オレンジの香り
朝から面食らって、さらには昨日からの疲労も持ち越している今日は木曜日。今週末には男女ともに試合がある。我が校が毎年開いている交流戦で、関東圏以外の実力校を集めている。というのも5月から始まる関東大会予選に備えてだ。関東圏のチームとはこの時期練習試合を組みにくいために、遠めのチームと試合をする。
順位は付けないし勝敗についても各チーム全くこだわらない代わりに、各々のチームがそれぞれのコンセプトや課題、またはチームの最終確認を行う場になっている。
つまり何が言いたいかというと、この試合、かなり大事なのだ。この時期、具体的には春休みからゴールデンウィークにかけては、全国各地でこのようなハイレベルな交流試合がある。
そのため、ここでのチームの完成度や選手とコーチの満足度がそのまま次の大会のモチベーションに依存する。これは大きな賭けであり、ここで散々な結果を残すとそのまま各地方大会に引きずることになるが、当たれば大きい。この手のある種のギャンブルは事実、本当に全国各地で行われている。
この試合前の大事な時に相当面倒な厄介ごとを起こしてくれた彼ら彼女らには本当に感謝してるよ。いや、本当に笑えない。
ましてや今日は先生が出張なのである。学校の規則により監督責任者が不在の際は、部活は原則6:30までと規定されているために練習時間も短い。
色恋にうつつを抜かすなよ。なんて思うが、ただここで皆々様に注意してもらいたいことがある。よく『本当に部活頑張ってるやつは恋人なんか作らない。』って言われるけど、あんなの大衆の理想論というか印象論というか、つまりはただの希望的観測なのだ。夢半ばで敗れた選手たちの「恋にうつつを抜かしてないで、部活一本であってほしい」という希望が作り出した幻想だろう。
全国各所へ遠征に行き分かったことは、全国1位になるようなチームのキャプテンやエースにも恋人はいたりするということ。あえて違いを挙げるなら程度の問題だと思う。
大っぴらにはイチャつかないし、もちろん易々と周りに言いふらしたりもしない。ましてや部活には絶対に私情を持ち込まない。切り替えができているということだ。
要は本当に上手い選手はそこら辺も上手いのだ。いや、別に僕がそういうの下手なわけじゃないよ?なんていうか、ほらあれだよ。いわ、なんでもないです、すみません。
でもまぁ今回の件はあまり褒められたものでもないな。実際部活に支障出そうだし。結構これって正しい意見のはずなのに自分が言うと妬みに聞こえるのはなぜだろう。
さて、今日の授業は爆睡を予告していた僕であったが、なかなかどうして眠れなかった。潤の発言で全てが狂い、終いには僕が汚れ役ポジションとは…。胃が痛い。でも悩んでいても仕方ないな。
「(今日は練習6:30までだし寮組も時間あるだろうから、その時に紗夜に伝えるか。)」
率直に言おうか?
怖いです。ビビってます。紗夜が僕に怒ったりはしないだろうか。真夜に怒ったりしないだろうか。真夜の方は僕からの伝え方次第で、具体的には『真夜もすごく悩んでいた。紗夜のことを思って別れようとさえしていた。』と嘘混じりの切ないストーリーでっち上げちゃえばどうってことない。
ただ僕はどうだろう。この話をする時点でこの一件の内容をすべて知っていたことがバレる。激怒は不可避。
いやまて、そもそも『博愛』だの『平等な社会』だのを唱えている世界だぞ。1人のみを愛するよりも多くを平等に愛する方が良いのでは?みんな大好き!ほら、平等。これが目指すべき世界だ!約35億人の女性の方々!僕のところへ!これぞ公認の浮気!正義の浮気だ!あ、浮気以前にもはや正妻すらいないや、僕。
本当に申し訳ありません。調子乗りました。忘れてください。
さておき、なんだかんだで練習には集中できた。この手のメリハリは僕も結構つけられる方だと思う。ゲームに勉強、ラノベに部活を全て上手くこなしているだけはあるな。僕って偉い!
