第77話 待っていた手
カヤが来たのは、日が傾き始めたころだった。
レオナが粉挽き場の戸口へ出ると、荷台から女が降りようとしていた。短くした髪を結び、荷車の縁へ手を掛けている。
「カヤ」
女が顔を上げた。
目元に細い皺があった。それでも、レオナを見て口を少し開ける顔は、知っていた。
カヤはすぐ前まで来て、レオナの肩へ両手を置いた。
「痛くない?」
「うん」
「息は?」
「ちゃんと吸えるよ」
背中へ手が回った。上着から乾いた草の匂いがする。
「紙、見たよ」
「うん」
「ごめ――」
「あとで」
カヤの腕に力が入った。
「今は、ちょっとこのまま」
レオナも、カヤの背へ腕を回した。
カヤの肩が一度だけ震えた。レオナは何か言おうとして、やめた。カヤの腕が緩むまで、そのまま抱き返していた。
***
石切場へ向かう荷車には、粉挽き場から引き取った薬の空き箱が積まれていた。
御者はセイルだった。
「昨日、炉を見たばかりだったんだ」
「水、セイルが替えてくれたの?」
「ああ。近くを通ったからな」
「ありがとう」
セイルは前を向いたまま頷いた。
荷車は、広くなった道を森の方へ進んでいく。
レオナは道端に並ぶ切り株を見た。
「ここ、前はエルフの人がいたよね」
「ああ。今は、もう少し奥だ」
向こうから人間の荷車が来た。御者がセイルへ手を上げ、セイルも返す。
「人間、ここまで来るんだ」
「道ができてからな」
「境目、変わったんだ」
「少しな」
「石切場って?」
「道を広げた頃に掘り始めた。あそこだ」
木々の間に、低い屋根が見えてきた。
***
切り出した石を運ぶための広場に、今は荷車が置かれていた。人間とエルフが車輪を外し、少し離れたところではゴブリンが薪を割っている。
レオナは荷車を降りる前に、その光景を少し見ていた。
杖をついた男が歩いてきた。顎に短い髭があり、髪には白いものが混じっている。
「フィン」
「はい」
「戻ってきたよ」
フィンは杖を脇へ挟み、手を差し出した。レオナが握ると、その上へもう一方の手が重なる。
「遅いです」
「うん」
「知らせが来ても、顔を見るまでは信じられませんでした」
レオナも握り返した。
覚えていた手より、硬かった。
「……長かったです」
フィンは、それ以上言わなかった。
***
ネラは胸と腕を診た。
「身体は戻ってる。だからって、同じ使い方をしていいわけじゃないよ」
「……うん」
「痛くなったら、動かす前に教えて。そこだけは、今度は間違えないでね」
診察が済むと、ネラはレオナの手を握った。
「おかえり」
「ただいま」
前より細くなった手を、レオナは両手で包んだ。
外ではフィンが若い術者へ図を渡していた。水路を確かめる仕事を任せているらしい。
若い術者を見送ると、フィンは建物へ戻り、剣を持ってきた。
「預かっていました」
柄には新しい革が巻かれていた。
「直してくれたの?」
「ザクさんたちに頼みました。待つ間に錆びさせたら、戻ったあなたに渡せないでしょう」
「うん。困る」
剣を受け取ると、カヤが立ち上がった。
「エリナのところ、行く?」
「うん」
***
石切場の裏から、細い道が森へ続いていた。
広い荷車道とは違い、人が二人並べばいっぱいになる。しばらく歩くと木々が途切れ、小さく開けた場所に出た。
エリナの名前を刻んだ石が、一つ立っていた。その前だけ、草が短かった。
レオナは墓の前へしゃがんだ。
「戻ったよ」
エリナは、レオナが痛くないと言っても、いつも自分の手で確かめようとした。今なら何と言われるだろう。
