第10話 風に煽られて
友人たちの協力もあり、クロは巨大な校門を突破した。
門前からは街が見渡せる。学園内の騒動が嘘のように、都市では平穏な日常が保たれていた。あの混乱は城壁を越えていない。
学門から地上へと続く坂道は急勾配であり、あまりに長い。歩いている暇はない。いずれ正門の警備が戻ってくる。
クロは脇に抱えていた木の板を、地面へ下ろした。足を乗せると、複雑に絡んだ枝が軋み、揺らされているように体勢が不安定になる。
スケートボードだって乗ったこともない。
迷いを振り切るように、地面を蹴り上げた。
長大な坂道を駆け抜けていくにつれ、速度が上がっていく。激しい向かい風に煽られ、視点が定まず、呼吸もままならない。竜胆が乱雑に組み立てた板は、今にも崩れそうなほどに悲鳴を上げた。
凄まじい衝撃に、クロはついに倒れそうになる。
「わっ! こ、転ぶ!」
その背中を、影から伸びた手が支えた。
「ご主人様!」
ユキが後ろに立ち、クロの背中を抱きしめる。
「ユキ! 助かっ――てない!?」
上空で警鐘が鳴っている。見上げてみると、飛び回っている飛行隊が小さな鐘を叩き鳴らし、大声を上げていた。
「地上で反逆者を発見! 学園通りを移動中!」
どこから現れたか分からない。ユキの出現を察知された。次第に別の区域や学園にいた有数の飛行隊が、一斉に招集される。
「そこの君! 止まりなさい!」
「ち、近づかないでください! 傷つけたくないんです!」
体が揺らぐ中、クロは上空へ声を投げる。
意識を前に戻した先には、数多くの人混みが立ちふさがっていた。
「ごめんなさい! 譲ってください!」
とっさに体をよじらせる人々の間を、寸前で潜り抜ける。
「ご主人様!」
クロの背中に抱き着いていたユキは、無邪気にはしゃぎ声を上げた。
二人が目指した先には、商店街がある。
「クソッ! 速い! 柊さんはいないのか?」
「このままでは民間人にも被害が!」
「商店街に逃げられては追えません!」
頭上では飛行隊の焦燥が絶え間なく聞こえる。空を利用する飛行隊は、天井に遮られた商店街の屋内まで踏み込めない。
「阻止するぞ! 発砲も許可する!」
「発砲!? 民間人に被弾したらどうするんですか!」
「そのときは責任は取れ! 目先の被害だけ考えろ!」
何かしようとしている。クロは同じ板に乗ったユキに支えられながら、一瞬だけ上空を見上げた。飛行する箒から立った飛行隊が、攻撃の照準を定めていた。
彼らが魔法で創るのは風。
あの構えは、弓矢だ。
ウインド・クラフト ゲイルアロー!
「放て!」
透明な弦が引き絞られ、風の矢が解き放たれた。クロに直撃しなかったが、地面に突き立てることなく、矢は空中へ軌道を変えた。
「ご主人様!」
ユキが危機を訴える。
矢が向かってきている。速度が上回っていた。
ユキに破壊を命じることはできる。しかし、その軌道上には他の歩行者もいる。万が一、ユキの波動に巻き込まれた場合、取り返しがつかない。
「――ごめん。竜胆!」
クロは板から片足を突き立て、アスファルトを削った。スケートボードを停止させると、とっさに身を屈めて木の板を拾い上げ、盾にして構える。
追尾する風の矢は、木の板を粉砕した。クロは衝撃で突き飛ばされるが、体には被弾していない。地面を転がり回り、その勢いで体勢を立て直す。そして、目先の商店街へ逃げ込んだ。
「やられた!」
「落ち着け。奴に逃げ場はない。出入り口で待ち伏せするぞ」
有数の飛行隊は箒の向きを変え、二手に分かれた。
「ハア……ハア……」
その一方、クロは通行人から注目を浴びながら、人波に紛れた。
一度は飛行隊の追跡から逃れられた。しかし、出口がない。商店街は出入り口が二手しかない。既に飛行隊が包囲していた。
このままでは、見つかってしまう。苦悩するクロは、遠くから路面電車の鐘の音を拾った。
一縷の希望だ。電車に乗れば、姿を隠しながら素早く移動できる。胸ポケットを確認する。財布は懐にある。乗れる。
ところが、商店街には停留所などはなく、そもそも線路が敷かれていない。閉じ込められていることに変わりはなかった。
どうにかして、電車に乗れないだろうか。
「どうします?」
近くで飛行隊の声を耳にする。クロは場所を移動した。
「市民を退けますか?」
「いや、下手すれば見逃す可能性がある。市民が誘導に従うことも限らない」
いずれ発見される。
「どうしよう……」
ご主人様。
そのとき、胸の奥からユキの声が響いた。
ユキは同じことしか言わず、そこに意味はない。
しかし、彼女の考えが分かったかのように、クロはある策が閃いた。本当に成功するか自信がない。失敗すれば取り返しがつかなくなる可能性もある。
何より、今までの行動の意味がなくなる。
「ご主人様」
ユキは再び呼び掛けた。
それは、大丈夫と言っているように聞こえた。
「……分かった。やってみる」
◇
飛行隊は応援を呼び、その規模は十四名にまで及んだ。商店街の出入り口を押さえ、天井の上や屋内にも人員を割いている。
この包囲網なら、確実に逃げられない。誰もがそう思っていたが、次の瞬間に打ち砕かれた。
「あら。かわいいお嬢さん! 迷子かい?」
「なんか。変な感じする。見てると鳥肌が立つよ」
「こ、怖くなってきた! 行こうよ」
