第16話 心境一体の界
「どうしたのかね。来ないのか?」
天と地の境目が存在しない虚構の境地で、学長が語り掛ける。結界に取り込まれたクロは、遠く離れた彼と向き合った。
「動揺するのも無理はない。私から説明しよう。この結界には実体がなく、意識しか存在しない。しかし、ここでの影響は現世にも反映される。空想の世界だと侮らないことだ」
つまり、現実のように痛みを感じ、同じようにユキも現れる。
「私も容赦はしない」
数多に枝分かれした杖の先端を、クロへ突きつけた。
クロが後退りした途端、その足元が揺らぐ。次第にクロの立っている地形そのものが、波打つように大きく変形した。勢いは止まらず、扇を描いた地形は、持ち上げたクロを振り落とした。
「手始めに、君を転がす」
「うっ……くうっ!」
クロは空中で暴れ回る。必死の抵抗も虚しく終わり、地上へ叩きつけられた。右腕に痛みが走り、実体を伴う衝撃が現世へ送られる。
激痛が駆け巡り、心音が高鳴った。
ユキは、まだ出てこない。
「結界は私の思うがままに形を変えられる」
言葉を証明するが如く、クロの倒れている地形が浮き上がった。弾き飛ばした長方形の柱は、そのままクロを目がけて倒れる。
水を掻き分けるように動き、クロは寸前で難を逃れた。
しかし、よそ見していたクロは、前方から突き上がった新たな角柱に突き飛ばされる。
再び倒れ込んだ指先から、影が泡立った。
「ふむ。光の届かない世界で、影ができるはずなかろう」
クロは震える顎を上げ、遠くに見える学長を捉えた。
このままでは翻弄される。ユキを完全に制御できる自信がない。今も彼女は、支配を突き破ろうとしている。発現も時間の問題だ。
彼は肌身離さず杖を構えている。結界を構築するとき、その杖を振り回していた。あれを無力化すれば、窮地を脱せるかもしれない。
本来の検証は果たせない。
だが、怨霊を発現する前に、その要因を解消すれば、学長にも認められるかもしれない。
「こちらへ向かってくるか」
半ばの覚悟を決め、クロは駆け出した。
やがて、学長の姿が消えた。自分の視界が傾いている。クロを乗せた地形が上昇したのだ。足を速めても速度に追いつけず、ついには爪先が離れてしまう。
落下するクロを目がけ、地上から有数の角柱が突き出した。
口を苦める。間一髪で回避した。
クロは角柱に手を伸ばし、しがみついた。落下の衝撃を防ごうとしたが、掴んだ柱の面から更に別の柱が突き出し、腹部を強打する。地上へ弾き飛ばされ、クロは蠢いた。
痛みを受けた場所から、怨念が毒のように広がる。
「ユキ! 堪えて!」
「耐えるのは君のほうだ」
その言葉に、クロは目を剥く。
「他力本願では、何の証明にもならない!」
彼の視線が、未熟な心を打ち砕いた。
ユキを止めることに必死だった。しかし、言葉で服従させようとした。それは、これまでもそうだった。暴走の責任は自分にある。ユキに罪はない。そう決めたはずなのに。
罪を押し付けているのは――。
「休憩は与えていないぞ」
答えを出すより先に、鞭のような地形を叩きつけられた。焼けるような痛みが走る。地形から別の鞭が浮かび上がり、絶え間なくクロの体を痛めつけた。
立ち上がろうとしても、体が弾かれる。
何もできない。自分が無力なせいで――。
頭を使え。
誰かの声か。あるいはかつての記憶か。思考が蘇り、クロは一か八かの行動に出る。自分の背中を叩きつけた鞭に、手を伸ばした。鞭を振り上げた勢いで、クロの体が投げ飛ばされる。
落下した先に、学長が構えている。
彼は危機を悟り、クロの足元に角柱を生やした。天まで伸びていく柱の数々を、クロは掻い潜るようにして回避する。途中、顎に激突して意識が揺らぐが、気合で堪えた。
そして、学長の間合いまで踏み込んだ。
手を伸ばす。学長の杖に届く寸前で、指先が止まった。
「……っう!」
「杖を狙っていたのか。怨霊を制御する自信がないのかね」
あと少しのところで、クロは双方から伸びた地形に挟まれた。学長から引き離され、遠くの地形まで投げ飛ばされる。
縮めようのない距離が、再び互いを分けた。
「今の私に打ち勝ったところで、何を証明できる。守るべき生徒を相手に、本気で殺しにかかるとでも思っているのか?」
クロは殴るようにして、怯懦に震える体を起こそうとする。
