2:奔流の中に一人
車は二〇分ほど走って、大通りからやや離れた、閑静な住宅街に入った。全ての景色が同じような形をしていて、ここはもしかしたら夢の中なのかもしれないと、何度も思った。
それでも、そんな均質の景色の中にも時々おかしなものが紛れ込んでいて、それがあるおかげで、夢ではないと思えた。
その建物は周りの家々とは、完全に隔離された風格をもちあわせていた。
色が違うだけで、それ以外は何も変わらない、無個性な三角屋根の中に、突然現れたその尖塔じみたものは、どう見たって普通じゃなかった。
直感的に、あぁここなんだな、と理解できた。
案の定、車は停まった。
「ここが………」
車から降りながら、ふと、そう呟いていた。目の前の景色は、なんといっても荘厳だった。
多少離れていてもよく見える尖塔のような屋根は、数十年の歳月を染み込ませていて、やや黒ずんでいる。
それを支える煉瓦達は、その一つ一つが異なった色と、形をしている。
無造作に組み上げられたようにも見えるそれには、その建築者の培ってきた技術とそれに伴う情熱やら努力やらが、見えざるの個性となって垣間見える。それは、敷石も同様である。
こんなものは素人の観点から見た、ただの感想だが、それでもそこにある教会は、無彩色のコートを何重にも着込んでいるような、そんな重苦しさがあった。
ふと空を見上げる。
先程の太陽はどこへやら、空は一面のねずみ色。
空を貫かんとする尖塔は、かつての世界に存在したバベルの塔と呼ばれるものにも似ていた。
「なんだか、重苦しいところですね。ここ」
ああ、という簡素な返事が右から聞こえる。
ちらりと右を見ると、そこには相変わらずの不満顔を携えた綺崎。
どうせ煙草だろう。そう決めつけた。
勿論、それは間違いではなく、下車してから数分も経たないうちに、彼の指先は、煙草の箱を取り出してはしまうのを繰り返している。
その無意味にも思える逡巡を取りやめ、やや気怠そうに後輩の言葉に、ほんの少しの彩りを付け加えた。
「だがな、ただ重苦しいだけじゃない。ここは全体的に」
数瞬の空白を置いて、補足は紡がれた。
「―――臭うんだ」
教会の前での問答は早々に切り上げられ、二人はすぐさま隣の建物へと足を向けた。
あれほど意識の隅に喰らいついてきたあの敷石たちが、どこまでも単調に見えてくる。
周りに並べられた木々もそうだ。
整然と、まるで軍隊のように並べられている。
そんな中を進んでいって、歩いている感覚がなんとなく薄れ始めた頃。
その木々の中に、突然一つの建物が姿を表す。
橙色の外壁。それと同じ色の屋根。
大きいとは言えないその家は緑色の奔流の中に突然姿を現す異分子のようにも見える。
途端、違和感が駆け巡る。やはり何かがおかしい。何かがおかしいのに、それは絶対に思い出されることも、思い返されることもない。
そんな気がする。
「ここは綺麗ですね。なんだかさっきのところとは真反対な感じで」
半分独り言でいったその言葉に、綺崎は頷きながら
「ああ、本当にその通り。まるで真逆ってとこだな」
と、こちらも独り言のように呟いた。
「でも、なんでだろう。こっちの方が、その、気味が悪い」
その言葉を最後に、二人は互いに黙り、建物の中へと向かった。
こんこん、という軽快な音が曇天に響く。なんとなく、今の沈みかけた気持ちを軽くする。
「どちら様でしょうか」
中から聞こえて来たのは、少女の声だった。
その声は、どこか懐かしいような、しかし何かが決定的に欠けている。
ただ、理性を期待が上回った。
「もしかして、ま――――」
「執行機関の者です、先日の事件についておはなしを伺いに参りました」
言葉は途中で切り裂かれ、ひらひらと花びらのように地面に落ちて、溶けた。理性ではなく本能に突き動かされた言葉の代わりに、綺崎の猫を三重に被った、よそ行きの声が用件を伝えた。
「ああ、そうでしたか。すみません、今開けますね」
そう言って数秒ののちに、その言葉は実行された。
鍵の開く音。一つや二つではなく、両手でぎりぎり数えきれるほど。
ただそれだけの出来事で、建物に住まう人達の恐怖の度合いが知れた。