まぁ僕にとって練習はそれだけ重要だし、1日でも気を抜いたら自分の立ち位置を狙う奴らにこの位置を取られてしまうと、僕自身が思っているからだろう。
試合前のこういった早めの上がりの時は決まってみんなは自主練はせずに寮に帰ってゆっくり過ごす。1日で技術は伸びないが、疲労は別の話である。肉体的にも精神的にもかなり楽になる。
そんなわけで練習が終わりみんなが帰り始めた時に紗夜を呼び止めた。
「このあと時間ある?」
人に声をかけるのにこんなに緊張したのは初めてだ。
「あるけど…、あ、あのこと?」
いつもは明るい紗夜の声が幾分沈んでいるふうだった。悟ってしまっているのだろうか。たしか真夜と相部屋だから、何か感じ取ってしまったのかもしれない。
「まぁ、そんなとこ。頃合いをみてSRに来て。」
SRとはスーパーレアの略でレア度は高い。序盤で手に入れた時の喜びは計り知れない。ただどんなゲームにもUR、つまりウルトラレアが存在し、慣れてくるとみんながそっちの方を血眼になってそれを探し求める。それは僕も例外ではなく、何人もの福沢諭吉さんを旅立たせた。
ではなくて、SRとはストレッチルームの略である。床がマットになっていてリラックスしてストレッチを行える場所だ。この日はみんな寮に帰っているから誰も使ってはいないだろう。誰かに見られて怪しまれる心配もない。
「わかった。先にいってて。」
声のトーンからするに話の内容もわかってしまったのだろうか。傷ついている女子に改めて現実を突きつけるのも酷な話ではあるけれど、逃げるわけにはいかないな。
先にSRに来てささっと着替えを済ませた。あまり匂いの強くない制汗剤スプレーを使った。はずなのだけれど、さっぱりとしたオレンジの香りも、今はべっとりと心身にまとわりついてきてるようにすら感じる。
ストレッチを始めて15分くらいたった頃に紗夜は来た。この15分は、主席番号順が後ろの方の人が成績表受け渡しを待っている時に匹敵する位の胸のざわつきだった。いや、僕は"い"だから早いけどさ、そのー、ほら、中の人が…。
「遅くなってごめんね?みんななかなか帰らなくて!」
「ううん、大丈夫だよ!」
お互いが無理した元気を空回りさせる。それでもこの無理やりな明るい雰囲気がなければ、気が参ってしまう。あぐら座りをするぼくの目の前にちょこんと体育座りをする紗夜。
「「……」」
お互いに黙り込んでしまう。僕から言わなきゃいけないのに言葉が出ない。見つかるはずのない新たな解決策を無意識に探してしまう。
そんな沈黙を破ったのは、否、破ってくれたのは紗夜だった。
「青木くんと真夜ってー
「まって!僕から言うよ!」
顔を見てられなかった。こんなに寂しそうな顔をするなんて思ってもみなかった。こんな子の口から悲しい現実を自分で告げさせるのは酷だ。自分の不甲斐なさを感じながら口を開けた。
「青木と真夜は…、その…、付き合ってるんだ。紗夜が僕に相談する前から…。」
顔はあげられなかった。きっと怒っているだろう。裏ですべてを知っていたこと、早くにこの情報を教えなかったこと、余計な期待をもたせたこと…。もう仕方ないと腹をくくるしかない。ここは受け止めよう。
しかし紗夜は
「そ、そっか。真夜に気を使わせちゃったな…。なんか…、わ…悪い…悪いことしちゃったなぁ…。あとて、謝らな…いと…。う、うぅ。」
全くの予想外な反応だ。声にならない声で必死に紡がれた声は怒りや恨みではなく、純粋な暖かいとも言える姉妹への言葉だった。目の前で泣くのを必死に堪えようとする女の子を見て僕は自分を責めた。
本当に失礼な話だが僕は紗夜は軽い女だと思っていた。他のチームの男子に話をかけに行ったり、思わせぶりな態度を見ていた僕はそう思い込んでいた。
「じ、実はね、一年生の頃から好きだったんだ!青木くんのこと。」
目の前にいるのは軽い女なんかではなく、純粋で気さくで、姉思いの一途な女の子だった。姉を責めるどころか、僕にすら責め立てるようなことはしなかった。
こんな子を僕はあんな風に思っていたなんて。自己嫌悪の感情が積み上がる。
「まぁ昔から好きな人とか同じになっちゃったりしてから、薄々今回もそうなるのかなぁと思ってたんだよね!」
大粒の涙をこぼしながらも無理して作った笑顔が僕の心をえぐる。
「ごめん。僕知ってたのに…」
謝ることしかできなかった。僕はこんなにも純粋な子をあんな風に見ていたんだ。多分謝ることすら本来は許されないのかもしれない。それでも紗夜は
「なんで謝るの?むしろ協力してくれようとしたんでしょ?感謝するぐらいだよ。」
紗夜の一言一言が心に痛く染み渡る。それは深く深く、全体を包むように。
「いや、本当にごめん。もっと早くに言うべきだった。」
「だからいいって!本当に感謝してるんだよ!」
顔をくしゃくしゃにしながら続けた。
「でもそうだね、悪いと思ってるなら、次の機会こそは成就させてよね!」
