第9話 残る力
荷車を元の場所へ戻すのに、男が三人必要だった。
一人が馬の手綱を引き、二人が後ろから押す。土へ深く食い込んだ車輪の下へ板を差し込み、掛け声を合わせてようやく動き始めると、さっきまで石を選別していた男が手を止めた。
「……これを、あの石一つで動かしたんだよな」
レオナは少し離れたところで、散らばった青黒い石を籠へ戻していた。
顔を上げると、荷車から手前へ向かって、木箱や板、空の籠がほとんど同じ方向にずれている。その列から外れた場所には、水桶が一つ残っていた。
「横のは動いてないな」
別の男も気づいたらしい。
桶の周囲には転がった石がいくつか落ちていたが、桶そのものはほとんど元の位置にある。
「石が爆ぜたなら、こっちも飛ぶだろ」
「じゃあ、前だけか」
男たちは散らばった荷と、レオナの手にある石を見比べた。
レオナも、さきほど自分が石を持っていた向きを思い返す。
「私、こっちに向けてた」
手を前へ出した。
「石に入れてたのも、押す力か?」
「うん」
年長の坑夫、ローデンが、ようやく元へ戻った荷車から手を離した。
「中に入ってた分まで、一緒に出たのかもしれんな」
「そんな使い方、したことあるか?」
「知ってたら石置き場でやらせるか」
何人かが笑った。
ローデンは足元の青黒い石を拾い、掌でゆっくり転がした。
「出る前、何か変わったことは?」
「最初はすっと入ったよ。最後は、石がこっちを押し返す感じだった」
「そこまでは普通だ」
「いっぱいになってくると入りにくくなる。だから、いつもはそこでやめる」
「押し返されるより強くしたら、まだ入ったよ」
近くで板を拾っていたユアンが顔を上げた。
「押し返されたら終わりだ。次はそこで手を止めろ」
「今はそう思う」
「遅い」
ユアンはそれだけ言って、また板を運び始めた。
ローデンは散らかった石置き場へ目をやった。
「その先で中の力が出たなら、明日確かめるか」
「ここではやるなよ」
「見れば分かる」
ローデンは石を籠へ戻した。
***
山を下りるころには、斜面の半分ほどが夕方の影に入っていた。
事故のせいで仕事そのものは早く切り上げたが、飛んだ荷を拾い、壊れた板を外し、荷車を元へ戻しているうちに日が傾いてしまった。
ユアンの家へ着くと、先に帰っていたミラがレオナの服を見て眉を上げた。
「今日はずいぶん土だらけね」
「箱が飛んだ」
鍋をかき混ぜていた手が止まる。
「箱?」
「石に力を入れたら」
ミラはレオナからユアンへ視線を移した。
「誰も怪我してない」
ユアンが先に言う。
「なら、先に手を洗って」
ミラはまた鍋へ向き直った。
夕食が始まると、ニナはレオナが今日いくつ石を運んだのかを聞き、ユアンの母は明日の昼に何を包むかをミラと相談していた。昼間の騒ぎも、食卓ではいくつもある話の一つに混じっていった。
食後、空いた器を運ぼうとして立ち上がったとき、部屋の隅に置かれた青黒い石が目に入った。
トーマが残したものだった。
採掘場では、同じ色をした石が籠いっぱいに積まれている。見た目だけなら、今日レオナが空にしてしまった石とも大して変わらない。
それでも、手を置けば、前に確かめたときと同じ感覚が返ってきた。
今日の石は、一度力を吐き出しただけで空になった。
こちらには、トーマがいた頃の力がまだ残っている。
「トーマの石か」
食器を持って通りかかったユアンが言った。
「うん」
レオナは手を置いたまま、少し黙った。
「こんなに長く残るんだね」
「うちじゃ使ってないからな」
ユアンは奥へ食器を運んでいった。
レオナはもう一度だけ石へ触れ、それから手を離した。
***
翌朝、採掘場の外れに数人が集まった。
石屑を捨てるために使われている広い場所で、正面には荷車も建物もなかった。
「まず、いつも止めるところまで入れてみろ」
ローデンが言った。
「その先は、それからだ」
レオナは、ほとんど力の残っていない石を一つ受け取った。
指先から少しずつ魔力を流す。
最初は何の引っ掛かりもなく、送り込んだ力がそのまま石の中へ入っていった。
しばらく続けても変わらない。
「どうだ?」
「まだ普通」
「そのまま」
さらに流す。
やがて、同じように力を向けているはずなのに、さきほどまでほど素直には通らなくなった。押した力の一部が、指先へ返ってくるような感覚がある。
「ここ」
レオナが言うと、ローデンが頷いた。
「そうだ。普段なら、そこでいっぱいだと思ってやめる」
レオナは手を止めた。
ローデンが石を受け取り、掌で転がしながら割れ目の奥を覗いた。青白い光が、さきほどよりはっきり残っている。
ローデンは石をレオナの手へ戻した。
「昨日は、この先まで押したんだな。入りにくくなるところを覚えとけ」
レオナはごく弱く力を向けた。石はさっきと同じように押し返してくる。入りにくくなったところで手を離し、籠へ戻した。
傍らにいた男が、石の入った籠を覗き込んだ。
「でかいのでも同じか?」
持ち上げたのは、それまでより一回り大きな石だった。
ローデンが受け取る。
「これはいつも、何人かで交代しながら入れてる。いっぱいになるまで時間がかかる」
「やってみる」
レオナは石を両手で持った。
さきほどと同じように魔力を流しても、なかなか感触が変わらない。少し出力を上げ、それでもまだ余裕があるので、さらに強く流した。
