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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第九章

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第77話 待っていた手

 カヤが来たのは、日が傾き始めたころだった。


 レオナが粉挽き場の戸口へ出ると、荷台から女が降りようとしていた。短くした髪を結び、荷車の縁へ手を掛けている。


「カヤ」


 女が顔を上げた。


 目元に細い皺があった。それでも、レオナを見て口を少し開ける顔は、知っていた。


 カヤはすぐ前まで来て、レオナの肩へ両手を置いた。


「痛くない?」


「うん」


「息は?」


「ちゃんと吸えるよ」


 背中へ手が回った。上着から乾いた草の匂いがする。


「紙、見たよ」


「うん」


「ごめ――」


「あとで」


 カヤの腕に力が入った。


「今は、ちょっとこのまま」


 レオナも、カヤの背へ腕を回した。


 カヤの肩が一度だけ震えた。レオナは何か言おうとして、やめた。カヤの腕が緩むまで、そのまま抱き返していた。


***


 石切場へ向かう荷車には、粉挽き場から引き取った薬の空き箱が積まれていた。


 御者はセイルだった。


「昨日、炉を見たばかりだったんだ」


「水、セイルが替えてくれたの?」


「ああ。近くを通ったからな」


「ありがとう」


 セイルは前を向いたまま頷いた。


 荷車は、広くなった道を森の方へ進んでいく。


 レオナは道端に並ぶ切り株を見た。


「ここ、前はエルフの人がいたよね」


「ああ。今は、もう少し奥だ」


 向こうから人間の荷車が来た。御者がセイルへ手を上げ、セイルも返す。


「人間、ここまで来るんだ」


「道ができてからな」


「境目、変わったんだ」


「少しな」


「石切場って?」


「道を広げた頃に掘り始めた。あそこだ」


 木々の間に、低い屋根が見えてきた。


***


 切り出した石を運ぶための広場に、今は荷車が置かれていた。人間とエルフが車輪を外し、少し離れたところではゴブリンが薪を割っている。


 レオナは荷車を降りる前に、その光景を少し見ていた。


 杖をついた男が歩いてきた。顎に短い髭があり、髪には白いものが混じっている。


「フィン」


「はい」


「戻ってきたよ」


 フィンは杖を脇へ挟み、手を差し出した。レオナが握ると、その上へもう一方の手が重なる。


「遅いです」


「うん」


「知らせが来ても、顔を見るまでは信じられませんでした」


 レオナも握り返した。


 覚えていた手より、硬かった。


「……長かったです」


 フィンは、それ以上言わなかった。


***


 ネラは胸と腕を診た。


「身体は戻ってる。だからって、同じ使い方をしていいわけじゃないよ」


「……うん」


「痛くなったら、動かす前に教えて。そこだけは、今度は間違えないでね」


 診察が済むと、ネラはレオナの手を握った。


「おかえり」


「ただいま」


 前より細くなった手を、レオナは両手で包んだ。


 外ではフィンが若い術者へ図を渡していた。水路を確かめる仕事を任せているらしい。


 若い術者を見送ると、フィンは建物へ戻り、剣を持ってきた。


「預かっていました」


 柄には新しい革が巻かれていた。


「直してくれたの?」


「ザクさんたちに頼みました。待つ間に錆びさせたら、戻ったあなたに渡せないでしょう」


「うん。困る」


 剣を受け取ると、カヤが立ち上がった。


「エリナのところ、行く?」


「うん」


***


 石切場の裏から、細い道が森へ続いていた。


 広い荷車道とは違い、人が二人並べばいっぱいになる。しばらく歩くと木々が途切れ、小さく開けた場所に出た。


 エリナの名前を刻んだ石が、一つ立っていた。その前だけ、草が短かった。


 レオナは墓の前へしゃがんだ。