「すみません、変な人が入ってこないように鍵はたくさんしめているんです」
と、やや自嘲気味に笑うその少女は、確か車の中で目を通した資料にいた。その少女は、名前を葛原美彩と言った。
柘榴の色をした艷やかな髪が、背中の中ほどまで垂れている。扉を開けたときの微かな風が髪を揺らす。部屋の中の暖かい光に透けて、その色彩を一層強くする。
少女は、自分の知る黒髪と黒い双眸を持つ少女の様に、絶世の美貌を持ち合わせている訳ではない。しかし、至るところに散りばめられたあどけなさは、可愛い後輩か、妹を連想させる。
そんな存在は、自分の人生では知り得たことがないが。
「それで、どんなご要件ですか?犯人の顔とかでしたら、知っている人はいないと思うのですが」
家の中に入ると、暖炉のある温かい居間に案内され、そこにある木製の椅子に座る。すると目の前の少女、葛原美彩は、やや硬い表情で切り出した。
「あぁ、事件のことではありません。ただ保護下におかれたあなた方の、精神的な負担を減らすのも仕事のうちですので」
なんてことだろう。
今目の前にいる男は、本当に綺崎修哉なのか。仮にそうだとして、この男はもしかして演者なのではないだろうか。
そんなくだらない考えが頭をよぎるほど、彼の言動は、その奥底にある本性と乖離していた。
「そうでしたか、てっきりもっと怖いものかと……」
少女は安堵の表情を浮かべ、ほんの少し瞳に輝きが増した。
すると、居間の奥から、足音が聞こえてきた。
「あら、お兄様。起床なさったのですか?」
と、少女は椅子から立ち上がりその足音の方へと向かった。
居間と、その隣の部屋を区切る扉。その扉を開けた男は、どうやら美彩の兄らしかった。
「あ、こちら私の兄の葛原暁羅です。お兄様、執行機関の方々ですよ、ご挨拶をなさらなくては……」
暁羅と呼ばれたその青年は、美彩の嬉しそうな表情と、紹介された二人を何回か見やる。
そしてゆっくりとした動きでこくりと頷いた。
「葛原暁羅です。お茶も出さずに申し訳ないです。なにぶん、体が不自由なもので」
そう言って、元気のない笑い声を立てる。
それは、すらりと伸びた長身と、肩にかかりそうなほど長い髪に相まって、不健康な印象がその勢力を拡大する。
頬は痩せこけていて、窪みに翳りが強く色づく。今彼は、確実に死の足音を聞いている。そしてそれを受け入れるかのような、樹洞が如き虚ろな瞳。ただ、それを否定するように、髪だけは柘榴に燃えていた。
「そんな事はないですよ。明け方の守護者………。なかなか良い名前だと思いますけどね」
「そんなことを言ってくれる方はなかなかいらっしゃらない……短い余生に、いい思い出ができ―――」
言葉は途切れ、かわりに大きな咳が部屋に響き渡った。
「お兄様、あまり無理はなさらずに……。もう少し休んでいてはいかがですか」
「あぁ、そうするよ。悪いね、美彩…」
静かに、悲しげにそう呟くと深く一礼して自室と思われる部屋の闇に消え入った。
「申し訳ありません。私、これから兄の看病をさせて頂きますので………。それでは」
「あ、いえ。こちらも急に押しかけてしまって申し訳ないです。それではまた」
その言葉だけ残して、綺崎は足早に出口に歩き始めた。慌ててお辞儀をして、その後をついていく。
結局その時は、何も口にすることはできなかった。
「さっきの人たち。なんだか大変そうでしたね」
「妹のほうか?ありゃ大変だろうな」
なんというか。その言い方に、腹がたった。
まるで苦労しているのは一人だと言わんばかりではないか。
「その言い方はないと思いますけどね。苦労してるのはあの兄妹二人。共に助け合って――」
「共に依存しあってる、か」
「はい?それはどういう」
わからなかったのか。と、綺崎は一言前置きをして。
「妹は自分の存在を兄の病によって肯定し、兄はそれによって死に向かい続ける。しかしそれが、あの男にとっては救いなんだろう。まぁ、究極の兄妹愛だな。確かに」
まるで詩でも詠むかのような調子で、綺崎は言った。
「な、なんでそんなこと――」
「わかるさ」