「まだ?」
「うん」
レオナはそのまま力を送り続けた。
やがて右肩の奥に、鈍い違和感が残り始めた。
石にはまだ入る。
少し出力を落とすと負担は軽くなったものの、肩から肘にかけて残った鈍さは消えなかった。
「どうした」
ユアンが聞いた。
「腕が変」
「痛い?」
「まだそこまでは」
レオナは石から手を離した。
右手を握って、ゆっくり開く。息は乱れていない。もう一度押せと言われれば、まだ押せる。
それでも、腕にはさきほどまでなかった感覚が残っていた。
「休む」
ユアンは一度だけレオナを見て、それから持っていた水筒を差し出した。
レオナは受け取り、岩の陰へ腰を下ろした。
ローデンは大きな石を掌で転がした。
「一気に入れるもんじゃないな」
「いつも通りにやれってことだ」
別の男が石を籠へ戻した。
***
休んだあと、小さな石を一つ用意した。
すでに、魔力が通りにくくなるところまで満たしてある。正面には、捨てる予定だった木片を何本か並べた。
「この先で強く入れたんだな」
石を持った男が尋ねた。
「うん」
「どのくらい?」
「思いきり」
男は手の中の石を見下ろした。
彼も物を押す魔力を使える。普段は荷運びを少し楽にできる程度で、大きな荷車を直接動かせるほどではない。
「じゃあ、やってみる」
石を木片へ向け、弱く魔力を流した。
男の眉が寄った。
「ほとんど入らんな」
「そこから」
男は正面に誰もいないことを確かめ、足を開いた。
「やるぞ」
男は一息に、思いきり魔力を押し込んだ。
押し返していた感触が、不意に消えた。
石の割れ目に青白い光が走る。
ほとんど同時に、正面へ並べていた木片がまとめて跳ね飛ばされた。土を削って滑ったものもあれば、何度か転がってから止まったものもある。
石を持っていた男が、飛んだ木片を見た。
「……俺、あんなに押せないぞ」
レオナは石を受け取り、弱く魔力を流してみた。
今度は、ほとんど抵抗がない。
「空になってる」
ローデンは一番遠くまで飛んだ木片のところまで歩いていった。拾い上げ、石を持つ男との距離を目で測った。
「これ、荷車にも使えるな」
近くの男が木片を受け取り、坑道の入口を見た。
「でかい岩も、ずらせるかもしれん」
別の男が石を覗き込んだ。
「火を入れたやつなら?」
「火を使う奴を連れてきてから試せ」
ローデンが答えた。
木片の飛んだ向きや石の持ち方を確かめながら話していたローデンが、やがて口を閉じた。
手元の石を掌で転がす。
「……北の穴が落ちたときも、妙な話があったな」
「去年の?」
「ああ。三人埋まったところだ」
別の男が顔をしかめた。
「掘り方が悪かったんじゃなかったのか」
「そう聞いてる。俺もそう思ってた」
ローデンは石を転がす手を止めた。
「落ちる前に変な音がして、壁が青く光ったって言ってた奴がいた」
男の一人が、飛ばされた木片を見た。
「……似てるな」
「知らん」
ローデンは石を籠へ戻した。
「けど、坑道の中で今のが起きたら、木片じゃ済まん」
さきほどまで石を囲んでいた者たちの目が、坑道の入口へ向いた。
***
午後、坑道から運び出されたばかりの石がいくつか集められた。
レオナが順番に魔力を流してみると、見た目にはよく似た青黒い石でも、入り方にはかなり違いがあった。すぐに通りにくくなるものもあれば、同じくらい流しても、まだ素直に受け入れるものもある。
その中で、妙に力の入りやすい石が続けて二つ見つかった。
「これ、どこから?」
ローデンが一つを手に取り、掌で転がした。
「三番の奥だな」
レオナはもう一つを持ち上げる。
「こっちも?」
「同じだ。最近、あそこから出るやつはよく入る」
レオナは坑道の入口を見た。
「そこ、見たい」
ユアンも同じ方向を見た。
「俺も行く」
三番坑の奥は、昨日仕事をした場所よりさらに狭かった。
灯りを持ったローデンのあとを進むにつれ、壁に混じる青黒い筋が少しずつ増えていく。肩を傾けなければ岩に擦るような場所を抜けた先で、ローデンが足を止めた。
「この辺だ。最近はここを掘ってる」
レオナは壁へ手を近づけた。
青黒い筋が、岩の中へ斜めに伸びている。
触れてはいない。
それでも、さきほど手にした石と似た感覚が、さらに奥まで続いているように思えた。
「向こうにもある」
「分かるのか?」
「たぶん」
ローデンは壁を見た。
「なら掘ってみるか」
つるはしを振るった。
岩が欠けた。
さらに何度か削ったところで、返ってくる音が変わった。それまでの硬い音より、わずかに深い。
ローデンの手が止まる。
今度は軽く叩いた。
同じ音が返ってきた。
「向こう、空いてるな」
周囲の者が集まり、壁を少しずつ削っていった。
やがて指が入るほどの穴が開いた瞬間、そこから冷たい風が吹き抜け、手元の灯りが大きく揺れた。
「空洞だ」
穴を広げる。
人の頭が入るほどになったところで、ローデンが灯りを差し込んだ。
近くの岩肌だけが浮かび、その先は暗闇へ沈んでいる。
「でかいぞ」
レオナも穴から中を覗いた。
底は見えない。
向こう側の壁も遠く、灯りが届くのはほんの一部分だけだった。
その壁を、青黒い筋が何本も走っている。
ローデンが灯りを高く掲げた。
光の中をどこまで目で追っても、青黒い筋の端は見えなかった。
レオナは一度、自分の掌を見た。
それから、もう一度、暗闇の向こうへ目を戻した。




