第78話 止めない者
ハル城へ向かう道には、畑が続いていた。
鍬を振るオーガの隣で、ゴブリンが葉を摘んでいる。家の前では人間の女が布を干していた。その横を、籠を抱えたゴブリンが通り過ぎる。
女が何か言うと、ゴブリンが振り返って答えた。
「住んでるんだね」
「空いた家を使った。建てた家もある」
シグレが答えた。
「前にいた人は?」
「残った者も、出た者もいる」
城壁には積み直した跡があった。新しい石の隣が、また欠けている。
門の向こうから、灰色の角が現れた。
「レオナ」
声まで同じだった。
「うん。戻ってきた」
「見れば分かる」
グレイホーンは膝を折り、目を合わせた。
「十五年か。よく戻った」
レオナはグレイホーンの腕を見た。傷は残っていなかった。
「腕、もう平気なんだね」
「とうにな。まず食え」
***
豆と肉の入った椀を渡された。
レオナは匙ですくって口へ運んだ。少し濃い味がした。
「どうだ」
「おいしい」
「なら食え」
レオナはもう一口食べ、椀を膝へ置いた。
「来る途中で、ドルンから来た家族に会ったんだけど。麦を運んでて、ゴブリンの兵に縛られたって。お金を払って、ほどいてもらったって言ってた」
グレイホーンはシグレを見た。
「どこでだ」
「確かめる」
「知らなかったの?」
「全部が、ここへ届くわけではない」
シグレは椀を置いた。
「家へ押し入った者は俺が止めた。通る荷の税まで、やめさせたわけではない」
「お金を取るために縛ったなら、止めてほしい」
「その場にいたのか」
「あとで会った。手首に跡があったよ。お父さんを乗せた荷車だった」
グレイホーンが片手を上げた。シグレは口を閉じる。
「確かめさせる」
「ひどいことをしてたら、誰が罰するの?」
「わしが話を聞く。街にはシグレがおる。そのために話を持ってこさせるのだ」
レオナは匙を止めた。
「でも、あの人の話は来てなかったんだよね。シグレがいいと思ったら、ここには来ないでしょう」
シグレの眉が動いた。
「俺が許した話と、聞いていない話を一緒にするな」
「そうは言ってないよ。人間が嫌だと思っても、魔物が決めるんだよね」
「前は逆だった」
短い声だった。
レオナは匙を椀へ戻した。
「前のことも嫌だったよ。檻にいた魔物も。私が測られたことも」
少し間を置いた。
「エリナが死んだことも」
カヤの手が止まった。
グレイホーンは、その名を繰り返さなかった。椀に触れていた指が離れる。
「忘れておらぬ」
「私も忘れてないよ」
「だから、二度とあのようにはさせぬつもりだ」
レオナは、荷車の男の手首に残っていた縄の跡を思い出した。何か言おうとしたが、グレイホーンが先に口を開いた。
「わしが王を殺したあとも、人間は兵を出した。春にも秋にも来た年がある。来ぬ年には、別の倉が焼かれた」
「兵を出したことは、否定しないよ」
カヤが言った。
「でも、街に住んでる人が、みんな兵を出したわけじゃない」
「分かっておる」
「分かってるなら、同じにしないで」
グレイホーンは答えなかった。
窓の外で、オーガが城壁の欠けたところへ新しい石を運んでいた。
「それで、街を取ったの?」
「取ったのはシグレたちだ。わしは止めなかった」
「どうして?」
「森へ退けば追われた。街を避ければ、そこから兵が来た。こちらだけが退き続ければ、いずれ退く場所がなくなる」
「でも、そこに住んでた人は?」
「残った者もおる。出た者もおる」
「出たくなかった人もいるよね」
「ああ」
グレイホーンは否定しなかった。レオナは返事を待ったが、続きはなかった。
「だったら、兵をどけてほしいって言われたら?」
