第1話 かりそめの日常
赤子が捨てられた。
それは、この世界でも珍しいことだった。深い森の奥に見つかった少年は、孤児院でクロと名付けられた。そこでは、素性が不明な子供に色の名を与える習慣がある。
「これより、私がお前たちの親だ」
事代家と呼ばれる貴族は、クロを含む有数の捨て子をすべて買収した。
子どもが捨てられる理由は、魔法に通ずる障害にある。事代家の当主は優れた魔導士であり、彼の教育によって子どもたちの障害は克服されていった。
無為体であるクロだけが、その例外だった。
◇
それは、まだ幸せな日常があった頃。
小鳥がさえずり、目覚まし時計が朝の訪れを告げる。
事代家の広大な屋敷の一角にて、クロは目を覚ました。今年で十五歳になる彼は、半端に伸びた髪を掻き上げ、一人きりのベッドから身を乗り出す。
左肩に鞄をかけ、薄暗い玄関へ向かった。
「クロ様。おはようございます」
後ろから凛々しい声がかかる。
クロは安堵の息を吐き、振り返った。
「おはよう。ビオラ」
そこにいたのは、クロの専属メイドであるビオラだった。
落ち着いた黄色の髪を右肩へ流し、白黒のメイド服を身に包んでいる。そのか弱い手には、使い古された箒が握られていた。
「もう学園へ出発ですか。本日も早いですね。尊敬いたします」
「そんな。ビオラだって凄いよ。誰よりも早く仕事してるんだから」
「……女中として当然のことをしているだけです」
何気ない様子で言うと、ビオラは整った足音を立てる。
「ところで、朝食はまだですか?」
「食べてないよ。僕が早く出るから……」
彼女に向けている笑顔は、きっと引き攣っているだろう。
すると、ビオラはエプロンの懐に手を添え、小さな布袋を取り出した。包みを丁寧に広げると、小ぶりのパンが顔を出す。小麦粉の甘い香りが漂った。
「これだけのものしか用意できず、申し訳ありません」
「そんな、本当にいいの? 僕がこれを食べるべきじゃ……」
「構いません。朝食は大切ですから」
指先を引こうとしたクロだが、彼女の善意に応えることにした。
「……ビオラ。ありがと――」
ごうぅ。
腹の虫の鳴き声が、クロの感謝を遮った。
ビオラは耳を赤くし、華奢な体を縮こませる。
「……申し訳ございません」
「半分にしよう。ビオラも食べないと」
「いけません。私のことはお気にならさず」
「朝食は大切、でしょ?」
口を動かしながら、クロはパンを割り、一つを彼女へ差し出した。
ビオラは観念したように目を瞑ると、箒を胸に預け、両手で受けとる。
「……ありがとうございます」
「うん。行ってくるね」
重厚な扉を開き、クロは小さく手を振った。
『ビオラだって凄いよ。誰よりも早く仕事してるんだから』
庭園の石畳を歩く中、先ほどの言葉が胃の中で反響する。
逃げてばかりの自分とは違って――。
そんな本音を喉の奥へ押し込み、クロは立派な正門を横切った。
正門から続く丘の坂を下り、クロは物静かな港町を歩く。まだ誰もいない町で、誰かに睨まれている気配がする。肌を摩り、船着き場へ急いだ。
橋の前に立っている船員へ銅貨を差し出し、クロは客船へ乗る。
やがて、船首が水面を削りながら進み始めた。
内海の向こうでは、朝の霧に覆われた巨大な島が浮かび上がっている。
あれは、フリージア島だ。本島と呼ばれている。
この国は本島を中心とし、七つの島に取り囲まれている。事代家の屋敷があるベロニカ島も、その群島の一部だ。本島には、クロが通う学園がある。
本島へ到着すると、クロは港の門を潜った。
「行ってらっしゃい! パパ!」
「今日は早めに帰ってくるよ」
港町での微笑ましい会話に、ないものねだりの視線を向けてしまう。
近頃は祭事が多く、街はどこも活気に満ち溢れている。本島に足を踏み入れたクロは、船から路面電車へ乗り継ぐ。
終点に降り、その門前に立った。
学園は視界に収まらないほど広大であり、峻烈な城壁に囲まれている。正門に繋がった監視塔では、政府の人間が常駐し、中には箒に乗って飛行していた。
巨大な校門を越え、石垣の橋を渡った先では、中庭が広がった。通路の石柱に囲まれ、多彩な生徒が行き交っている。中には魔導書を片手に果物を焼いたり、水流を宙に泳がせて遊んでいたりする生徒もいる。
無数の生徒が織りなす学園の生活は、常に魔法と隣り合わせだった。
――自分には無縁の光景だ。
「ようクロ」
「今日も早いわね。私らもだけど」
教室に辿り着くと、いつもの二人が出迎えてくれた。
自分の机に鞄を置きながら、クロは声をかける。
「なんだか元気ないね」
「当然だろ。だって今日は成績が配られるんだぞ?」
前の席で項垂れている男子は、久土竜胆。
「学校に来てからずっとこの調子なの」
その隣で、冷真美琴という女子が余裕のある笑みを浮かべた。
「まあ、私はどうってことないけどね」
「嘘つけ。お前だって昨日まで心配したてろ」
「考えたんだけど、私は実技が優秀だから。あんたと違ってね」
「言ったな!」
二人の言い争いが激しくなり、クロはすかさず止めに入った。
「きっと、いい点が取れるよ」
そのとき、教室の扉が勢いよく開かれ、小柄な女子が駆け寄ってきた。
「やっと見つけた! クロくん。ちょっといいかな」
現れたのは、千鳥晃という友人だ。
「どうしたの?」
「それが、学校に宿題忘れちゃって。それでね?」
わずかに息を乱しながら、晃は手帳を広げる。
「急いでやったんだけど、ここらへんの問題が分からなくて」
ページには晃の文字が乱雑に並び、至る所に墨を削ったカスがこべりついていた。微笑ましい光景と思ってしまう中、晃はある問題を小さな指で差した。蝋燭の扱いに関する問題だ。
『点火する際に、気をつけることを述べよ』
「そうだね。最初は火力の低い炎を蝋燭に付けて、後から遠隔で強める――というのはどうかな? いきなり強い火を当てちゃうと、芯が持たないから」
「そっか! 書いてみる。ありがとう!」
晃は手帳を掲げると、一目散に自分の机へ戻っていった。
「……余計に不安になってきたわ。流石ね」
「俺も鼻が高いよ。なあ?」
美琴の横から、竜胆が肩を叩いてくる。
「た、大したことないよ」
二人の大げさな反応に困りながらも、自然と笑みがこぼれた。
それから、他愛もない会話が続いていく。環境に虐げられる苦しみも、無為体である現実も、この瞬間だけは忘れられる。永遠に続いてほしい。そう思うほどに。
友人との暮らしは、クロにとって心置きなく過ごせる居場所だった。
――この時までは。