「戻ったよ」


 エリナは、レオナが痛くないと言っても、いつも自分の手で確かめようとした。今なら何と言われるだろう。


 声にしてから、それ以上の言葉が出なかった。


 カヤも何も言わなかった。


 風が吹くと、木の葉が擦れた。


 レオナは墓石へ手を置いた。


 冷たかった。


 立ち上がろうとして、少し離れたところに、もう一つ小さな石があるのに気づいた。


「……ラウル」


「身体は戻らなかったから、名前だけ刻んだ」


「……カヤが?」


「うん。怒ってるよ。今でも」


 カヤは石の上の葉を払った。


「仕事が終わると、あいつが人数を確かめてたんだよ。私が何か見てて遅れると、戻ってきて、早くしろって」


 払った葉が石の脇へ落ちた。カヤはもう一枚へ手を伸ばし、止めた。


「だから、すぐ戻るって言われたときも、待ってた」


 レオナは自分の左手首へ目を落とした。そこに、もう跡はなかった。


「私も」


 カヤはしばらく黙っていた。やがて、残った葉を払う。


「でも、一緒にいたことまでなくならないから」


 レオナはラウルの名前に触れ、エリナの墓の前へ戻った。カヤが払った葉は、小さな石の脇に落ちていた。


***


 石切場へ戻ると、荷を下ろす者たちの間を、大きな魔物が歩いてきた。


「シグレ」


 シグレが足を止める。腰の刀は覚えているものと同じだった。


「戻ったのか」


「うん」


 シグレはレオナをしばらく見ていた。


「胸は」


「もう痛くないよ」


「……そうか」


 シグレはそこで一度、目を伏せた。次に顔を上げたときには、いつもの表情に戻っていた。


 シグレの後ろで、ゴブリンが革袋をセイルへ渡した。乾燥した薬草が覗いている。


「シグレ、軍を率いてるの?」


「聞いたか」


「ドルンから来た人間に」


 シグレはレオナの剣を見た。


「人間の軍が城へ来る。俺たちは、その軍を出している街へ行った」


「麦を運んでたら、ゴブリンの兵に縛られたって人間がいたよ。お金も取られたって」


「通る荷から税は取る」


「縛るのも?」


「それは違う。むやみに人間へ手を出すのは禁止だ」


「守らない兵もいる?」


「いる。昨日も一人止めた。人間の家から荷を奪おうとしていた」


 レオナは、薪を運ぶゴブリンたちを見た。


「街の人間は、追い出してないの?」


「追い出してない。炉も店もそのままだ」


 少し離れたところで、人間の男がゴブリンへ縄を投げた。受け取ったゴブリンが、それを荷車へ結びつける。


「シグレは、これでいいと思ってる?」


「何がだ」


「人間の街に兵を置くこと」


 シグレは少し黙った。レオナの顔を見てから、薪を運ぶゴブリンへ視線を移す。


「お前が戻ったら、聞かれると思っていた」


「じゃあ、答えてよ」


「俺が兵を引けば、残った魔物が襲われる。今は引けん」


 レオナは待ったが、シグレは続きを言わなかった。


「グレイホーンに会いたい」


「城にいる。明日の朝、俺も戻る」


「一緒に行っていい?」


「来ればいい」


***


 カヤの家には、使い込んだ鍋と、形の揃わない器があった。


 カヤは火を起こす前に、戸口の籠から薬の包みを二つ取り分けた。片方へ印をつけ、残りを棚へ戻す。


「手伝う?」


「じゃあ、その包みは戸口へ置いて。朝、取りに来るから」


 レオナが運ぶと、カヤはすでに鍋へ水を入れていた。棚の端の器を、見ずに取る。


 窓の下に敷物が広げられ、レオナは剣を壁際へ置いた。


「明日、私も行くよ。朝の薬は預けてから出るから、少し待ってね」


 カヤが言った。


「グレイホーン、変わった?」


「変わってないところもある」


 カヤは灯りへ伸ばしかけた手を止めた。


「会って、話してみて」


 横になってから、カヤの指がレオナの手へ触れた。何かを確かめるように、一度だけ動く。


 レオナは目を閉じたまま、その手を握り返した。


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