「今は退けぬ。理由を聞いても、人間の軍が戻ってくるなら、街の仲間を残して退くことはできぬ」
レオナは椀へ目を落とした。
「そこに住んでる人が嫌だって言っても、最後に決めるのは魔物なんだ」
「……今はな」
「それ、前と同じじゃない?」
「同じだと?」
グレイホーンの声が強くなった。シグレが顔を上げる。
「わしらは、同じことをせぬために戦った」
「……うん。だから、こんな話になると思わなかった」
レオナは膝の椀を押さえた。
「兵に嫌だって言っても、その兵をどけるかはグレイホーンたちが決めるんだよね」
広間が静かになった。
グレイホーンの手が、膝の上でゆっくりと握られた。
「なら、おぬしはどうする」
「……分からない」
「わしらが退いたあと、また兵が来れば?」
「また止める」
「おぬしがおらぬ時は?」
レオナは顔を上げた。
答えが出なかった。
「十五年、おぬしはいなかった」
「……うん」
「待っておるだけでは、守れぬ」
レオナは唇を開いたが、言葉が出なかった。グレイホーンもしばらく黙っていた。
「取った街を、人間が返せと言ったら?」
レオナは窓の外を見た。
道の向こうで、人間の女が布を取り込んでいる。その少し先では、ゴブリンが籠を抱えて家へ入った。
「今いる人を追い出して返すのは、違うと思う」
「魔物を追い出さねば、取り戻したことにならぬと言えば?」
「それでも、追い出すのは違うよ」
「人間の兵が来て、魔物を捕らえ始めたら?」
「止める」
「おぬしを助けると言いながら、その後ろでやっていてもか」
「それも止める」
グレイホーンは何も言わなかった。
レオナは、その目を見たまま続けた。
「グレイホーンたちが人間を追い出すなら、そっちも止める」
「シグレが止めるなと言うてもか」
シグレが顔を上げた。
「その場で話す。でも、傷つけられてる人を、待たせたくない」
「わしでも?」
レオナは椀を床へ置いた。
「グレイホーンでも」
赤い目は逸れなかった。
しばらくして、握られていた手が開いた。
「……そうか」
グレイホーンの視線が、壁際に置かれた剣へ移った。フィンから返されたものだった。
「身体は、前のように動くか」
「まだ、ちゃんとは試してないよ」
グレイホーンは剣を見たまま、少しだけ黙った。
「そうか」
グレイホーンは剣から目を離し、窓の外を通る兵を見た。それ以上は尋ねなかった。
***
門で、シグレが干し肉の包みを渡した。
「道で食え」
「ありがとう」
グレイホーンも門まで来た。
レオナが荷へ包みを入れるのを見て、グレイホーンが言った。
「戻ってきたばかりだ。休めるときに休め」
「うん」
少し間を置いて、グレイホーンは坂の下へ目を向けた。
「これから、人間がおぬしのところへ来るだろう」
「私のところに?」
「ああ」
「なんで?」
「わしを止めたい者は多い。おぬしが戻ったと知れば、放ってはおかぬ」
レオナはグレイホーンを見上げた。
「人間の味方になるって言ったわけじゃないよ」
「それでよい」
「何が?」
グレイホーンは答えず、坂の下へ目を向けた。
「街を返せと言う者もおる。魔物を追い出せと言う者も出るだろう」
「……うん」
「わしらを止めた、そのあとも見よ」
レオナは少し考えてから、頷いた。
坂の下には畑と家があり、その向こうにも屋根が続いている。
しばらく、その景色を見ていた。
「……王様を殺したのは、本当なんだね」
「ああ。わしが殺した」
「……そっか」
それ以上は聞けなかった。
カヤと坂を下り、何歩か進んでから振り返る。
「会えてよかったのは、本当だよ」
グレイホーンは欠けた門の前にいた。
「わしもだ」
レオナは前を向いた。
もらった包みが、荷の中で背中に触れた。