次の言葉は矢継ぎ早に放たれた。
「あの男の病気は、普通のものとは違う。ある種の呪いだ。あと一月持てば御の字、更に一月追加すればそれはもう奇跡、ってとこだ。お前には見えなかったか?心臓と肺のあたりをすっぽり覆った、あの魔力の淀み。あれは、かなり古い――――――」
「もういいです。あなたに人間味を聞いたのが悪かった」
たまらず、そう吐き捨てて、足早にその場から離れた。
後ろから、綺崎の声は聞こえなかった。
怒りを綺麗に忘れ去ろうとする。けれど心には、やはりあの兄妹のことが残っていて。それは、延々と思考の片隅につきまとってくる、わだかまりだ。
あぁ、こんな時に"あの子"がいれば―――――。
そんなことを考えながら、教会を後にした。
太陽が幾分か高く浮かび上がっていたのが、薄い雲越しに見えた。
気がつけば、教会からかなり離れた、喧騒の中に居た。
大通りは、いつものように混んでいて、全員が別々の方向を見ている。ほんの少し立ち止まって、眺めてみれば、おかしな事なのに。
それに誰も気づかないまま、日の光の燦々(さんさん)と降り注ぐ中、急ぎ足で通り過ぎていった。
街なかの人々は流動体で、その中に一人、固体が混じっている。
僅かな寂寥が、胸をよぎった。
「あれ?もしかして………」
と、懐かしい少女の声を聞いたのは、その直後であった。
「…………。茉李………」
勢いよく振り返り、その姿を目に焼き付ける。これは、何か意図があったのではなく、そうしなければならないと誰かに言われたような気がしたからだ。
――――街の風は、人混みに揉まれて、やや傷を負っていた。
それでも、その少女の髪をそっと撫でるときは、晴天の下の草原の風にも劣らぬ、輝きを持った。
その髪が揺れるとき、太陽の光でさえ、その漆黒を透過する事はできなかった。
最高級の真珠のようだった頬はわずかに紅潮し、美を司る女神が全権能を使って作り出した形の良い唇と、そこからわずかに覗く白い歯。
オンファサイト系の黒翡翠さえ安く見えそうな黒い瞳は、見る者すべてを魅了し得る。
それに翳りを作るまつ毛は、整然と、しかし神秘性の泉は延々と湧き続けていた。
今、目の前にいる少女の笑顔には何者も敵わないだろう。夜空に散らばる星々を、或いは、この世全ての宝石を束ねたとしても。
「良かった、無事だったんだね。彗」
そう微笑んでくれるだけで、生きていてよかったと思えた。
ただ、それだけでは自己満足に過ぎない。
だから、せめてなにか言葉を返さなくては。
「あ、ええ、うん。なんとか………ね」
辿々しくなった。けれど、茉李は、よかった、と一言。
これだけでも、自分にとっては嬉しい限りだが、茉李は何か思い出したように付け加えた。
「あ、そうだ。渡さなくちゃいけない物があるんだった。ちょっとだけ、時間ある?」
「うん。全然暇だったから、ちょうど良かった」
その言葉に、わずかに安堵した表情を見せ、ついてきて、と言って歩きはじめた。向かう場所は執行機関本部だろう。
そういえば、綺崎のことを置いてきてしまった。が、まぁいいか。
と、都合の悪かった記憶に蓋をして、そっと本棚の奥底にしまい込む。
「そういえば、渡すものって……」
「ほら、この前彗が使ってたあの剣。あれを返そうと思って」
劔…………?
それは一体。何だったか。
その時、幻想的で神秘的な黄金と赤色の劔が、灰神楽の隠匿の帳から突然浮かび上がった。
「ああ、あれか!」
なんとも、ありきたりな驚き方をしたが、内心は複雑だった。なにせ、あれは夢の産物かなにかだと思っていたのだから。
「うん。あの後、拾ってくれた人が居たみたいでね。今、本部にあるんだけど……」
そこまで言って、言葉が濁ったのが如実に見えた。嘘をつくのが苦手なんだろう。だから、何と言えばいいのかわからない。
別に、何があっても驚く気はない。そもそも、もはや驚く気力も残っていない。そう思いつつ、茉李の困惑顔を楽しみながら本部へと向かった。
だが、事実はおとぎ話より奇妙だった。いや、まるでおとぎ話だった。
早乙女彗の劔として紹介されたのは、間違いなく人間の少女であった。