声にしてから、それ以上の言葉が出なかった。
カヤも何も言わなかった。
風が吹くと、木の葉が擦れた。
レオナは墓石へ手を置いた。
冷たかった。
立ち上がろうとして、少し離れたところに、もう一つ小さな石があるのに気づいた。
「……ラウル」
「身体は戻らなかったから、名前だけ刻んだ」
「……カヤが?」
「うん。怒ってるよ。今でも」
カヤは石の上の葉を払った。
「仕事が終わると、あいつが人数を確かめてたんだよ。私が何か見てて遅れると、戻ってきて、早くしろって」
払った葉が石の脇へ落ちた。カヤはもう一枚へ手を伸ばし、止めた。
「だから、すぐ戻るって言われたときも、待ってた」
レオナは自分の左手首へ目を落とした。そこに、もう跡はなかった。
「私も」
カヤはしばらく黙っていた。やがて、残った葉を払う。
「でも、一緒にいたことまでなくならないから」
レオナはラウルの名前に触れ、エリナの墓の前へ戻った。カヤが払った葉は、小さな石の脇に落ちていた。
***
石切場へ戻ると、荷を下ろす者たちの間を、大きな魔物が歩いてきた。
「シグレ」
シグレが足を止める。腰の刀は覚えているものと同じだった。
「戻ったのか」
「うん」
シグレはレオナをしばらく見ていた。
「胸は」
「もう痛くないよ」
「……そうか」
シグレはそこで一度、目を伏せた。次に顔を上げたときには、いつもの表情に戻っていた。
シグレの後ろで、ゴブリンが革袋をセイルへ渡した。乾燥した薬草が覗いている。
「シグレ、軍を率いてるの?」
「聞いたか」
「ドルンから来た人間に」
シグレはレオナの剣を見た。
「人間の軍が城へ来る。俺たちは、その軍を出している街へ行った」
「麦を運んでたら、ゴブリンの兵に縛られたって人間がいたよ。お金も取られたって」
「通る荷から税は取る」
「縛るのも?」
「それは違う。むやみに人間へ手を出すのは禁止だ」
「守らない兵もいる?」
「いる。昨日も一人止めた。人間の家から荷を奪おうとしていた」
レオナは、薪を運ぶゴブリンたちを見た。
「街の人間は、追い出してないの?」
「追い出してない。炉も店もそのままだ」
少し離れたところで、人間の男がゴブリンへ縄を投げた。受け取ったゴブリンが、それを荷車へ結びつける。
「シグレは、これでいいと思ってる?」
「何がだ」
「人間の街に兵を置くこと」
シグレは少し黙った。レオナの顔を見てから、薪を運ぶゴブリンへ視線を移す。
「お前が戻ったら、聞かれると思っていた」
「じゃあ、答えてよ」
「俺が兵を引けば、残った魔物が襲われる。今は引けん」
レオナは待ったが、シグレは続きを言わなかった。
「グレイホーンに会いたい」
「城にいる。明日の朝、俺も戻る」
「一緒に行っていい?」
「来ればいい」
***
カヤの家には、使い込んだ鍋と、形の揃わない器があった。
カヤは火を起こす前に、戸口の籠から薬の包みを二つ取り分けた。片方へ印をつけ、残りを棚へ戻す。
「手伝う?」
「じゃあ、その包みは戸口へ置いて。朝、取りに来るから」
レオナが運ぶと、カヤはすでに鍋へ水を入れていた。棚の端の器を、見ずに取る。
窓の下に敷物が広げられ、レオナは剣を壁際へ置いた。
「明日、私も行くよ。朝の薬は預けてから出るから、少し待ってね」
カヤが言った。
「グレイホーン、変わった?」
「変わってないところもある」
カヤは灯りへ伸ばしかけた手を止めた。
「会って、話してみて」
横になってから、カヤの指がレオナの手へ触れた。何かを確かめるように、一度だけ動く。
レオナは目を閉じたまま、その手を握り返した。




