03 あの子を売るなら今
ファシェルを拾ってから丸一年が経ち、彼女の足から剥がれ落ちた鱗はちょっとした袋ひとつ分になろうとしていた。同じ量の金よりも高い値がつく代物だ。
あたしはふかふかの寝台に寝転がったまま、革袋を目の前に掲げて考える。
本体のことは一旦考えないこととして、……このお宝を、いったいどうする?
この島に非合法な質屋はひとつじゃない。あたしがずっと世話になっていた店に、またお宝を持っていってやりたいけれど、同業者に目をつけられるのが怖い。
それに、ロネスの、いつになく真剣な忠告……。
寝返りを打ったファシェルの頬があたしの胸元にすり寄せられる。小さくもろい少女の身体を片腕で抱き寄せて、あたしは革袋を枕の下に押し込み、天井を睨んだ。
拾ったときにはあたしの肩くらいしかなかったのに、今ではあたしの鼻先くらいまで背丈がある。すこし体温の低い足が甘えるように絡みついてくるのを感じながら、白くて長い髪を片手で梳いてやった。
「こないだ切ってやったばかりなのに、あんた、髪が伸びるのが早いね」
囁くと、ファシェルは寝ぼけ声を漏らしたが、要領を得なかった。
「あんたの髪も、高く、売れるのかな……」
独りごちて、目を閉じる。
あたしが人魚の鱗を二回も手に入れたと知られれば、その出処を探ろうとする輩が必ずいるだろう。
そうなれば、ファシェルが見つかるのは時間の問題だった。
「そういうわけで、どこか良い店を知らない? 口が硬くて、後腐れなく取引できるところ」
「せっかくの用心なのに、それを俺みたいなろくでなしに打ち明けちゃあ台無しだぜ」
葉巻を口から離して煙を吐き出し、ロネスは呆れ顔であたしの脳天に手刀を落とすふりをした。
あたしは首を竦めて舌を出す。少なくともこのおやじは、あたしが人魚の鱗を売ったということを一年間隠しおおせて、あたしにその話題を振ることも一度としてなかった。
「お前は、こんな薄汚い世界から足を洗ったと思っていたんだが」と男は頬杖をついたが、あたしの顔を見て口を噤んだ。「堅気の仕事じゃ足りないか」
店から突き出した屋根の甲斐もなく、強い陽射しがあたしの腕をじりじりと焼いていた。すぐ横は息が詰まるような雑踏で、あたしたちの会話なんて誰にも聞こえない。
ロネスはあたしが返事を待っているにもかかわらず、ゆっくりたっぷりとふた吸いもしてから、足を組んだ。
「お前が前回持ってきた、例の品――競り落としたのが誰か、知っているか?」
あたしは「ううん」と首を振る。
そうか、と、彼はしばらく虚空を見上げて顎を撫でていたが、ややあってその唇がにんまりと弧を描く。
「俺は知っている。俺が質屋の代わりに取引してやろう。店を通すよりよっぽど多くの金を渡してやる」
あたしは目を丸くして身を乗り出した。自信ありげな口ぶりからして、その買い主とやらは随分な金持ちで、しかも、人魚の鱗にまだ金を出しそうなのだろう。
「その買い手ってのを、あたしに教えてくれればいいんじゃないの」
「駄目だ」と、ロネスはあたしの額を弾いた。
「お前は交渉ごとに向いていない。こんな小娘、よくて丸め込まれるだけで、門前払いが関の山だろうよ」
あたしは顔をしかめたが、彼の言うことには一理あった。あの質屋だって、ほかの人間には売値の半分は渡しているのに、あたしに支払うときは明らかに半分以上の金を抜いているのだ。
否定しても仕方ないから認めるが、あたしは所詮後ろ盾のない移民の小娘で、ちょっと背は高いがひょろひょろだし、美人でもないし、賢くもないくせに、これといった美徳もないときた。こんな界隈じゃ誰よりも舐められやすい。
最終的には、あたしはロネスの提案を呑んだ。後日、決めておいた路地裏で、厳重に袋にしまった鱗一枚を手渡すと、彼は中身を検めて口笛を吹いた。
それから十日もしないうちに合図があり、あたしは同じ路地裏でずっしりとした鞄を受け取った。中身は金銀貨でいっぱいだ。
これはすごい、一年前の倍以上ある! ……つまりあの質屋は、あたしが思っていたより更に売り上げを抜いていやがったわけだ。
「こんなにもらって良いの? 自分の分は抜いた?」
「おお? うん」
ロネスは頭を掻きながら飄々と頷いたが、白々しかった。じっと睨みつけると気まずそうに斜め上を見上げ、男は頭に手を当てたまま「柄にもないことを言うんだが」と呟いた。
「俺は、お前には親切にしてやりたいんだ」
はぁ? あたしは腰に手を当ててロネスを上から下まで眺め回した。この守銭奴の遊び人のろくでなしが、慈善活動ってわけ?