八百屋の前、買い物客に囲まれた中心で、飛行隊は悍ましいものを見た。反逆者が創り出した少女が立っていたのだ。その恐ろしさを、一部の市民は感じ取っていない。
「対象を発見した! 場所は八百屋の前だ!」
「屋内に集まれ! 市民の保護を最優先!」
「逃がすな! 近くに反逆者もいるはずだ!」
分裂していた飛行隊が、一斉に屋内へ収束する。そのうちの一人が群集を掻き分け、最初に少女を発見する。
その少女はいたずらに笑うと、体をすっと落とした。影に溶け込むように姿を消し、何事もなかったかのように静寂が残される。
「どこへ行った!?」
「分かりません。突然消えました!」
「反逆者がいない!」
少女を発現させたはずの逃走犯が見当たらず、飛行隊は再び包囲しようとする。
しかし、クロは既に電車へ乗っていた。
「……おかえり」
座席に背中を寄せていたクロは、ユキが自分の中に戻ったことを実感し、小声で向かった。
彼女の発現は、人々の恐怖を掻き立てる引き金となる。
しかし、スケートボードに乗っていた最中にユキを発現させたとき、飛行隊には位置を悟られたが、周囲の民間人には危害を加えなかった。学園のような騒動も起きなかった。
ユキに対する反応は、状況によって変化する。
逃げるために、彼女を利用した。
「捜索を続けろ! そう遠くには逃げていないはずだ!」
「絶対に逃がすな! 絶対にだ!」
背後の商店街では、死に物狂いでクロを探していた。窓から様子を覗いていたクロは、項垂れるように脱力した。
逃げるのが正解だと思っていた。ユキに人を傷つけさせないために。その判断のせいで、数えきれない人間に迷惑をかけている。
もはや、何が正しいのか。どこへ向かえばいいのか分からない。
こうして、クロは電車を降り、港へ向かった。
「……誰もいない」
港には船が止まっているが、無人だった。
内海の先にはクロの暮らすベロニカ島が見える。家に帰ったところで解決しないのは分かっているが、他に逃げ場もない。
「なんだあれ。人?」
クロはベロニカ島から小さな影が近づいていることに気づいた。
その人物は、箒に乗って水上を移動していた。箒の先端には大きな荷物をぶら下げており、その自重に耐え切れないのか何度も水面に落ちそうになった。
その危なっかしさに、クロは目を離せなくなる。
どこか、親しみが湧く自分がいた。
「――もしかして」
不意に鼓動が細くなる。感情が胸から込み上げる。
クロはたまらず、彼女の名を叫んだ。
「ビオラ!」
他の家に売り飛ばされたはずのビオラだった。
「クロ様!?」
同じく邂逅を悟ったビオラは、今度こそ足が水面へ届きそうになった。体勢を立て直し、視界が激しく揺らぐ。決死の思いで港まで持ちこたえた。
大陸まで辿り着いた瞬間、箒が宙返りし、荷物が投げ飛ばされる。
同時に落下したビオラの体を、クロは身を挺して受け止めた。
「うぅ……クロ様!?」
下敷きになったクロは、うめき声を漏らす。
「申し訳ありません! だ、大丈夫でしょうか?」
「た、多分。どこも折れてないと思う……それより!」
起き上がったクロは、そばにいたビオラと視線が合う。
彼女の頬には、涙を伝った跡や、最後に彼女を見たときにはなかった青色の痣が著しく残っていた。
「君は、父上に売られたはずじゃ」
ビオラはクロの顔を見る。治療したときより、傷が増えていた。
「申し訳ありません。ちゃんとした挨拶もできずに、私は……」
ビオラはその場で項垂れ、地面に水滴の跡を作った。細い手がクロの視界に映る。クロが不器用に巻いた包帯が、今も残っていた。
「いいんだ。また会えてよかった」
二度と会えない。心の奥底では、そんな予感もあった。
不意に、ビオラは顔を上げる。
「クロ様、屋敷が大変なことになってます」
それを聞き、クロは真剣に耳を傾ける。
「あなたが反逆者になったと大騒ぎです。学園から連絡があったそうで、当主様があなたを連れ戻そうとしています」
ビオラは即座に続ける。
「会ってはなりません。殺されてしまいます!」
クロの確信を代弁しているようだった。父上がどんな剣幕で狙っているのかは、当事者には分からない。ビオラの怯えようからして、事代家に戻れば確実に命はないだろう。
「……じゃあ、僕は――」
「だから、私と一緒に逃げましょう!」
誰にも頼れない。絶望に浸るクロの手を、ビオラが強く握った。
「逃げるって。君には帰れる場所が!」
「いいんです。私の出発は昼頃でしたが、もう関係ありません。どこか遠くへ行きましょう。誰にも邪魔されない場所へ!」
さあ。彼女はクロを起き上がらせ、どこかへ駆け出そうとした。
ビオラの手が温かい。自分の凍え切った手を離そうとしない。このまま全てを投げ出し、ビオラに身を委ねたら、不安から解放される。彼女と新たな人生をともにできる。
事代家の方針も、世間からの評価からも逃げられる。
本当に、それでいいのだろうか。
「――クロ様?」
港を走っていたビオラは、突如として立ち止まったクロを見る。
クロは理解していた。このまま逃げても、ユキの真相は永遠に理解できない。
「……ビオラ。僕は」
反逆者って、テメェらのことか?
落雷のように容赦なく降り注ぐ、重い声。
地上にいた二人は、同時に首を動かした。
港町の屋根の上に、一人の男が立っている。
「悪いけど、もう逃がさねぇ」
その正体を、クロは知っていた。
アカデミック・オーソリティ副代表、天光逸見だ。




