04 隠れ潜む者は
嵐の夜道を駆け抜けた。
あたしは頬を流れるものが涙か雨か分からなくなるまで顔を上げ続けた。
ファシェルはまるで暗闇の向こうがすべて見えているみたいだった。彼女の指さす方向に従ってあたしたちは包囲網を掻い潜り、日の出と同時にとある屋敷に辿り着いた。
どう見たってもう何十年も使われていないような、打ち捨てられた館である。
男は枠から外れた鉄格子の門を隙間からすり抜けて、屋敷の裏手に回り込む。扉を複数回、妙な間を開けて叩くと、程なくして入り口が開いた。
神経質そうな顔をした若い男が顔を出し、あたしとファシェルを上から下までじろじろと眺め回す。
「ルーイ、そいつらは?」
「親父の置き土産。俺の妹って意味ではない」
男は素っ気なく答えると、有無を言わせず門番の横をすり抜ける。
通路の床に物が置かれ、中は雑然としていたが、外観から想像するような人の手を離れた荒れ方ではない。
部屋の一つに入ると、男は寝台の上にファシェルを下ろした。ぐったりと布団の上に横たわったファシェルを見て、あたしは密かに息を飲む。
ファシェルの手足は泥に汚れ、擦り傷だらけだった。
追っ手を撒いて、雨風のなかを走り抜けるあいだ、ファシェルはずっと男に背負われていたのに、いったいどうして?
目を見開いたあたしを見上げて、ファシェルが小さく首を振る。あたしは慌てて平静を装い、「ありがとう」と男に向き直った。
「……あたしは、ヤァリ。あんたの父親には、島からこっちに移ってきたときからよくしてもらってきた」
「島?」
彼は怪訝そうにあたしを上から下まで見た。聞いていなかったのか、と故郷の島の名前を告げた途端、彼の眼差しには明らかに動揺が浮かんだ。
あたしの故郷の名を聞いた人間は、大抵居心地悪そうな顔になる。話を逸らす奴も興味津々な奴も両方いるけれど、みんな同情的だ。
「そうか。あの島の」
男の反応は今までの誰とも異なり、好奇心というよりはむしろ納得しているようにみえた。
「なんかあんの」と問うと、男は疲労の色を滲ませながら首を振った。
「いや」
言いながら、男はあたしの肩を押して寝台に座らせた。ファシェルは既に目を閉じている。押されるがままに、ファシェルの横に転がる。
「あんたは何者なの? ここは一体なんの場所?」
あたしはファシェルを抱き寄せながら、肩を起こして男を見上げた。
表情は薄いものの、彼は口の端に意味深な薄ら笑いを浮かべた。ファシェルを指し示して唇の前に指を立てる。頑として瞼を閉じようとしないあたしの顔の前に手のひらをかざして、彼は低い声で囁いた。
「ルーイだ。お前の予想通り、あれの長男……一緒に住んでいた時期はないがな」
顎を上げて手のひらを避け、あたしは目を覗かせた。
朝日の差し込んだ部屋の中で見たルーイには、明らかにあの男の面影があった。
軽薄で女好きのすけべの顔だと言いたい訳じゃない。左の頬だけ上げるくせや、どこか陰鬱そうな垂れ目、つかみ所のない口ぶりなんかがそっくりだ。
不意に昨晩のルーイの言葉が蘇ってきて、あたしはせり上がってきた湿り気を必死に飲み下した。
……ロネスが死んだ? 移り住んできたあたしの面倒をずっと見てくれた、あいつが?
涙目になったあたしの目元を、ルーイが今度こそ覆う。
声は笑みを含んでいたが、表情を見ることはできなかったから本当に笑っていたかは定かでない。
「父が俺を反抗期だと言ったのはなかなか上手い冗談だ。――革命家の隠れ家へようこそ、ヤァリ」
ルーイが率いているという反乱軍は男所帯である。
そんなところに、人形みたいに可愛くて、ちょっと放っておけない危なっかしさがある小さな女の子が現われれば、格好の話題の的である。
「あのさ、ファシェルって、いま、いくつなんだっけ?」
もじもじしながら耳打ちしてきた男を横目で一瞥し、あたしはスープ皿に口をつけて飲み干すふりでちょっと考えた。
もちろんあたしはファシェルの正確な年齢を知らないし、そもそも、人魚ってあたしたちと同じように歳を取るんだろうか?