内側から砕こうとするように、ユキが暴れ回っている。
死力を尽くして、その衝動を止める。
しかし、無数に伸びる柱が、中心にいるクロを取り囲んだ。まるで弱り切った獲物をじわじわと追い詰めるように迫ってくる。
逃げ場がない。体も動かせない。
怖い。もう耐えられない。
――怨霊の気配。
「……検証は、ここまでのようだな」
傷ついたクロの指先を伝うように、影が伸びた。
銀月のような長い髪が、頼りないクロの視界で揺らぐ。
「あれが、彼の怨霊か」
遠くからその気配を窺い、学長は低く呟いた。自身が増やした無数の柱に阻まれ、その姿は直視できない。だが、遮蔽されてなお、肌を刺すような憎悪の波動が伝わってくる。
皮肉にも懐かしかった。
「……これは、仕方のないことだ。事代クロ」
年端もいかない生徒が、これほど強大な憎しみを孕んだ。それは、全ての生徒を導く者として逃れようのない罪責だった。
それでも、怨霊を御するなど、真夏に雪が降るようなもの。
学長は自分の知らない歴史を辿るだけではない。実際に怨霊を発現した者たちを幾人も目撃してきた。憎悪に侵された人間の醜悪さ。次第に珍しいとも思わなくなった。
怨霊を制御する。初めから、不可能だと悟っていたのだ。
「君のせいではない。どうか、自分を責めないでくれ」
怨霊の力を発揮した瞬間、結界を自ら崩壊させる。
彼の覚悟の最後を、見届けようとした。
「……ユキ」
彼女は頬を膨らませていた。自分を虐げる脅威を消し去るために、あらゆるものを破壊する音波を放とうとしている。
怨霊を抑え切れなかった。
無理かもしれない。そう思っていても、諦められなかった。
それでも、止められなかった。
『他力本願では、何の証明にもならんぞ』
――クロは手を伸ばした。
その先にいる怨霊を、自分の胸に抱き留めた。
全てを破壊する波動が、結界に響く。
――はずだった。
「……何も起こらない。なぜだ」
怨霊の力は、確かに行使された。しかし、クロを取り囲んでいる柱は破壊されていない。力も弱く感じられた。
「ご主人、様?」
無数にそそり立つ角柱の奥から、幼い少女の声が落ちる。次いで、クロの押し殺すような悲鳴が漏れ聞こえた。極小さい糸のように鼓膜を伝う声は、今にも消え入りそうだった。
「彼は何をした」
確かめるべく、学長は柱の密度を低下させた。
「……そんな馬鹿な」
その凄絶な姿から、一瞬たりとも目が離せなくなった。
前を向いたクロは、胸が剥き出しになっており、焼き焦げていた。怨霊の波動を、自ら身代わりになったのだ。そのことを理解した学長は、恐怖すら覚える。
「何をしているんだ。正気の沙汰ではない」
力の影響は少ない。表面を焼くだけに留まっていた。
しかし、怨霊の力が弱まっていなければ、臓器もろとも消し飛んでいても不思議ではない。影響は現世にもそのまま作用する。
「……ありがとう。ユキ」
呆然と立ち尽くすユキの頭を、クロはそっと撫でた。
「もう大丈夫だよ」
その言葉に、ユキは影に落とされた。
取り残されたクロは、今にも崩れそうな足を動かし、学長へ歩み寄る。
「ごめんなさい。ユキを抑えられなかったです」
「それどころではない!」
学長は手を振り払う。
「ユキを、許してください。悪いのは僕なんです」
「だから、怨霊の力を自分で受け入れるとでも言うのか?」
その選択は、理に適っていない。
「ユキを救うためなら――」
クロの足が止まり、その場で跪いた。
再び立ち上がることがない。限界を迎えていた。
「……なぜ、そこまでする?」
隠し続けていた疑問が、そこで初めて漏れ出した。
過酷な試練を乗り越えたところで、怨霊が浄化できるとも限らない。自分を犠牲にしてまで、立ち向かおうとする意思がどこから湧いてくるのか。見当もつかなかった。
「だって、人が傷つくのは嫌ですから」
力無い笑みを残し、クロの意識は途絶えるのだった。
学長は深く息を吐き、眼前で死にかけている生徒を前にした。
怨霊を制御する。その検証の答えとして差し出したのは、受け入れることだった。膨大な力を抑え込めないことを認め、自分を犠牲にした。
これまで、その決断に至る反逆者は、一人もいなかった。
彼になら――。
学長は肌身離さず握っていた杖を、自ら手放した。
そして、結界は崩壊した。




