第13話 もう一人の自分
悪魔に魘されているかのように苦しみ、クロはやがて目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、天井に吊るされ、まるで自分を監視しているかのようなランタンの光。指先には硬い生地の感触が伝わった。クロは簡素なベッドに横たわり、狭い空間に閉じ込められていた。
クロは上体を起こそうと試みるが、鋭い痺れに遮られた。あの男から浴びせられた悍ましい電撃の残滓が、今でも肉体を蝕み続けていた。
「ようやく目覚めたようだな」
そのとき、気品を感じさせる年老いた声が響いた。
「もうじき意識が戻ると踏んでいたが、的中のようだ」
声の主を探そうと視線を巡らせた矢先、太く頑丈な鉄格子が立ちはだかっていた。
格子の向こうには、粛然たる衣装を身にまとった老紳士が佇んでいる。そして、傍らには抜き身の槍を構えた二人の衛兵が、警戒の眼差しを刺していた。
「……あの、ここはどこですか?」
「学園の地下だ」
即答だったが、学園に地下があることは初耳だ。
「君がこの地へ来てから、丸一日が過ぎている。君に事実を伝えるべく赴いた」
「もしかして、学長ですか?」
「いかにも」
クロも覚えのないはずもなかった。式典の壇上などで何度も目にした人物だ。
彼の名は、常盤真史という。
「結論から話そう。君の処分は延期となったぞ」
「……処分?」
不穏な響きを、クロは繰り返した。なぜ学園の地下に閉じ込められ、断罪を告げられたのか。契機が掴めず、記憶の断片を必死に繋ぎ合わせる。
大切な人の姿が、脳裏に焼き付けられた。
「――ビオラは! 彼女は大丈夫なんですか!?」
「あの金髪の娘なら、病院で療養している。命に別状はないようだ」
それを聞いた瞬間、クロは肺の空気をすべて吐き出した。
安堵を遮るように、真史は磨かれた靴底を叩き付ける。
「他人の心配をしている暇はないぞ。事代クロ。政府では君の生死が揺らいでいる」
「それはまた、どうしてですか?」
「君が世界の理に背いたからだ」
理への背信。それは、かつて義姉も口にしていた言葉だった。
「僕が、生命を創ってしまったから」
「――違う」
真史の冷徹な一喝に、クロは弾かれたように顔を上げる。
ユキは生命ではない。学長は確かにそう言った。しかし、ユキに共通する理に反する行為など、他に思い当たらない。少なくとも、自分の知る限りでは。
「君たちは下がってよい」
真史が短く手を振ると、傍らの衛兵たちは一礼し、大急ぎで回廊を抜けた。騒々しい足音が反響し、扉を閉ざす重厚な音を最後に、地下は完全な静寂に包まれる。
ただ、真史の視線が逃げ場を潰した。
「本当に何も知らないのだな」
「何のことだか、さっぱり分かりません」
「その少女は、魔材によって創られたものではない」
思考が止まり、クロは唖然とした声を漏らす。
クロは無為体から脱却していなかったのだ。しかし、理解を越えていた。魔材を使わずに新たな存在を創造するなど、この世界の常識では考えられない。
「なら、ユキの正体は一体何なんですか」
「……怨霊だ」
禍々しい言葉が、頭の奥で反響する。
「これは未だ仮説の域だがね。君が内奥に抱いていた負の感情が、ひとつの少女の形を取って、肉体から引き剥がされたんだ。君にも心当たりがあるだろう」
確信を射抜かれ、クロは押し黙るしかなかった。
ユキと出会った夜、クロの心は確かに壊れかけていた。失った日常を取り戻したいという狂おしいほどの願望。そこから、ユキという少女は生まれたのだ。
「じゃあ、ユキは――」
もう一人の自分だ。
その恐ろしい真実が、心臓の裏を伝った。
「怨霊の発現。それ自体が、世界を敵に回した反逆者である証明だ。いつ処刑の沙汰が下されても不思議ではない。今は自分の無実を証明することに専念したまえ」
言葉を残すと、真史は背を向ける。
「しばらくは地下で暮らしてもらう。私からは以上だ」
去り行く足音も、すぐに消えていった。
地上へ続く扉が閉ざされ、静寂が戻る。しかし、クロの脳内は喧騒が止まらなかった。凍てつくような孤独の中、ベッドの上で小さくうずくまる。
誰かに認められたい。幸せを取り戻したい。
そんな願いから生まれた霊が、他者の日常を奪ってしまった。
あの幼く可憐な少女が、自分の憎しみから生まれたことを受け入れられない。あらゆるものを消し飛ばす脅威は、密かに自分の中に秘めていたのだ。
『いつ処刑の沙汰が下されても不思議ではない』
「……これでいいんだ」
膝を抱え、クロは呟いた。このまま死を待つことが、唯一の正しい選択かもしれない。他者が死を望むなら、それが正解だ。これ以上、危害も加えたくなかった。
自分の意思なんて、もうどうだっていい。
――でも、ユキの意思は?