徐々に涙も引いてきて、笑いながら言った。いや、無理やり涙を抑えて笑顔を作っているのだろう。
それで僕は次の機会でまた紗夜の相談に乗る権利があるのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。黙り続ける僕を前に紗夜は話を続ける。
「この世に男の人なんてたくさんいるんだし!むしろ真夜が青木くんと付き合っていればさ、私とかぶる心配もないしさ…。うん…。そうだよ、ね…」
止まりかけた涙は再度溢れ出す。やはり無理をしていたのか。
ここで普通の男なら涙を拭ってやるような温かい言葉や、頭を撫でながら優しい言葉をかけるのかもしれない。
でも僕には許されない。そんな権利はない。1番最低なのは僕だ。目の前で泣き崩れる女の子がいるのに、見ているだけしかできない。
「ねぇ、透くん。どうして?私は1年も前から好きだったんだよ?真夜はその間に彼氏とかも作ってたのに、ねぇ、なんで私じゃだめなの?ねぇ!」
涙とともに溢れ出てきた本音。いくら純粋無垢な少女でもやはりそう思ってしまうのは仕方ない。必然だろう。
「いつもそうなんだよ。顔なんてみんな違いが分からないくせに、好意を持たれるのはいつも真夜なの。今までもずっとそうだった。これからもずっとそうなの?ねぇ。」
消えそうな声で放たれた言葉には今までの想いが詰まっていた。言葉をかけずにはいられなかった。
「そんなことはないよ。紗夜には紗夜のいいところがある。みんなが気がついてないだけだよ。きっとそのうちいい人が出てくるよ。」
この発言は無責任だろうか。でも今は彼女には慰めの言葉が必要だ。労いの言葉が必要だ。今まで1人で嫌味ひとつ言わず頑張ってきた彼女に『頑張ったね』のひと言をかける人が必要だ。
「でも、でも…」
「頑張ったね、紗夜。紗夜は頑張ってきたよ。僕には到底できない頑張りをしてきたよ。そうやって頑張れるところは真夜よりもずっと素敵なところだと思うよ。」
本心からの言葉だった。こんなこと言う資格はないとわかっているが、それでも言わずにはいられなかった。このくらいしかできない。これが僕の精一杯。
「う、うぅ…。」
ガバッ
不意に抱きつかれて、後ろに倒れ込んでしまう。周りから見たらすごい光景だろう。しかしそんな邪念とは無関係。僕の胸のあたりで泣きじゃくる彼女の頭にそっと手を置いた。
彼女のすすり泣く声だけが静かに鳴り響くSRで、僕は罪悪感に苛まれながら彼女の頭を撫で続けた。『こんなことする資格などない』という感情よりも『何とかして元気づけてやりたい』という気持ちの方が大きかった。何が正しいのかなんてわからなかった。
その時の
今にも壊れてしまいそうな彼女は
とても綺麗だと僕は思った。
まとわりついていたオレンジの匂いが本来の爽やかなそれに戻っていく。
甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐるのは照れくささも混じっているからだろう。
泣き止んで落ち着いた頃には8:00になっていた。それでも未だに顔を埋めたままで、何も喋ろうとはしない。そろそろ寮のご飯の時間になってしまう。
「紗夜?目も晴れてるだろうし、今帰ってそんな顔見られたら質問攻めにされるから、寮にご飯はいらないって連絡入れときな。」
「やだ。ご飯は食べたいもん。」
少し幼児退行したような喋り方なのは泣きはらしたからだろうか。
「今日は僕がどこかで何かおごるからさ。だから早いうちに連絡しておきな。」
無言で頷くと、紗夜は寮へと電話をした。少しは立ち直った姿を見ると僕も安心する。罪悪感も少しは晴れていく気がする。
「お肉食べたい。」
「はいよ。今日なんでも食べていいよ。」
これも贖罪なのだろうか。こんなので僕が許されるわけではないが、それでもしてあげられることはしてあげたかった。
「透くんってさ…。案外優しいね!」
振り向きざまのそのセリフにドキッとする。涙と汗で湿った髪が揺れる。
「え?なにが?」
無言の笑顔で僕の胸を指差す。そこには涙と鼻水でぐしょぐしょになったパーカーがあった。これで外は歩けないな。
「オレンジのいい匂いだったよ!」
そこまで言われるとなんだか照れ臭くなるな。まぁ汗臭かったとか言われないだけまだマシか。
「(それにしても顔が熱いな。なんかドキドキするし。まさか…ぼく…。)」
この時は『まさか自分が恋に落ちてしまったのか』と思っていたが、この後のご飯で3500円のスペシャルビッグステーキを頼まれて、それは勘違いだと気付いたのは言うまでもない。
「(もしかしたら恋愛は"勘違い"なんかではないのかもしれないな。ここまて一途な想いが目の前にあると考えも変わるな。)」
少し濡れたマットにかすかなオレンジの匂いを残して、僕たちはそこを去る。
その場所にまるで辛くも甘酸っぱい青春の一ページを置いていくようにしてー
しかし、僕のこの考えが変わることはなかった。