あの子を浜辺で拾ったときは、十二、三歳くらいにみえた。あれからもう一年あまりが過ぎ、ファシェルは随分と大人びた。あれくらいの歳の子どもってのは成長も早いもんだけど、ファシェルはとりわけ早い。
「腹違いだからよく分かんないけど……十五になるかならないかってとこ」
器を机に置き、あたしは白々しく答えた。ファシェルの見た目を思えば、これくらいの答えでも全く違和感はない。
男は大きく頷き、弾む足取りで去って行った。行けない年齢差ではなかったのだろう。
「反乱を企てる青年が、あんなに鼻の下伸ばして良いもんかね」
入れ違いで食卓に入ってきたルーイに向かって顎をしゃくってみせると、彼は真顔で肩を竦めた。
「そういうのもいる」と一言だけ答えて、向かいの椅子に腰を下ろす。
ここに来てから十日が過ぎた。街外れの森の中にある捨てられた館が、いまのあたしの住処だ。
ファシェルが目を擦りながらよたよたと入ってきて、隣に腰を下ろして欠伸を噛み殺す。
「おはよう、ヤァリ」と肩にくっついてくるファシェルの髪を、手櫛で梳いてやった。
ルーイが「おはよう」と声を上げる。
途端にファシェルはぴたりと口を閉ざした。沈黙したまま彼を凝視する。
ファシェルに真正面から見つめられても、でれでれしないのがこの男の美徳である。
ルーイは平静そのものの顔つきでファシェルを見返し、「返事は」と続けた。ファシェルはあたしの腕に掴まったまま、顎を引いてルーイを窺っている。
あたしは天井に目をやった。思えば、この子は若い男と接することはほとんどなかった。漁師のおじさんにはあんなに物怖じせず話せていたのに、まさかここで人見知りをするなんて。
ややあって、ファシェルが小さな声で「おはよう」と呟くと、ようやくルーイは頷いた。
あたしはファシェルの背中をぽんと叩いてやりながら、大股で入ってきた青年を横目で見る。
「ルーイ、街で手配書が出された」
机に手をついて、青年は張り詰めた声で告げた。ルーイが眉を上げる。
「罪状は?」
「兵士に対する暴行」
「父親を拷問している連中を見つけたら誰だって暴行ぐらいするだろ」
ルーイはあっさりと頷いて腰を浮かせた。
あたしは目を動かしてルーイとその仲間を見比べた。
……兵士?
「あいつを拷問していたのは、兵士なの?」
声を潜めてルーイを見上げると、彼はしくじったというような顔をして目を逸らした。
「あたしを探しているのは兵士を動かせるようなやつだってこと?」
ルーイはますます嫌な顔になったが、腹をくくったのか腕組みして「よし」と一声発する。
「そろそろ事情を説明しなければいけないようだ」
あたしとファシェルは、頭からすっぽりと布を被って外へ出た。最近この辺りでも見かけるようになった異国の民がよくする格好だ。彼らは肌や目が弱くて海辺の日差しに耐えられないらしい。
布の隙間から外を覗きながら、あたしは用心深くファシェルの手を握った。
森を出てしまうと、市街地はすぐそばである。日が高くなり市場の人波は少なくなっていたから、広場の立て看板をよく見ることができた。
貼り出されているのは見慣れた顔の手配書が二枚。一枚はもちろんルーイで、その横にあるのは……。
「これ、ヤァリ?」
ファシェルが小さな声で指さすので、あたしは曖昧に返事をした。
ぱさついた黒髪の女の、不細工な人相書きである。不機嫌そうな口元とこちらを藪睨みする険しい目つき。たぶんあたしだろう。
「あたし、何の罪で追われてんの?」
罪状が書いてありそうな部分を指さすと、ルーイが「窃盗」と読み上げる。……窃盗?
「ヤァリ、なにか盗んだの?」
「顔が町中に貼り出されるほどのもんは盗んだことないよ」
「貼り出されない程度ならあるのか」
ルーイのぼやきに肩をすくめる。そりゃ誰だって……特にあたしみたいな貧しい移民の小娘なら、多少はね? そんなのお互い様じゃない。
ルーイの人相書きの下には「生死を問わない」とあるが、あたしのところには生け捕りが厳に指定されているらしい。
奴らが狙っているのは人魚だ。あたしを殺してしまえば情報を聞き出せない。
「一体誰がこんなこと……」
言いながら末尾に記された名前を見た瞬間、あたしの心臓は不吉に大きく飛び上がった。
一瞬で全身の毛が逆立つ。
ファシェルが振り返って、あたしの顔を見るなりぎょっとした顔になる。
「どういうこと」と、腹から低い呻き声が漏れた。手配書に手をつく。
あたし、大して文字は読めないけど、この名前は知っている。
なるほど、兵士を自由に動かせる訳である。
忍び笑いを漏らしたあたしを、ファシェルが不安げに見上げる。あたしは口の端で哄笑して名前を指さした。
「領主だよ――あたしの故郷の島を襲って、今なお占領している男だ」
ファシェルが息をのむ。金色の両目がゆらゆらと揺れている。
海面に映った月のように。