「お前には夢があるはずだ」
改めてあたしの両手に鞄を持たせて、彼は掠れた声で呟いた。
あたしは目を見開いて相手の顔を凝視する。いったいどういうつもり?
「故郷の島を買い戻すんだろう」
どきんと心臓が跳ねた。「誰に聞いた?」低く囁くと、ロネスが喉の奥で笑う。
「おちびの考えていることなんて、お見通しだ」
そう言い残して、男はひらりと手を振って路地裏の奥へ消えていった。
それが、彼を見た最後だった。
数日後、ファシェルは「嵐」という言葉と、実際の天気を結びつけることに成功した。
雨が窓硝子に激しく叩きつけ、川みたいに筋になって流れている。窓の外を覗いても月はなく、普段ならはっきりと見える灯台の灯りも判然としない。
「なるほど。これが嵐」
「今回のは特にひどいね」
窓にかじりつくファシェルの頭上から身を乗り出す。外は真っ暗で庭木の影もろくに見えない。あたしたちの間抜け面が揃って硝子に映っているばかりだ。
「あっこら、窓は開けないよ」
留め金に触ろうとしたファシェルの手を掴んで、あたしは厳しい声を出した。ファシェルは不満げにこちらを振り返って首を振る。
次の瞬間、扉が激しく叩かれる音がして、あたしは飛び上がった。
こんな大雨の日に、なんだ?
恐る恐る玄関に向かい、細く扉を開ける。背中にぴったりとファシェルがくっついてくる。
外を覗き込んで、あたしは亡霊が訪問してきたかと思った。
この大嵐のなか、背の高い男が傘もささずに立っていた。俯いた顔を濡れた髪が覆い、容貌は分からない。
「……ヤァリってのはお前か」
耳を澄まして辛うじて聞こえた。あたしはたじろぎつつ「だとしたら何」と応じる。扉はしっかりと掴んだまま、もし危ないと思えばすぐに閉じて施錠できるよう構えながら。
「今すぐ、荷物をまとめろ。夜明けまでにここを出る」
「あんた誰?」
なんであたしのこと知ってるわけ? そんなことを指図される謂われもないし。
あたしはため息をついて扉を閉めようとした。が、隙間に足を入れられて上手くいかない。
つま先を蹴りつけ、力づくで戸を押すあたしの腕を、濡れた手が掴んだ。額に張り付いた黒髪の隙間から、光のない瞳がこちらを見据えていた。
「父が殺された。奴らの狙いはお前だ」
告げられた名前には覚えがあった。――ロネスが殺された?
あたしは思わず扉を開いて半歩前へ出た。横殴りの雨が頬に吹き付け、肩をあっという間に濡らしていく。
「父は、お前となにか取引をしていたと聞いている。奴らはお前の所在を突き止めるために父を拷問し、父は口を割らなかったから、死んだ」
強く肩を掴み、男は耳元で低く囁いた。
とん、と心臓に釘を打たれたような心地がした。
……狙われているのは、ファシェル。
あたしは扉を大きく開いて男を迎え入れると、部屋の奥へ取って返した。最低限の荷物はいつもひとつにまとめてある。
これは貴重品だから、と枕の下から革袋を引っ掴んだ瞬間、あたしは愕然として動きを止めた。
いったい何のためにファシェルを拾ったと思っているのだ?
