第15話 秤の丁々発止
「それを見つけるとは。侮ってはいけないようだな」
手帳を開こうとした瞬間、後ろから声がする。
振り向いた瞬間、扉が閉ざされる音が響いた。
「ふむ。怨霊も出しているとはね。いささか残念に思うよ」
「……学長」
自分の脱走が、学長に発覚されていた。
「私の書いたものだ。すぐに返してもらうよ」
学長は手にした杖を床に叩きつけた。硬い石床に響く音が、峻烈な気迫となってクロを襲った。クロは気圧され、足が後ずさる。
そのとき、クロを守るようにユキが前へ駆け出した。
「……しまってくれないか?」
言われずとも、そうするつもりだった。ユキを戦いに巻き込めば、凄惨な結末を招くことは容易に想像がつく。
「……ユキ、戻って」
幸いにも声は届き、ユキは影となって姿を溶け込ませた。
「牢の鍵を破壊したようだな。君の経歴からあり得ないと思い込んでいたが、監視が甘かった。手足でも縛っておくべきだったよ」
「ま、待ってください」
クロは手を差し向ける。
「僕はこれから、殺されるんですか? 今までみたいに」
「その記録すら見たのか」
学長は呆れ果てるように、冷え切った吐息を漏らした。
「なら君も理解できたろう。怨霊の脅威が」
過去に発現された怨霊は、例外なく誰かを死に至らしめていた。
しかし、納得してはいけない。今までのように殺しても、それは何の解決にもならない。怨霊に罪はないのだから。
「……殺す以外の選択肢はないんですか?」
「どの立場で言っている? 君はすでに過去の反逆者と同じ道筋を辿りかけている。脱出の手段に怨霊の力を行使した」
「それは、ごめんなさい。逃げた罪は認めます」
鍵を壊したのはユキだが、望んだのは自分だ。
「でも諦めたくなくて。ユキは、僕の感情から生まれたから」
「他に方法はない」
確かな声が、断罪のように響く。
「怨霊の真相は、この長い年月の中でも解明されなかった。惨劇を防ぐための手段は、一殺多生。それ以外に術はない」
「それでも、僕はユキを……」
何も言い返せなかった。殺すのは間違っている。その確信も、彼の前では無力だ。現にユキが人を殺めかけた瞬間もあった。自分たちだけが例外だと言い切れる保証は、どこにもない。
「君は何がしたかった?」
うつむくクロに、学長は問う。
「牢屋を脱走し、地下に来てまで。その目的は何かね」
「……知らないといけないって、思ったからです。ユキに罪はない。殺す以外の、ユキを救う方法を探したかったから――」
ユキを救う方法。そう口にした途端、ある結論に辿り着く。
救いだ。死ではなく、怨霊の脅威を消し去る方法。
そもそも、抹消することが間違っている。
「学長。僕は――」
怨霊を、浄化したいです。
「……だから言ったろう。他に術はない」
「なら、これは?」
クロは彼が綴った手帳を差し出した。
表紙には、怨霊と魔族の関係性という題字が記されている。
「何か関係があるんですか?」
「質問に答える義理はない」
「魔族のことを知れば、浄化の方法も分かりますか?」
クロは踏み込み、学長へ迫った。
「もしそうなら、僕は行きたいです」
「魔族の謎を追うと?」
力強く頷いた。
それは、かつて人類と敵対していた種族。魔族は膨大な力を持ち、群島を占拠していたが、ある英雄の力によって、半世紀前に封印された。歴史書にも著しく記録されている。
「……怨霊の持つ力は、かつて魔族が振るった力と酷似していた。その調査記録が、君が持っている手帳だ。私もかつては魔族の謎を追っていたよ」
「なら――」
「ぬか喜びをする前に言わせてもらう」
学長の声が一段と低くなる。
「魔族が封印された後、我々は奴らの痕跡に調査を尽くした。魔族や怨霊の真相が分からないという結論は、その末に出されたんだ」
「でも、自分の目で確かめたいです」
「そのために、世界を滅ぼすリスクを野放しにしろと言うのかね」
喉を射抜かれたように、声が出なくなる。
怨霊を浄化できれば、誰も傷つかずに済み、ユキも救える。しかし、その過程で誰かを傷つける可能性も否定できなかった。
「確かに、君にしか分からないことがあるかもしれない。だが、私は大人だ。可能性に国家や人命を賭すことはできない」
深く息を吐く。逆にクロを説得するような口調になった。
「人を傷つけるのは、君も本望ではないはずだ」
「……ユキは、自分から人を傷つけません」
「ほう?」
今までユキが発現したのは、クロが危険に晒された場面だけだった。誰も危害を加えようとしない商店街では、ユキは他の人と触れ合うことを楽しんでいたのだ。
その光景を、クロは陰から目に焼き付けていた。
「ユキが暴走するのは、僕の身が危なくなったときだけです」
「……確かに、怨霊による人命の被害はなかった」
会議の報告でも明かされた事実だ。
「偶然だったらどうする。それに、君を襲った人間も殺すつもりはなかった。そんな彼らが、怨霊に殺されそうになった」
学長も後には引かない。
「君は状況を問わず、怨霊の無害を証明しなければならない」
「どうすれば、証明できますか?」
選択を委ねると、学長は沈黙した。
クロは答えを待つことしかできない。
やがて、彼は告げる。
「私と戦え」
反射で吸った息の圧が喉を伝い、肺を埋め尽くした。
「自分の身が危険になった場合のみ現れると言ったな。ならば、私が同じ条件を再現しよう。その中で怨霊の制御を遂行できれば、君のことを試してみてもいい」
学長は白い手袋を外し、杖を構え直す。
「安心したまえ。仮に暴走しても、私が責任を持って止めるよ」
しかし、その時点でクロの信頼は地に落ちる。
この提案は受け入れられない。失敗は許されず、これまでユキを制御できた試しもない。後戻りの選択を潰すように、学長は杖を叩きつけた。
彼の魔法は、クロも知らない。
何が飛んでくる。
「――クラウド・クラフト」
心境一体の界。
身構えていたクロは、衝撃に飲み込まれた。足元の感覚が消え失せる。しかし、地面に穴は開いていない。意識そのものが自分の肉体から引き剥がされ、どこかへ導かれる。
辿り着いた終着点は、無垢の境地だった。
「……ここは?」
「私の結界だ」
遠くから語り掛けたのは、学長だった。
「きたまえ。君の意思を、行動で示してみろ」
彼が魔法で創るのは、空間だった。