その問いに、クロは埋めていた顔を起こした。
ユキは憎しみから生まれた、もう一人の自分だ。もし自分が死を受け入れ、彼女が消滅してしまったら、これまで必死に守ろうとしてくれた純粋な意思までも、踏みにじってしまうのではないか。
たとえ理の外にある存在だとしても、ユキには確かに心がある。
「消したくない」
命を絶つこと以外に、彼女を救う方法はないのだろうか。
「誰かいませんか?」
クロは飛び起き、格子を掴んで声を出す。しかし、冷たい石壁に吸い込まれるだけで、返事はなかった。鉄棒の隙間も狭く、扉を閉ざす南京錠も外せない。
どうにかして、ここから出たい。
次の瞬間、足元に伸びる影が揺らめき、そこからユキが飛び出した。
出たいという意思に応えたのかもしれない。あの破滅の波動を放たれては、元も子もない。クロの制止よりも早く、ユキは小さな手を隙間から伸ばす。
そして、分厚い鉄の南京錠を、素手で握り潰した。
「……嘘」
粉々になった鉄の残骸が、荒々しい音を立て石床に転がる。同時に重い扉が軋みながら、一人でに開け放たれた。脱出は呆気なく、最悪な形で果たされてしまった。
「ご主人様!」
青ざめるクロの動揺など意に介さず、ユキは先に外へ駆け出す。
「うん。行こうか」
渋々頷き、クロは仄暗い回廊の地下を見据えた。
不思議そうに首を傾げるユキを見つめながら、クロは考えを巡らせた。
知りたい。怨霊の謎や、彼女の真実を。人の負の感情が具現化するなんて話は、どの歴史書にも記されていない。しかし、政府はその正体を知っているようだった。
この学園のどこかに、真相が隠されているはずだ。
後ろの道を戻っても、地上に出るだけだ。すぐに見つかってしまう。クロは固唾を呑み、ユキと共に地下の奥へ歩みを進めた。
未知なる恐怖に、クロは自然と姿勢が低まる。元より暗闇は苦手だった。松明の光すら届かない常闇の中、自分の足音だけが不気味に響いていく。
ついに足元すら見えなくなり、呼吸が詰まりかける。
「……え?」
ひんやりとした刺激が、手のひらに走る。
だが、確かな温もりが伝わってきた。
「ご主人様」
隣に並んだユキが、クロの手を握ってくれていた。
彼女は今、恐怖に怯える自分を気遣ってくれた。そんな少女が、本当にただの憎しみだけで創られた存在なのだろうか。ユキは何も言わず、手を繋ぎ続けている。
答えを知るよりも先に、クロは感謝の言葉を伝えることにした。
「ありがとう、ユキ」
ほんの少しだけ、先が明るくなった気がした。