何のために、手間暇かけて世話を見てきたというのだ。
いつかファシェルを高値で売り飛ばすためだ。
どうも相手はファシェルを手に入れるためなら、文字通り手段を選ばないらしい。頭がおかしい相手だ。
あの子を差し出すなら今をおいて他にない。
あたしはずる賢く生きていくのだ。金を稼いで、いつか、あの故郷へ戻るために!
軽くて薄い鱗を生地ごしになぞりながら、硬く目をつぶる。
……袋を乱暴に背嚢へ放り込むと、あたしは頭を振り上げて大股で玄関へ戻った。
所在なさげに立ち尽くしているファシェルの手を取る。
「ファシェル、行くよ」
「こいつは?」
「妹。足が悪いんだ、ぜったいに置いていけない」
男の足元はびしょ濡れだった。額に張り付いていた髪を上げると、彼の頬からは血の気が失せ、憔悴しきってみえた。
まだ若く、二十歳そこそこといった年頃だろう。年齢と雰囲気から推測して、指をさす。
「あんた、反抗期だっていうあいつの長男だろ」
「反抗期だと?」
顔をしかめて聞き返し、彼は一拍おいて舌打ちした。父親がそのように説明していたと察したらしい。形容しがたい苛立ちに顔が歪む。
「その、一番手のかかる息子だって、いつも」
きつく睨みつけられて、あたしは尻すぼみに俯いた。男の目に涙が溜まっていたからだ。
彼は床板を凝視しながら、唇を動かさずに告げた。
「……親父が今際の際に何て言ったか分かるか? 『ヤァリを頼む』だ。言うに事欠いて、実の息子に対して、こそ泥の小娘の世話をしろだなんて遺言を残すやつがいるかよ」
「そんなの知らないよ」
あたしはすっかり当惑して首を振る。
別にあたしたち、そこまで深い仲じゃない。少なくともあたしは死に際にロネスの顔を思い浮かべることはない。……一体どうしてそこまで?
ファシェルが軽く袖を引っ張ったので、あたしは我に返った。
「ヤァリ、逃げなきゃ」
囁いたファシェルの表情を見て息を飲む。数秒前までは不思議そうに下がっていたのに、いまは妙に確信めいた眼差しでこちらを見ている。気圧されて頷く。
ファシェルは歩くのがあまり得意ではない。あたしは背嚢を腹に回してファシェルの前に屈み込んだが、男がそれを片手で制した。
身長が伸びたファシェルを軽々と背負って、彼があたしを見る。
「父の遺言のよしみで、お前らの面倒は見てやる。その代わり誓ってもらう……俺の命令は絶対だ」
あたしの胸元に拳を当てて、男は念を押すように告げた。瞬間、彼の全身から剣呑な気配が霧のように広がり、面食らう。
「分かった。でも、あんた一体」
「裏口から出て!」
ファシェルが声を抑えて叫んだ。はっと顔を外へ向けると、吹き荒れる風に混じって人の声がする。
「話はあとだ」とあたしは先導して台所へ向かった。勝手口を開け放った途端、雨風があっという間にあたしの顔を濡らす。
どこかから飛んできた枝が、戸口の脇の植木鉢を打ち据え、昨日植え替えたばかりの月桂樹は鉢ごと横倒しに転げた。ふかふかだったはずの土が、地面にこぼれる。
遠くへ転がってゆく鉢を横目に、あたしはまるで水にでも潜るように息を止めて踏み出した。
あたしたちは月明かりひとつない丘で振り返った。熱気と煙臭さが鼻先をかすめた。
小さくて古いけど清潔で、あたたかくて良い匂いがして、白いペンキを塗ったばかりの可愛いあたしの家は、真っ赤な炎の中で黒々とした影になっている。




