ。
港にも数多くの貿易船が並んでおり、港灯が夜の闇に輝いている。
接岸の衝撃と共に、クロは弾かれたように立ち上がった。
――その瞬間、何かが目の前を通り過ぎた。
「……え? なに!?」
つい先ほどまで握りしめていたはずの菓子の包みが、手のひらから消えていた。
影が消えた先を辿ると、人々の足元をすり抜けていく見覚えのある尻尾が目に飛び込んだ。
本島の路地で見かけた猫だ。
いつの間にか、客船に忍び込んでいたらしい。
「ちょっと、待って!」
クロは港へ駆け出す。
道路を駆け抜ける小さな影は、そのまま島の奥を目指していた。
わずかな躊躇の後、クロもその後を追いかける。
猫が姿をくらましたのは、港に隣接する深い森林だ。地面を踏み込むたび、染み込んだ雨水が滲み出てくる。
菓子くらいなら譲ってもいい。
だが、なぜ奪ったのか気になった。わざわざ本島から他島にかけてまで物を盗んだのには、何か理由があるはずだ。
必死に足を動かすが、猫の足には追いつけない。
やがて、猫を見失ってしまった。
「そういえば――」
『彼の作業場はカルミア島。港付近の森林にある』
肩で息をしながら、学長の言葉を思い出す。
「……まさか」
一人呟き、暗い森の奥を見据えた。
それから辺りを見渡しても、魔器の工房らしき建物は窺えない。視界に広がるのは、冷たい雨に打たれ、どこまでも延々と続く黒い樹木の列だけだ。不安を抱きながら、クロは再び足を動かした。
その途中、船内での出来事を思い返す。
一瞬だけ姿が見えた。あの猫は、首元に黒い布袋をぶら下げていたのだ。
走る拍子にそれが床にぶつかるたび、ごつごつと重たい音を立てた。菓子を盗む前から、すでに何かを運んでいた。
あれも、どこかで盗んだものなのだろうか。
「――やっぱりダメだ。放っておけない」
予感という名の衝動に駆られ、クロは猫の行方を捜し直した。
粘着する泥に、足を奪われる。ふと、クロは上げた足元を覗き込んだ。踏み込んだ泥は、雨水を小さく流しながらくぼんでいる。
猫の足跡もあるはずだ。
木々の葉からわずかに伸びる月明りを頼りに、地面に目を凝らす。
「……これかな」
見つけたのは、点々と続く無数の穴だった。自分の歩調よりも遥かに狭い間隔。猫の足跡で間違いなかったが、途中で途切れている。
足跡は曲がっていた。茂みを開いてみると、複雑に絡み合った草木の下に、同じような痕跡が続いている。
これまでは開けた林道にいたが、ここから先は奥の景色すらままならない。
クロは意を決し、草木を掻き分けながら進む。
「いだっ!」
押しのけようとした枝が弾かれ、顔面に直撃する。
険しい密林を強引に押し進むと、次第に巨大な影が見えてきた。
「……建物?」
何の変哲もない森奥に、木造の建物が物寂しく孤立していた。
扉の脇には、球体がぶら下げられていた。ランタンのように見えるが、見慣れない形状をしている。
火は消されているが、手を触れてみると、かすかに温度が感じられた。消灯されてから、まだ時間が経過していない可能性がある。
この建物が、片繰という鍛冶の家なのだろうか。
「ごめんください。こちら、片繰さんのお宅ですか?」
扉を叩く。しかし、返答はなかった。
その後も、何度か扉を叩いてみるが、結果は変わらない。不本意ながら扉を開こうとするが、中から施錠されていた。
「そういえば、あの猫は?」
猫の足跡は、建物の外周を沿うように続いていた。建物に気を取られていたクロは、猫の捜索に戻る。
建物の裏に出ると、不自然な壁を見つけた。一か所だけ、のこぎりで雑に切り落としたような窓がある。
外付けされた板を開くと、中の埃が外へ溢れ出した。
「くっしゅん。ここから、中に入れる」
鼻をこすりながら、どうしようかと迷った。穴の奥へ進めば、不法侵入と疑われる。争いに発展するのは避けたい。
あの猫は、この建物の持ち主に飼われているのだろうか。それとも、主の不在をいいことに、空き家を住処にしているだけなのか。
少なくとも、穴から覗く室内には、人の気配はしない。
クロは再び、穴へ向かって声を上げた。
「すみません。片繰さん、いますか? 御用があって来たんです。何も答えがなかったら、入らせてもらってもいいですか?」
やはり、返答はなかった。
不躾であることは理解している。しかし、目的を果たさなければ、先に進めない。クロは先に両腕を入れ、身をよじらせながら狭い穴を潜り抜けた。
「ひっ!」
無理に抜け出そうとしたからか、板が軋み、木くずが落ちた。
「やっちゃった」
不法侵入に加え、器物損壊まで重ねてしまった。
どう打ち明ければいいか悩みながらも、クロは室内に入り切る。
倉庫のようだった。埃が積もっており、外の光だけが窓から差し掛かっている。長らく使われていないように受け取れた。
本当に人がいるのか疑わしくなる。
しかし、窓枠には金具が厳重に取り付けられていた。何度か自分で破壊した形跡もある。よほどのことがない限り、内側からでも施錠を外す気はないようだ。
棚には見たこともないような部品が収納されている。
クロは足音を潜めながら、廊下に出た。
玄関が見える。靴が並べられているが、やはり埃をかぶっていた。
(ずっと外に出ていないのかな……)
頼りない推察を重ねながら、室内を探索する。
しかし、枝分かれした部屋には、同じように部品が散りばめられていた。人が暮らしていた痕跡はとうに消え、魔器を開発できる設備もない。
本当に空き家のように感じられた。
ただ、地下へ続く階段を除いて。
「……これは――」
最初は気づけなかった。玄関とは反対側の通路を突き当たると、下へ続く階段が隠されていた。
底が見えず、奥深くまで続いている。どこか熱を帯びた冷気が、ゆるやかに吹き上がっていた。
クロは足を降ろし、恐る恐る階段を降りていく。
その最中、不意に足を止めた。
学長は、片繰から魔器を譲られるための交渉をするように言った。しかし、クロは片繰がどんな人物かも知らない。本当に大人しく交渉に応じてくれるのかすら。
もし、仮にの話だ。
片繰と戦うことになったら、クロは立ち向かえる自信がない。
『ちゃんと話してみないと』
手すりを掴んだ指に力を込め、ごくりと喉を鳴らした。
まずは、話ができないか試してみる。




